2025年11月9日礼拝 説教要旨

大変な思い違い(マルコ12:18~27)

松田聖一牧師

 

3日ほど前のことです。この前はハエでしたが、今回はハチです。丁度日干しにしていた布団や毛布を取り込もうとしまして、毛布に手を突っ込んだら、いた!となりました。ハチが1匹、その毛布の中に潜んでおりまして、それで小指を刺されてしまったのですが、ハチも寒くなってきましたから、暖かい毛布の中に潜り込んでいたのだろうと思います。ハチの立場、気持ちを考えれば、良い気持ちで日向ぼっこしていたところに、いきなり手をつっこんだわけですから、びっくりしたのでしょう。そんな具合で、こちらは刺されてしまったので、すぐに刺されたところを水で冷やして、中のものをぎゅっと絞るようにして出しながら、しばらく様子を見ておりましたら、多少はれた程度で収まりましたので、それはそれでよかったと思います。と同時に良かったもう一つのことは、その日は朝から頭痛で、ずっと痛い状態だったのが、ハチに刺された途端に、治りまして、自分流の解釈ですが、毒を持って何とかという感じになりました。さて、そのハチに刺された時のことですが、毛布の中に、ハチがいるとは思っていません。いないと思っています。いるはずがない!いない!という前提です。そういうことを意識もしていません。ところが、そこにハチがいるということが分かった時に、初めて、ハチはいないはずだ!といないと思っていたのに・・・という「ない」という言葉が出て来た自分が、そこにいました。

 

つまり、ないと言えるのは、そこに本当にないから、ないと言えるのではなくて、逆説的なことですが、あるに対して、ないという言葉が、出て来るのではないでしょうか?そしてないと言えば言うほど、実は、そこにあるということを証明していくことにもなるんです。またそこにあってほしいという願い、きっとあるという希望にも繋がっていくのではないでしょうか?例えば、物を捜す時がありますね。探している時、こう言いますよね。「ない、ない」って。でもないと言いながら、ないことを期待しているのではなくて、あることを期待していますよね。あってほしい、見つかってほしい、きっと、ある、という希望があります。だから、ないないと言いながら、捜していくものだと思います。

 

それは、サドカイ派の人々が、復活はない、と言っていることと、復活ということとの関係もそうです。というのは、サドカイ派の人々は、「復活はないと言っている」のに、「イエスのところへ来て尋ねた」のは、イエスさまに、復活について、神さまの考え、神さまの意図を尋ねているからです。イエスさまに神さまの考えを尋ねるということは、それまで彼らが言っている復活はないという、彼らのその答えに対して、この時の彼らは、本当に、復活はないのか?いや復活はあるのではないか?いやあってほしい、と受け取っているからではないでしょうか?そしてその問いを、誰か他の人にではなくて、イエスさまに向けているということは、イエスさまには復活がある、ということを、彼らのどこかで受け取っているからこそ、ない、といっているにも関わらず、「イエスのところに来て尋ねた」ということに現れているのではないでしょうか?

 

そのことが、19節から始まる「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」という、決まりから、イエスさまに「長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、7人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。」と続く言葉にも、現れているんです。

 

ここで、兄がなくなったら、その兄と結婚していた兄嫁は、その兄の弟と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならないという決まりがあるのは、その家を絶やしてはいけないからです。だから、その長男と結婚していた元兄嫁は、その弟と結婚することになります。ところが子どもさんがないままに、その弟さんがなくなってしまうと、その次の弟、三男と結婚しますが、また同じことが起きると、四男と結婚し、四男にも、五男、六男、七男においても同じことが起きると、次々と兄弟を変えて、結婚するということになります。しかし、次々と結婚したその兄弟は全員、跡継ぎを残さないまま、妻を残して先に亡くなってしまうんです。

 

そして最後にその女性も死にましたと言って、復活の時、亡くなった7人の息子たちが、復活すると、「その女はだれの妻になるのでしょうか」と、イエスさまに尋ねるこの問いは、そもそも復活するという前提で、イエスさまに尋ねている問いです。復活はないということであれば、「だれの妻になるのでしょうか」という、問いは生まれません。復活があると言うことに基づいているから、じゃあ誰の妻になるのですか?が出て来るんです。

 

でも彼らは、復活はないと言っているんです。一度死んだ者が復活することはないと言っているのに、尋ねているということは、この問いにある「ある人」も、ある人の兄の弟も、三男、四男、五男、六男、七男も、そしてそれぞれと結婚したこの女性とも、自分たちと重ねながら、復活とはどういうことなのか?なぜ復活があるのか?その答えが欲しいということではないでしょうか?と同時に、なぜ死んでしまったのか?なぜ死ななければならなかったのか?という、問いがありながらも、その問いに対する答えを、彼らが持っていないからではないでしょうか?

 

というのは、死にました、と言うこの言葉には、殺されたとか、殉教したとか、枯れて死んだという言う意味があるからです。その具体的な理由は分かりませんが、本来生きているはず、死ぬはずがないのに、何かが起こって、死んでしまったということになりますから、長男に始まる、7人の兄弟と、次々と結婚したこの女性にとっても、7人の息子さんたちの家族や、両親にとっても、息子たち、夫たちが、殺されたという出来事は、信じられないことですし、受け入れられないことです。だから、残された者にとっては、なぜ私の夫が、何でうちの息子が…、どうして?なぜ1人だけではなく、7人も、殺されなければならなかったのか?という問いと同時に、生きていてほしかった、死なないでいてほしかった!という願いもあるのではないでしょうか?

 

ある方が、息子さんを突如なくされた時の思いを、こうおっしゃっておられました。

 

14年前、最愛の息子が突如天に召された時、その死を受け入れるのに、とても時間がかかりました。26歳という若さで夢と希望に燃え、これから実社会に船出しようとしていた息子の無念を思い、加えて親としてどれだけの面倒を見て来たのかと、責めと後悔で心の中は、悲しみの涙で一杯でした。人々からの慰め、励ましの言葉も空々しく、時には憎らしく思う、自分が哀れで悲しく、今まで信じて来たことは何だったのか?神さまは、なぜこのようなことをされるのか?このことが時にかなってなぜ美しいのか?何度も何度も神さまに不平不満を言い続けながら、重い足を運びながら、礼拝に行きました。この心の重荷を軽くしていただきたい、この苦しみから救い出してほしい、あの十字架の御業の愛をなして下さった神さまから、この試練より助け出して頂こうと祈りました。

 

親にとって、自分より子どもが先に逝ってしまうなんていうことは、耐えられません。それは、結婚された彼女にとってもそうです。どうしてですか?神さまはなぜこのようなことをされるのですか?このことが時にかなって、なぜ美しいのですか?という、不平不満が出て来て当然です。それがサドカイ派の人々の問いには、7人も続くんですから、ますます、どうして?なぜ?が増えていき、分からないことばかりになってしまうのではないでしょうか?

 

しかしイエスさまは、そのどうして?なぜ?という、分からないでいることを、分からないまま、分からないなりに、尋ねた問い、ぶつけていく彼らのその問いを、しっかりと、受け取って下さっているんです。でも、それは彼らにとって、サドカイ派のこれまでの枠を越えようとすることですから、ある意味で、これまでのサドカイ派としての考え方を捨てていくことにもなります。それは、ないから、あるへと転換することですし、ないから、あるへと脱出する、ということでもあると思います。ないから、あるへ転換すること、脱出することは、それまでとは全く違う方向に船出するようなものですから、彼らにとっては、大変で、危険なことでもあります。

 

でもイエスさまは、そのことをよくやったとか、素晴らしいことだとは言わないんです。ただ「あなたたちは聖書も神の力もしらないから、そんな思い違いをしているのではないか」とおっしゃられるのは、彼らが復活はないと言いながらも、復活があると言う前提で問うていることが、聖書も神さまの力も知らないで、問うていることについて、イエスさまは、思い違いだと言い、大きな間違いだとおっしゃっているんです。

 

間違った答えを言ったから、間違いと言っているのではありません。ただ聖書も神さまの力も、知らないことが間違いなんだということなんです。そういうことですから、聖書も神さまの力も、知らないだけなんだから、これから知っていけばいいんです。そのために聖書があるんですから、聖書はどんなものなのか?聖書には何が書かれているのか?神さまの力とは、どういうことなのか?を、聖書を通して知ることができるように、して下さるんです。そういう意味で、神さまのことを知ることができる方法、手段は、聖書なんです。聖書の言葉、神さまの言葉を通して、神さまの方から、聖書には何が書かれているか?を説き明かして下さり、それまで知らなかった、分からなかった神さまのことを、分かるようにしてくださるんです。

 

なぜならば、神さまは死んだ者の神さまではなくて、生きている者の神さまであり、その神さまは、何もなくなって、存在すらもない神さまではなくて、今も共に生きて、働いておられる神さまだからです。だからこそ、イエスさまは、聖書を通して、ないから、あるものへと造り変えて下さる神さまであるということを、知ら「ない」から、知ることができるようにしてくださるんです。

 

京都に同志社大学があります。この同志社大学は、新島襄が設立したことに始まりますが、先日、大学に行きました折、同志社創立140年記念「はじまりの地」という、今から10年前に出されたものを手にしました。その中に、新島襄が、どうしてキリスト教に触れ、また同志社を設立しようとしたのかということにも触れられていますが、まずは、新島襄は、幕末に、自由ということを知りたい、よりよく学問を知りたい、そしてキリスト教を学びたいという動機から、密出国をして、アメリカのボストンという町に辿り着きます。そこで、教会に通い、やがてアメリカの神学校で学び、そこで宣教師の資格を得ていきますが、アメリカからの宣教師として、日本に派遣されようとした時に、自分は日本に帰って自由と学問を、そして聖書を学べる英語塾を開きたいと人々に語ったその時、アメリカの教会の方々が、祈って献金をささげて下さり、それを基に、塾を開くことができるようになるんです。そのことを、新島襄は、函館にいる友人に書き送った手紙にこう記しています。

 

「日曜日ごとに聖書を教わります。すべての教師と生徒、また僕のことを知っている多くの人たちが、僕に興味を持ち、僕を愛してくれます。また中には僕を喜ばせるために物をくれます。けれども、彼らがこうしたことをするのは、僕の為というよりは、主イエス・キリストのためなのです。」

 

そしてその塾が開校したその最初の日、集まったのは6名の生徒と教師2人だけでした。でもその時、祈りの時を持ちました。その祈りから、現在の同志社が始まっていくんです。今は大きな大学になっていますが、そういうことになるとは、密出国をした時にも、神学校で学んでいる時にも、宣教師となって日本に帰って来た時にも、全然分からなかったと思います。しかし神さまは、人には何も分からなくても、何があるのかわから「ない」、何も「ない」とさえ見えるような、何の兆しもない、というところから、「ある」と約束されたことを、あるものとして、造り上げてくださるんです。

 

復活というのは、そういうことなんです。私たちにとって、何もない、ない、と本当にそう受け止めていても、神さまは、私たちにとっての、ないが、どれほど、ないないだらけであったとしても、ないところから、あるを与え、あるを生み出してくださるんです。そのために神さまは生きて今も働いておられるんです。生きて今も尚あるお方として、聖書を通して、私たちに、あるを与え続けておられるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(11月9日)大変な思い違い(マルコ12:18~27)