2025年9月21日礼拝 説教要旨

一つのことを(マタイ18:10~20)

松田聖一牧師

 

先月持たれました夏のキャンドルコンサートでのことです。そのコンサートのために、演奏くださる方々が、教会を使ってリハーサルを何度もして下さいました。その中で、お一人の方は、教会に到着した時、玄関のところで、少々神妙になっておられ、こうおっしゃいました。「このまま入って良いんですか?」「いいですよ」「どうぞどうぞ」それでそろりそろり慎重に入りながら、「あの~ぼく、教会に来たのは、生まれて初めてなんです!」「そうなんですか~」「はいそうです!」「教会って、どなたも入っていいところですよ。また何かの機会にどうぞ~」そんなやり取りでしたが、その方にとって、生まれて初めて教会に来た!ということが、すごく印象に残ったのではないかと思います。そういう意味でも、いろいろな方が、教会に出入りいただく機会となり、何よりだったと思います。そういう切っ掛けというのは、数字で言えば、1ですね。よく0と1では全然違うと言われますが、それは0はいくら足しても、0のままでも、1は、1という小さな数字であっても、その1を足せば足すほど、1つずつ増えていきます。つまり、0ではなく、1であるということは、大きなことに向かって始まっていく、その始まりであり、その始めの一歩から、それまで知らなかったことに出会い、新しい世界が広がっていくということなんです。

 

そういう1について、イエスさまは一人の人に向けても、「これらの小さな者を1人でも軽んじないように」すなわち、その1人の人が、どんなに1という小さな者であっても、軽んじないように、問題にしないように、意に介さないように、そして恐れないように、注意して見なさい、とおっしゃられるんです。それが1つのこの言葉「軽んじないように、注意して見なさい」にあるんです。

 

ということは、イエスさまにとって、1人という小さな者が、なくてはならないものだからであると同時に、その1人の人は、私にとって、恐れる対象ではないということでもあるんです。ただですね、軽んじないようにという意味にある、「問題にしないように」「意に介さないように」ということと、「恐れないようにということ」とは、相いれない、別物のように受け止められます。また、どうして違う意味が、1つの言葉の中にあるのか?問題にしないようにすることと、恐れないようにすることが、どうつながっているのか、とも思います。

 

でもイエスさまは、別物と見えることを、軽んじないようにという、1つの言葉に、込めておられるのかというと、軽んじるということも、恐れるということも、それは、自分に対する、相手が軽んじる対象になっているとか、相手が、恐れのオーラ満載であるという、その相手のことを指して、どうこうおっしゃっているのではなくて、軽んじるとか、恐れるというのは、相手のことというよりもむし、その相手の前にいる、自分自身の、わたしのことだということを、示しておられるのではないでしょうか?

 

ある時に、大学の理工学部で教えておられる先生と、放射線についての話題になりました。その当時、放射線が、どれだけ怖いものか、恐ろしいものかということばかりが、クローズアップされて、報道等でされていましたから、何となく、放射線と聞くだけで、恐ろしい!という感覚があったように思います。ところが、その先生は、「放射線というのは、怖い、恐ろしいというイメージがありますけど、正しく恐れたらいいんですよ~」おっしゃられたのでした。「えっどういうことですか?放射線は恐ろしいものではないのですか?」と尋ねますと、「実はね、いろいろなところから、ありとあらゆるところから、放射線は出ているんです。例えば、花崗岩という石がありますね。その石からも、わずかな放射線が出ています。だから、六甲山なんかはね。花崗岩でできている山ですから、放射線が、そこから出ているんですよ。でもそれはわずかな量だから、大丈夫です。」なるほどと思いました。もちろん、多量の放射線は、大きな影響を及ぼしますが、花崗岩はそういうものなんだと、知ることができたと同時に、本当は、大丈夫なのに、こちらが怖い、恐ろしい、と先入観を持ってしまうと、どんなに相手が大丈夫なものであっても、相手ではなく、自分自身が、恐ろしくなってしまうのではないでしょうか?それはそうですね。花崗岩が、僕は怖いぞとか、恐ろしいぞ~ということは言わないんです。だから、こわい、恐ろしいということを、誰が思うのかというと、自分です。それは、花崗岩に対してだけではなくて、人に対してもそうです。自分が、こわい、恐ろしいと思ったその相手が、僕は恐ろしいぞとか、怖いぞと言っているわけではないのに、こちらが恐ろしいと感じたら、その相手は、自分にとって、恐ろしい相手になるんです。

 

軽んじるということもそうです。相手のその人が、私は軽んじられるものですとか、言っているわけではないのに、その人の前に立った自分が、その人に対して、軽んじてしまうと、軽んじてしまうんです。

 

ただし、イエスさまは、何でもかんでも軽んじるなとか、意に介してはいけないと、ではなくて、軽んじないように気をつけなさい、注意しなさいとおっしゃっているんです。

 

かつて学校で担任を持たせていただいたときの、ある1人の子のことをよく覚えています。その子は、いつも先生、先生と言って、嘘泣きをする子でした。最初は、それが分からなくて、びっくりして、どうしたの?と駆け寄ることがありましたが、だんだん分かってきました。「はは~注目してほしいんだ~だから嘘泣きをして、叫ぶんだ~」それからは、いろいろ言われても、気にしなくなりました。ある時に、また泣き始めたのですが、その時、こう言いました。〇〇くん、泣くのを止めてみたら~、するとピタッと泣き止むんです。続いて、じゃあ今度は泣いてみたら、と言うと、また上手に目から涙を出すんですね。うまいな~器用だなと思いましたが、クラスの周りの子も、その子が泣いていても、本当に泣いているわけじゃないんだということが、分かってくるんです。その結果、その子も、この方法は通じないんだと気づき始めると、そういうことをしなくなりました。今その子は、東京で演劇をやって立派に活動しています。

 

つまり、イエスさまが、軽んじないように、注意しなさいというのは、ただ軽んじてはいけない、何でもかんでもいいよ、いいよと言って、受け入れるということではなくて、注意して見なさいなんです。ちゃんとよく見て、今その相手が、何をしようとしているのか?どういう意味なのか?ということを、見えるところだけではなくて、全体を見て、正しく理解しようとしなさいということではないでしょうか?なぜならば、何でもかんでも、ああそうか、そうかと聞いてしまったら、相手は何をしてもいいんだ、というものが、つくり上げられてしまうからです。

 

それはまた、迷い出た一匹の羊も、またその羊を探しに行く、その羊飼いに対しても同じことが言えるのではないでしょうか?

 

というのは、どこに行ってしまったかわからない、迷い出た羊を、探しに行くということは、その1匹を軽んじようとしなかったということですが、他方、他の99匹は、山に置いて行ってしまうわけですから、羊飼いは、99匹を軽んじていると、周りからは、そう受け取れる行為です。しかも、その1匹の羊は自分からいろいろな要因で迷い出たということですから、その1匹を捜しに行く時、羊飼いも、迷い出る道に、一歩踏み出していくんです。それは道を外れて出て行くことでもあるんです。そういうことに対しても、周りからは、羊飼いとして、外れた働きをしていると評価されるでしょう。また羊飼いが道を外してどうするんだと思われるかもしれません。

 

そう言う意味では、羊飼いが、1匹の羊を捜しに行くと言う行為は、なぜ自らも、道を外れて、99匹を山に残して探しに行くのか?残った99匹を見る羊飼いがいなくなったら、この99匹は獣かいろいろなものに襲われてしまうのではないか?99匹は軽んじているじゃないか、と思われても、仕方のない行為です。しかし、羊飼いは、そう思う人の中にある、軽んじた~とか、何かに襲われるかもしれない、という恐れの中から、それにとらわれずに、それに振り回されずに、1匹の羊を軽んじないで、捜しに行くんです。それは、羊飼いにとってはこの残った99匹は大丈夫だという思いと、大丈夫なようにちゃんと準備をして用意をしたということがあったのではないでしょうか?さらに言えば、道を外れてでも、周りからはいろいろ思われても、1匹を捜しに行くのは、その1匹の羊も、99匹の羊も、同じ、わたしの羊だからです。だから、恐れを乗り越え、恐れに振り回されずに、捜しに行くという、その1つの一歩を、踏み出していくんです。

 

和解もそうです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、という出来事は、具体的にどんなことが、その兄弟とあなたとの間にあったかは分かりません。しかし罪を犯した、ということは、相当なことだったと思いますから、あなたが、その兄弟に対して抱く、くやしさ、怒り、赦せないという思いは、並大抵のことではなかったのではないでしょうか?そんなあなたに、イエスさまは、行きなさいと言われるんです。あなたに行けです。でもそれは逆でしょうと思います。罪を犯した側が、被害を被ったあなたのところに、行けではなくて、被害をこうむり、傷つけられた、あなたが、その兄弟のところに行け、ということ、しかも、2人だけのところで忠告しなさい、別の意味では、納得させ、確認させ、説得し、誤りを認めさせ、明るみに出せ、ですから、被害を受けた、あなたが、罪を犯した、その兄弟の誤りを、あなたが認めさせるということも、この時の、あなたにとっては、恐ろしくて、怖くて、そんなこと出来ないとしり込みするのではないでしょうか?

 

さらには、「聞き入れなければ、ほかに1人か2人、一緒に連れて行きなさい」「それも聞き入れなければ、教会に申し出なさいと、それも、あなたがしなさいというのは、余りにも不条理ではないでしょうか?逆でしょ?その兄弟が、あなたのところに来て、謝るというのではなくて、あなたが、その兄弟を説得し、誤りを認めさせていくなんて、逆じゃないですか?それで、いいのでしょうか?こんなことができるものなのでしょうか?

 

この続きがどうなったか、結果はどうなったかについては、何も語っていません。言われたあなたが、その通りにしたのか?しようとしなかったのか?できたのか?できなかったのか?については、語られてはいません。

 

しかしそうであっても、イエスさまは、あなたが行って、忠告をし、あなたがほかに1人か2人、連れて行きなさい、それでもであれば、教会に申し出なさいというのは、その兄弟との和解を、あなたが恐れの中から、一歩踏み出して、和解、赦しを、実現するために、あなたを動かそうとしながらも、同時に、そうすることで、あなたも、その兄弟も、恐れや、お互いに軽蔑し、軽んじるということが、その和解のプロセスの中で、あるという1つの事実を、示しておられるのではないでしょうか?

 

だから単に許し合えたら、それで、良い、難しいことをよくやったという、そういうことではないんです。そうではなくて、お互いの中にある、軽んじ、軽蔑し、関わろうとしない思い、動機、その根っこにある、その人自身にある赦せない思いが、ここで溢れ出て、ますます、そこに行くことも、和解のために、説得することもできない、つまりは、結局は、あなたも、その兄弟も、何もできないという1つの事実に向き合わされるのではないでしょうか?

 

だからこそ、イエスさまは、私たちにはできないからこそ、イエスさまが、出来ない私たちの代わりにやってくださるということなんです。私たちには、できないことは、できないんです。でも、代わりにやって下さるイエスさまが、「どんな願い事であれ」あなたがたのうち2人が地上で心を1つにして求めるなら、神さまがそれをかなえてくださる、祈り求めることを通して、1人でではなくて、2人で、祈り求めていくことによって、それをかなえてくださる神さまへと、お互いを繋げて下さるんです。

 

使徒言行録の1章の12節から14節には、イエスさまの弟子たちと、イエスさまの母、兄弟たちとが「心を合わせて熱心に祈っていた」ということが記されています。イエスさまの弟子たちと、イエスさまの家族とが、一緒になって祈っていたということなのですが、良くできたなと思います。というのは、イエスさまの弟子たちは、イエスさまに最後まで従えませんでした。イエスさまを見捨てた弟子です。その姿は、イエスさまの母マリアや、兄弟にはどう映ったでしょうか?兄弟であれば、お兄ちゃんを見捨てた!あんなに従うと言っていたのに、あれは嘘だった!イエスさまを見捨てた、イエスさまを守らなかった、そういう事実がありましたから、いくらイエスさまが、救い主であり、すべての人の罪を十字架の上で背負い、赦して下さったということは、その通りであっても、生身の人間としては、兄弟としては、家族としては、そういう弟子たちを赦せないという思いは、あったと思います。母にとってもそうです。しかし、そういうことがあったとしても、ここでは心を合わせて熱心に祈っている、祈ることができているというのは、それは、お互いの努力とか、力とか、ということではなくて、軽んじたい、意に介さないでいたい、という思い、恐れを越えて、神さまが、祈るという1つのことを通して、用いて、彼らを1つにしてくださったのではないでしょうか?そういう和解、赦しを、神さまから与えて頂いた後に、初めて、教会が誕生するんです。ペンテコステは、和解、赦しという1つのことから、始まっていくんです。

 

1つのことから、神さまは、私たちに、新しい道を拓いて下さいます。その1つから、数えきれないほどの、恵みと赦しがあることへと気づかせてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(9月21日)一つのことを(マタイ18:10~20)