2025年9月14日礼拝 説教要旨
神さまが分かる時(マタイ13:44~52)
時々、発掘調査の場面に出会うことがあります。見ると、その土地を掘り返しながら、最初はシャベルを使い、その内に、ブラシを使って、本当に細かく丁寧に、そこに埋まっているものを見つけるために、作業をしていかれます。その時、凄いものが発見されると、一躍脚光を浴びますが、パッと見た感じは、そんなに凄いとはなかなか分かりません。でも、出て来たものに、価値があると分かっておられる方が、それを見ると、これは国宝級だとか、第一級の発見だと判断していかれます。それと似たようなことですが、教会に保管されている歴史史料も、実はすごい歴史史料です。前島密の揮毫も、もちろんその1つですが、なかなかここまできちんと残している教会は少ないと思いますが、そんな歴史史料は、古墳からであれば、土にまみれた土器であったり、さびた刀です。それだけを見れば、素人には、汚れたもの、さびたものとしか映らないと思います。でも、考古学を専攻されている方と言った、その価値が分かる方から見ると、これはすごいものと分かった途端、心躍らせ、喜び、感動しながら、これはいつ、どこで、どのように、何の目的で作られたのかなどについて、一生懸命に調べていかれるんです。
そう言う意味で、出て来たものに、大きな価値があると分かるのは、そのものに価値を載せていると言いますか、その価値を分かって、認めて、受け入れているから、ということではないでしょうか?
ということは、イエスさまが譬えとして語られた中に出て来る、畑に隠されている宝を見つけた人も、良い真珠を捜している商人が、高価な真珠を見つけたときにも、その人たちにとっては、宝であり、高価な真珠であるということが、分かって、認めて、受け入れているからこそ、宝であり、高価な真珠になっているのではないでしょうか?
ではその時、見つけたその人たちがしたことを見ると、まず畑にある宝を見つけた人は、その宝を「そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」んです。この行動と言いますか、やっていることに対して、せっかく見つけたんだったら、「そのまま隠」さないで、その宝だけを買えばそれでいいじゃないか!どうして、その宝がある、その畑ごと買うのか?と思われるかもしれません。でもそれは、見つけた宝だけを買うのではなくて、その宝がある、その場所を買うというのが、当時のやり方でしたから、不自然ではありません。ただし、そのために、「持ち物をすっかり売り払う」すべてを売り払う、ということは、この人が、それまで蓄えて来た財産や、積み上げて来た立場、住まいや土地から、何から何まで全部売り払うということですから、この人がこれまで持っていたものは、全部なくなります。全部失うと言ってもいいと思います。そうなると、何にもないんですから、この人は、どうやって生活できるんでしょうか?たちまち生活にも困るのではないでしょうか?財産がなければ、お金がなければ、物を買うことができません。食べることにも困ります。だからこそ、持ち物をすっかり売り払うということを、どうしてここまでするのか?と思ってしまいます。
それは良い真珠を捜している商人もそうです。この人も、「高価な真珠を1つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」ということですから、この人も、何もかもをすっかり失いますから、宝を探していた人と同じく、何にもなくなるんです。すっかり失うんです。
ただですね。そうなる前の姿をよく見ると、この商人が、探しているものは、「良い真珠」です。それでよい真珠を探していた時、見つけた真珠は、「高価な真珠1つ」です。この高価なという言葉の意味は、非常に価値の大きいとか、数字に置き換えることができないと言う意味ですが、商人が最初求めていた良い真珠以上に、数字には置き換えることができない真珠1つを見つけることができたということは、何を指し示しているのか?それは、この商人だけのことではなくて、また良い真珠だけのことでもなくて、何かを探していくと、最初求めていたもの以上の、素晴らしい高価なものに出会えるということではないでしょうか?
小学校6年生の夏休みに、自由研究ということで、友達と何人かで、遺跡について調べることになりました。遺跡がどこにあるか?ということで、最初は、住んでいる場所のすぐ近くにあった、東豊野遺跡という遺跡があるということで、それを調べようとしましたが、どこにあるのか、さっぱりわかりませんでしたので、同級生の家がされていた、そのお寺に行って、住職の方に、聞いてみることにしました。そうしたら、凄く丁寧に教えてくださって、東豊野遺跡を発掘した時のことを話して下さいました。すると、こんな言葉が返ってきました。「その時、確かに発掘はしていたけどね~あまり大したものは出てこなかったと思うよ。だから、調べても難しいんじゃないかな~」それで少しがっくり来たんですが、続けてこうおっしゃいました。「その遺跡よりも、隣の山にも、川北遺跡というのがあって、そこはお城もあったようだから、いろいろあるかもしれない。津市にその遺跡から出たものが、収めている埋蔵文化センターと言うのがあるから、そこに行って見たらいい!」と、良いアドバイスをくださいましたので、早速連絡を取って、出かけました。すると職員の方、確か、かやむろさんという方が対応してくださり、小学生だった自分たちに、土器を見せて下さったり、触らせてもくださいました。その中で、川北城という中世のお城の、柱がどこにあったかという発掘調査の地図も見せて下さいました。すると柱が立っていたところが、たくさんあって、時代毎に何度も建て直しているということでした。その理由は、何度も何度も火事で焼けたり、部族と部族との争いで焼けたりしたので、そうなっているんだということでしたが、その図面が欲しくなりまして、お願いしましたら、当時あった、青焼きという方法で、一枚分けて下さいました。この一枚の青焼きが凄く役にたちました。それを自由研究に生かすことができました。最初調べようとした、東豊野遺跡はダメでした。でも、調べていくうちに、もっといいものに出会うことができたんです。
そういうことってありますね。何かを探す時、最初見つけたいものが、その通り見つかるかというと、なかなか見つからないことがあります。でも、続けて探すことによって、最初願っていたもの以上のものが、見つかるということもあるのではないでしょうか?
良い真珠を探していた商人が、高価な真珠を1つ見つけたことも、そういうことではないでしょうか?良い真珠を見つけたいから、探していたと思いますが、なかなか良い真珠は見つからなかったのかもしれません。でも、良い真珠ではなかったけれども、たった一つの「高価な真珠」を見つけることができたんです。そしてそれを「買う」のですが、その買うという言葉も、畑を買う、の買うと同じ言葉ですが、その意味は、代価を払って、買い戻して、自由を回復させる、贖うという意味なんです。
つまり、畑を買う人も、高価な真珠を買う人も、自分の持っているものを、全部、すっかり売り払ってでも、この宝、高価な真珠を買い戻したいんです。ということは、そもそもこの宝や、高価な真珠は、この人たちのものであったということではないでしょうか?買い戻すということは、そういうことですよね。ところが、その宝や、真珠が、それぞれ畑のどこかに、またどこにあるか分からなくなってしまったために、探し求めていくんです。そして見つかったら、何もかもを失ってでも、それを買い戻そうとするんです。
それは、神さまと私たちとの関係ではないでしょうか?イエスさまが、天の国、神さまの国に譬えておられる意味は、神さまにとって、私たちを、同じように宝、高価な真珠と見ておられるのではないでしょうか?そしてそれらのものは、どこかに行ってしまっていた!としても、それでも神さまは、そのままでいいとは決して思わないで、それがどこにあるかを、捜し求めていかれんです。そして見つかった時には、何もかもをすっかり売り払って、それを買い戻されるんです。
それがどこにおいて現わされたか?イエスさまの十字架です。命を懸けて、命を支払って、命をその代価とされたこと、その結果、どこに行ってしまったか、分からなくなっていた、私たちを、神さまのもとに、もう一度買い戻していかれるんです。そのために神さまが、どこに行ったのか?どこにいるのか?を、ずっと捜し求めていて下さるんです。これが神さまがしてくださる、神さまの恵みのご計画です。その計画を、その通り実行するために、神さまは、私たちを捜し求めていて下さるんです。
では、神さまのもとに帰ることができた、神さまが喜んで下さったということで、後は、何もないのかというと、続きがあります。
それが47節以下の言葉ですが、この内容は、いろいろな魚を集めるけれども、その中で、人々は、良いものと悪いものとをより分けて、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てるということなのですが、それは魚だけのことではなくて、私たちにとって、良いものと悪いものが、神さまを信じて、イエスさまを信じて、赦して頂いて、共に歩む中でも、私たちにあることではないでしょうか?神さまを信じたら、あとは何も悪いことは起こらないということではありません。自分にとって悪いことは起こるんです。その中で、良いものは器に入れ、残されること、悪いものは、投げ捨てられるということは、神さまが、私たちにとって、良いものは残してくださり、与えて下さり、悪いものは、私たちのもとから、投げ捨てて下さるということではないでしょうか?それらのことを何もかも、ありがとうございますと、そのまま受け入れられるかというと、投げ捨てられるものが、自分にとって、悪いものではなくて、良いものだと思っていることが、投げ捨てられた時には、どうして、投げ捨てられなければならないのですか?どうして、それを失わなければならないのですか?と思ってしまうこともあるのではないでしょうか?自分にとっても、悪いものであれば、ありがとうございますと感謝しやすいかもしれません。でもその逆は、なかなかそうはいかないと思います。
それでも、神さまにとって、悪いものは、投げ捨てて下さるんです。そして私たちの手から、離してくださるんです。そのことを通して、納得はできてはいなくても、神さまにとって良いもの、私たちにとって必要を判断してくださった良いものを、神さまは、ちゃんとより分けて、残して与えてくださるんです。
坂本洋子さんという方がおられます。今から10数年前の信徒の共に連載をされていましたが、その時、里親として10人の子どもさんを受け入れて、子育ての日々を紹介しておられました。
その中で、ご主人が心筋梗塞で入院され、元気に回復された後のことが次のように記されています。
夫は10代で相次いで両親を病気で亡くしている。姉が結婚してからは、1人で生活していた。そんな彼と結婚してからは、家族が増えることを味わってもらいたいと願った。それがかなわないと知った時、悲しみが体から溢れ、神さまをも恨むほどに、のたうちまわって苦しんだ。誰もが当然のように持っているものを、私は手にすることができないのだと、悲しみの淵にいた。そんな時教会の方が、「パーフェクトな人生はないんだよ」と声を掛けて下さった。そうだ、人生はパーフェクトじゃなくていいのだ!と心が軽くなった。
パーフェクトでなくていい、初めて聞いた言葉だった。しかし、まだ若かった私は、人と違う人生は重くも感じた。子どもたちと暮していく中で、「違うということは何も悪いことではないのだ」と分かり始めた。里子として我が家に来る子供たちは、表も裏も作りようのない人生に、文句を言うことなく、前向きに、けなげに生きている。「人と違うって素晴らしいことなんだ。彼らこそ神さまに祝されるべき存在なのだ」と知った。
しかし、時として自分が育てられたように育てていることがあり、ハッとすることもある。良かれと思ってしたことを、果たして神さまはそれいいと言ってくださるのだろうか?私がそうしたいだけの自己満足ではないのか?これは押し付けではないのか?と自問することも多々ある。「この最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という聖句は、育てる私の物差しだ。環境さえ整えば、子どもたちは自分で選択し、たくましく生きていける。育てるということは、先回りしたり、制限することではなく、整えることだ。
夫が退院したころ、車の後部座席で「これからは僕たちがお父さんを支える番だね」とある子がつぶやいた。彼は4歳でうちに来た。それまで過酷な環境にいたことを思うと、彼が生きてこの世にあることに感謝し、彼と彼の命を私はとてもいとおしく思う。自分は守られ、支えられて大きくなったという実感があるからこそ出たひとことなのだと思う。そう思うと胸にこみあげてくるものがあった。彼は今年、小学校最後の運動会を迎える。夫と私は、手分けして子どもたちの成長を見て回るつもりだ。
神さまを信じて、神さまに守られて、神さまと共に歩む中でも、自分にとって、これが良かったのか?悪かったのか?良かったことが捨てられ、失われてしまったのではないか?と、いろいろ思うこともあると思います。しかし、必要なもの、かけがえのないものを、神さまはちゃんと取り分けて、残して、与えて下さいます。そういう神さまだということを、分かるように、その時、その時を、神さまが与えて下さいます。
祈りましょう。