2025年11月2日礼拝 説教要旨
小さな命(マルコ7:14~23)
松田聖一牧師
つい3日ほど前のことです。教会でいろいろとしておりましたら、ハエがぶ~んと飛んで来ました。部屋の中で、あちこちぶ~んと飛びまわっています。その内に、手やら腕に止まったり、目の前をぶ~んと音を立てていきますので、小さなハエでも、どうしても気が取られてしまっていましたら、頭の上でぶ~んと音を立てて飛んできたかと思いきや、頭の上にハエが止まりました。そこで、頭の上についているハエを叩きたくなりまして、手を挙げて、頭に止まっているハエを叩こうとしましたら、相手もつわものです。瞬時にまた飛んでしまい、叩こうとしたその手で、そのまま自分の頭を叩いてしまいまして、痛い思いと悔しい思いをしました。その通り、ハエは、自分の外から入ってきます。そのハエを何とかしよう、何とかしたい、という、自分の気持ちから出たハエ叩きは、見事に失敗し、結局は自分で自分を叩いてしまったということですが、
この出来事は、イエスさまの言われた「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」ということと、同じことではないかと思います。というのは、ここにある「人」と言う意味は、「その人」と言う意味ですから、その人から出て来るものが、その人を汚すということになりますので、同じ人の中で起きた出来事です。その結果、外から来て、ぶ~んと飛びまわり、頭の上に止まったハエが、頭の中まで入って来ないのに、その同じ人の中から、そのハエをなんとかしたい、ハエを叩きたいという、思いが出て来て、何とかしようとしたら、結局同じその人の頭、自分の頭を叩いてしまったという、ブーメランのように投げたものが、自分に返ってくることと、同じようになってしまうんです。
それはハエに対する思いや、ハエ叩きだけではなくて、生きている間、いろいろなことで、自分の中から出て来るものが、自分を汚すということが、あるのではないでしょうか?それは痛みであったり、悩みであったり、傷つけようとしたりすることだけでなく、いろいろあると思います。
そのことを、イエスさまは、人間の心から出て来るものとして、「悪い思い」があり、「みだらな思い、盗む、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」に加えて、「など」とおっしゃるということは、これ以外にも山のように悪い思いがあるということを、この「など」にも、はっきり現わしておられるのではないでしょうか?
その通りですね。例えば、ねたみとか、悪口ということについて、振り返ってみましょう。ねたむ時や、悪口を言う時には、相手がいますね。その相手に向かって、ねたんだり、悪い思いになったり、悪口を言ったりする時、1つのことだけ思うでしょうか?ひと言で終わるでしょうか?そうではないですね。1つでは終わりません。芋づる式に、次から次へと増えてしまうことがあるのではないでしょうか?また、売り言葉に買い言葉という言葉のように、だんだんエスカレートしていくものではないでしょうか?しかしそういうことをしている時、その時の自分自身はどうでしょうか?心地良いでしょうか?すがすがしい気持ちになるでしょうか?そんなことはありませんね。こんなことに時間を使うなんて‥‥一体自分は何をやっているんだろう?と、ねたんでいる自分、悪口を言っている自分が、心地良くなれるのではなくて、いやな思いをずっと抱えてしまいます。辛く、悲しくなります。空しくなることもあるかもしれません。同じ時間を、嫌な気持ちではなくて、気持ちの良い時間として使いたいと、どこかで願っていくのではないでしょうか?
でも実際には、なかなかうまくはいかないものです。どんなに悪い思いを持つまい、言うまい、と思っていても、相手によっては、また内容によっても、悪い思いが付きまとい、ついつい我儘が出てしまいます。そんな自分の中から出たものが、自分に帰って来てしまうので、嫌な思いを引きずってしまうこともあると思います。
じゃあそういうことが、先に召された方々と、家族との関係、私との関係はどうだったか?その時、自分はどうだったか?というと、関係が近ければ近いほど、お互いにいろいろなことがあったと思います。
そんな中で、その人は、神さまの許に召されて行きました。それは命を与えて下さった、神さまのもとに帰ることができたということでもあります。それ自体は、その人にとって、帰る場所に、ちゃんと帰ることができたということですし、神さまのもとで、悲しみも、苦しみも、悩みも、煩わしいことからも、痛みからも、完全に解放されて、完全な、最高なところで神さまといつも共にあって、いつも讃美歌を歌い、礼拝をささげています。いつも完全な礼拝が、そこにあります。そういう意味では、召された方々は、一番いいところに今おられるんです。
しかしその一方で、残された者にとっては、素直に、良いところに行ったことを、嬉しいと思えるのか?良かったと、もろ手を挙げて言えるのか?召されたことを、心から受け入れることができるのか?というと、必ずしもそうではないと思います。もう一度帰って来てほしい、もう一度会いたい、一緒にご飯を食べたり、もう一度しゃべりたい、もう一度笑い合いたい、そんな思いと願いがあるのではないでしょうか?テレビ番組で、亡くなられた方々を紹介する番組だったと思いますが、こんなタイトルでした。「あの人に会いたい」その通りです。あの人に会いたい!もう一度会いたい!これもまた自然なことです。
と同時に、その思いとは全く逆の、二度と会いたくない、関わりたくないということも、ないとは言えません。またそういういろいろな思いがある、残された者にとっては、本人は天国に行けて良かったかもしれないけれど、残された後のことで、どれだけ大変だったか?どれだけ寂しい思いをしたか?どれだけ辛い思いをし、傷ついて来たか?という思いもあるんです。でもその思いを、分かっていただこうとしても、周りにはなかなか伝わりません。分かっていただけない辛さや、悔しさもあります。その気持ちは、先に神さまのもとに帰られた、その人に、どんなに伝えようとしても、その手段がありません。
では召された方々は、残された者への思いを、何も持たなかったかと言うと、決してそうではありません。お元気だった時には、お互いにいろいろあったとしても、これから先、自分が、家族と別れていくこと、家族が、自分と別れなければならないということを、その人なりに受け取って、自分がこれからどうなっていくかという、不安と恐れを抱きながらも、残される者に対して、いろんなことを思い、あるいは言ってきたことも、あるのではないでしょうか?
神学校を卒業して初めての教会で、お一人の方に出会いました。既にその時ご病気で入院中、特に治療がなされることなく、静かにベットに横になっておられました。そこで一緒に讃美歌を歌い、祈ると言う時を過ごしたことでしたが、いつも、自分が亡くなった後、残された家族のために、ベットの上で祈っておられました。「残された家族が寂しい思いをしなくてもいいように、神さま、どうぞお守りください~」明け方からずっと祈っておられました。そんなある真夜中のこと、電話が鳴りまして、何だろうと思って、出ましたら、その方が電話口で叫んでいました。「もしもし、もしもし、祈ってください!」その声は、それまでとはまるで違う声でした。自分が死ぬと言うことに対する、言葉では言い尽くせない恐れ、不安、その思いが伝わってきました。「もしもし、祈ってください!」そこで電話口で祈ったことでしたが、その翌日から意識がなくなり、やがて召されていかれました。
自分がいよいよ天国に行くと言う、その時、恐れと不安に取り囲まれていくことと思います。それは想像できないような、孤独の只中にあると言えるのかもしれません。
そういうものを誰もが持っているのではないでしょうか?イエスさまは、たとい、良いことばかりではなく、悪い思いも、悪い言葉も、悪い行いも、積み重ねてこられたのが、その人の生き方であったとしても、「外から」とか「外に」という、外ということをおっしゃられるのは、その外と言う意味が、イエスさまのことであり、イエスさまが、その外で十字架にかかり、その十字架の上で、成し遂げて下さった赦しを指しているんです。だからこそ、どんな人生、どんな関係が、お互いにあったとしても、イエスさまが、その外から来てくださり、外から入って下さり、そして外に出された時、イエスさまは、どんな悪いことも、悪い思いも、そのすべてを、取り除いて、外に出して下さるんです。その結果、「清められる」清いと宣言してくださるんです。
ホスピスチャプレン物語「癒されて旅立ちたい」というタイトルで、沼野尚美という先生の本があります。その中に、先生ご自身が、ホスピスで出会い、関わられた方々とのことが記されていますが、ホスピスにおられた一患者さんのことが紹介されていました。
「家族のために、悩んだり考えたり、心配したりはできます。他のことはできなくてもそれならできます。だから家族の一員として家族のために悩みたいのです。」病んでおられても、家族の一員としての務めを果たしたいと願われている、病める方の気持ちを大切にしたいものです。
30代のFさんは、毎日見舞いにやってくる夫から、子供たちの話を聞くのが楽しみでした。子どもたちは週末だけお母さんに会いにやってくるのですが、半日は夫だけがFさんを見舞っておられました。夫が、子供たちの様子を伝えられ、Fさんは時には喜び、時には悩んでおられました。「小学校2年生の娘が、学校で友達の物をこっそりと取ってしまうらしいの。夫から聞いてびっくりしたわ。やっぱり私が病気だから娘は淋しいのね。こんな時はどうしたらよいのかしら。」と、私はFさんから相談を受けました。私たちは娘さんへのアプローチを一緒に考えました。Fさんは、やがて娘さんが見舞いにやって来た時、心を込めて話してみたのです。「娘の心に届いたよ」と嬉しそうな笑顔で、Fさんは報告をしてくださいました。病んでいても、入院していても、母親として娘のことを悩み、娘のために何かができることを喜んでおられました。
しかし、状態が悪化したとき、いつものように子供たちの様子を伝える夫に向かって、Fさんは叫ばれたのです。「子どもたちの話はもうやめて!」実は、これが彼女の人生最後の言葉となりました。子どもたちのことがどうでもよくなったのではありません。愛してやまない子供たちのことすら考えられない日がやって来てしまったのです。子どもさんたちには、お母さんの最後の言葉を伏せました。その代わりに、どんなにお母さんが一人一人を大切に思い、病床中も愛し続けられたかをしっかりと伝えました。
病める方は、愛する家族のことを考え、家族のために悩むことができなくなる日まで、病床中にあっても、家族のために苦労したいと願っておられます。病んでおられても、入院されていても、自分の死と向き合っておられても、家族の一員として悩むことのできる働きが残されているのです。
イエスさまが、外から入って来られ、そして外に出される時、召された方々のいろいろな思いも、一緒に背負ってくださいます。そして最後まで悩むということも、赦して下さり、悩むことができなくなったことも、赦してくださり、残された者のためにできる最善のことを、その人がどんなに幼く、小さな命であっても、その人を通して、イエスさまは最後まで残して、与えて下さるのです。
そしてイエスさまは、残された者のいろいろな思いも、外から来て、外に出してくださいます。そこで、いろいろあっても、イエスさまはそのすべてのことを、清めて下さいます。
祈りましょう。
