2025年8月3日礼拝 説教要旨
そんな私だった(マタイ8:5~13)
松田聖一牧師
2017年8月15日にNHKで放映された番組で、第二次大戦中日本がインドのイギリス軍拠点インパールを攻め、攻略するというインパール作戦について、当時兵士として関わられた方の聞き取りと、その司令部の状況を記録した日誌といった記録を基に作られた番組がありました。そのタイトルは「戦慄の記録インパール」というものです。その中では、上司への忖度、曖昧な意思決定、現場の軽視、科学的根拠に基づかない精神論、責任の所在の曖昧さといったものが、インパール作戦にはあったということ、それによって3万人もの兵士たちが亡くなられたという、それこそ戦慄の記録でした。そして、その中で、司令部で働いていたある少尉さんが、ある司令部での会議の中で、トップの方同士でどんなやり取りをしていたか?そして部下である、その少尉に何を言われたのか?そしてそのことを、どう受け止めたのか?ということが、次の証言と共におさめられています。
『私は、第15軍経理部に所属していました。作戦会議に出席した経理部長の資料を持って同行し、別の部屋で待機していました。呼ばれて資料を会議室に携帯しました。各部長が参集していました。私が入った折、軍司令官から作戦参謀に、『どれくらいの損害があるか』と質問があり、『はい、5000人殺せば陣地を取れると思います』との返事に、『そうか』でした。最初は、敵を5000人殺すのかと思って退場しました。参謀部の将校に尋ねたところ、『それは味方の師団で、5000人の損害が出ると言うことだよ』とのことでした。よく参謀部の将校から何千人殺せば、どこがとれるということを耳にしました。日本の将兵が、戦って死ぬことを『殺せば…』と平然と言われて驚きました。まるで、虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現するそのゴーマンさ、おごり、不遜(ふそん)さ、エリート意識、人間を獣か虫扱いにする無神経さ。これが、日本軍隊のエリート中のエリート、幼年学校、士官学校、陸軍大学卒の意識でした。・・・陸軍の指導部が、ともかく自分たちの始めた戦争で、兵隊を殺すのが当たり前だった。だから兵隊さんは、味方の上層部から、そのぐらい殺せ、死ねば俺の名前が上がると。これだけ死ねば取れる、自分たちが計画した戦が成功した。日本の軍隊の上層部が、自分たちの手柄がどのように国民に紹介されていくかを気にしていた』そしてその元少尉さんは、言葉を詰まらせながら、続けました。「敵なら分かるんですね。戦っててね。相手を5000人なら当然です。ただそれも、自分の部下であり。悔しいけれど、兵隊に対する考えはそんなもんです。だから、知っちゃったら、辛いです」と。
後は、車いすに座ったまま、泣き崩れておられました。それは、自分が23歳で司令官の命令を、命じる側に実を置くことになってしまったことで、どれだけ味方の兵隊を死に追いやってしまったことか。その、悔やんでも悔やみきれない、悲しみの姿でした。ここに戦争の1つの現実を見ます。それは、一番上、トップの命令に絶対服従の組織である軍隊の中で、発せられた命令を、その命令通りに伝えたことで、沢山の命が失われたという現実です。しかし、そうであっても、上からの、その命令を伝えるその人にとって、どんなに自分の思いとは別の思いがあり、たといその命令に自分自身は反対の立場であっても、絶対服従の中では、次の部下、またその次の部下に、さらに最前線の兵隊に、そのままを伝え、それに従わせていかなければならないんです。しかし、その時、戦いをしかけた一番上、トップの手柄になるかどうか?という戦争の本当の目的を知らずにいるではないでしょうか?でもその事実を知った時、味方の兵隊の命が、どうなっても構わないと言う組織のその歯車の一つとして、自分が使われていたんだということに、愕然とするのではないでしょうか?
それは、百人隊長の立場もそうです。この隊長は、100人の兵隊、部下をまとめる隊長ですが、トップではなく、上にある千人隊長といった上層部からの命令を、そのまま100人の兵隊たちに伝え、任務を遂行させるという、立場です。ですから、百人隊長が、上の命令とは違った命令を下すということは、あり得ませんから、自分の部下、僕に命令する時には、たとい百人隊長自身の思いとは違っても、時には自分の思いを押し殺してでも、上からの命令通りに、その100人を動かさなければならなかったし、実際に動かしていったんです。その結果、部下の兵士たちの中には、戦いで傷つき、あるいは病気になり、命を落とす者もいたことでしょう。その時、100人に足りなくなった分は補充されたことでしょうから、百人隊長としてその任務を果たしていたとはいっても、100人から離脱していった一人一人のことを、どう受け止めたか?については何も記されていません。じゃあ何も記されていないから、何もなかったのか?というと、むしろ、どんなに辛く、悲しいことがあっても、軍隊という組織の中では、一切触れることができなかったのかもしれません。
そんな中で、この百人隊長は、自分の部下が中風、身体不随の状態で家に寝込んでひどく苦しんでいた、自分の部下のことを、イエスさまのところに近づいて来て、イエスさまに「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで」、すなわち家に横たわって、投げ捨てられて「ひどく苦しんでいます」と、懇願するんです。でもこのことは、上から、イエスさまのところへ行けと命令されていないことをし
ていますから、命令違反です。それは、軍隊という組織の中で、どんなに危険なことかを、隊長自身が一番よく分かっていたのではないでしょうか?それでも隊長は、イエスさまのところに行って「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と、この僕のことを、イエスさまに伝えていくのは、この僕が、どんなに寝込んでいても、横たわっていても、投げ捨てられていても、またもはや兵隊として戦うことが、どんなにできなくなっていても、隊長にとっては、「わたしの僕」わたしにとって、かけがえのない大切な1人の僕となっているからです。と同時に、隊長として、軍隊という組織を守ることや、その命令に従うということから外れていてもいい、軍隊という組織に逆らってもいい、という思いが、この僕のためにイエスさまのところに行こうということへと、この隊長を突き動かしているのではないでしょうか?それは別の見方をすれば、組織や命令にのみ従うと言うことに対して、闘っている姿ではないでしょうか?そんな闘うということは、私たちにもあるのではないでしょうか?具体的には、いろいろあるでしょう。例えば、思春期には反抗期がありますね。言われたことに対して、右と言われれば左と言い返し、左と言われれば、右と言い返すこともそうです。あるいは、自分が所属している会社なり、組織の中で、自分の考えていたこと、目指していたことと違うと感じた時にも、それは違う!と異を唱えることもあると思います。さらには、自分が受けて来た辛かったこと、悲しい過去を乗り越えようとして、その悲しみと闘うということもあるのではないでしょうか?
沖縄に医師として赴任された方が、70代、80代の方に、夜眠れないとか、ぼっとしてしまうとか、そういう症状が多く出ていることに気付きました。今から15年ほど前のことです。その原因が何なのか、最初は分かりませんでしたが、ある海外の論文に出ていた、ナチスによって収容所に送り込まれた方の中で、生き残ることができた方々に出て来る症状と同じであるということに、気づかされました。それで早速、その症状を訴えている方々から聞き取りをしました。すると、かつて子どもの頃、沖縄戦ですさまじい攻撃から逃げ惑ったこと、目の前で家族が殺されたことといった、本当に恐ろしい、言葉では表現できないような経験が、それぞれにおありだということ、その記憶が年を重ねる中で、甦って出て来る症状であるということに気付いたのでした。それは戦争トラウマと呼ばれるものでしたが、実際に体験した時から、何十年も経って出て来るものでもありました。早速その体験を、お互いに分かち合う機会を設けたりしました。するとそれまでは言ってはいけないと、心に封印していたものが、言ってもいいんだという気持ちになり、それをお互いに話すことで、次第に少しずつ癒されていきました。またその辛かった体験をばねにして、それと闘いながら、新しいことに向かっていくエネルギーに変えていくことで癒されていかれる方もおられました。それは確かによい方向に向かっていったことですから、評価されることです。ただし、ご本人が自分のこと、体験やその時の気持ちと闘うわけですから、大変な、エネルギーがいります。その時の経験や気持ちを言葉にすることも、そうです。そして、それらのことを乗り越えようとして、新しいことにチャレンジしようとすることも、大変なエネルギーです。しかしそういうエネルギーが、辛く、悲しかった出来事を乗り越えようとする力ともなり、回復の1つのチャンスともなっていくんです。しかしそうであっても、何度も何度も自分自身と闘うということが、繰り返されたと思います。なぜなら過去の体験や記憶、感情と言ったことは、消そうとしても、消えないものだからです。
だから百人隊長は、命令違反をしてでも、イエスさまのもとに行き、この僕を「わたしの僕」と呼ぶ、そういう自分自身を、イエスさまと闘いながら、イエスさまに向かってぶつけていくんです。それはイエスさまを嫌いになったということではなくて、イエスさまが、これが本当の私です!こんな私です!ということを、受け入れてくださるお方だということが、分かったからではないでしょうか?だからこそ、イエスさまから「わたしが行って、癒してあげよう」と言われた時にも、まだ闘っているんです。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と返していけるんです。はい分かりました、ありがとうございますでななくて、きっぱりと断るんです。理由はいろいろあったでしょう。百人隊長として、どこかと戦った時、自分が出した命令で、自分も自分の部下も、敵と戦い、敵を傷つけ殺めたこと、また自分も部下も傷つき、命を失う者もいたことに対する部下を守ることができなかったという、自責の念、自分を責める思いがあったのではないでしょうか?だから、「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に、『これをしろ』と言えば、その通りにします」と、そういう部下に命令を出した私だったこと、部下に大変な思いをさせ、部下を傷つけ、部下の命までも奪ってしまった、私だったことを、自分と闘いながらも、イエスさまに訴えていくんです。でもその時初めて、こんな私を、そのまま受け入れてくださっているイエスさまが、そこにおられるということに出会えていくのではないでしょうか?だからこそ、そんな傷を持つ自分の家に、イエスさまを迎えたら、未だに傷ついている、その傷に触れることになる、そんな自分のところに、イエスさまを迎え入れるわけにはいかないということもありつつ、それでもイエスさまからの言葉が欲しい、ひと言おっしゃってくださいとイエスさまにぶつけていくんです。そんな隊長を、イエスさまは、そのまま受け入れて下さるんです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と、隊長の信仰が、ただ内面のことだけではなくて、見えるものであるということ、信仰は見えるものになるということを、イエスさまに従っていた人々にも語り、そして、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」そのひと言を、百人隊長に与えて下さるんです。
四竈揚先生が編集された本に「平和を実現する力~長女の死をめぐる被爆牧師一家の証言」というタイトルで、四竈先生が十代の頃、ご本人はもとよりご家族が広島で原爆に遭い、家族全員がケガをしながらもともかく無事であった中で、長女の祐子さんが、学徒動員先で原爆に遭い、昭和20年9月4日に召されたそのことを巡っての、家族の証言が収められています。その中で、長女の佑子さんが、亡くなる数日前に病床で信仰告白をした後、家族に語った言葉がありました。「佑子はこれまでお父ちゃんに随分叱られたけどやっぱり良いお父ちゃんでした」「もしも佑子の病気が良くなったら、神さまのために、お父ちゃんと一緒に一所懸命働きます。」「佑子がもし神さまのところへ召されてしまって、お父ちゃんと神さまのために働くことができなかったら、佑子の分も働いてね」「佑子は自分のためばかりお祈りをして、広島のほかのたくさんのお気の毒な人たちのためにお祈りしなくても、神さまが赦してくださるでしょうか。」「佑子は神さまのところへ先に行って、みんなのために場所を取っておいてあげます。」「お母ちゃんも早く天国に来てくれるといいけれど、それじゃ招ちゃんたちが可哀想だから、そんなに早く来てはいけない」そんな言葉を語りながら、原爆による病のために苦しい日々を経て、召される9月4日のことが、こう記されていました。
9月4日臨終記 佑子は午後11時40分頃、母の膝にもたれつつ、「佑子!佑子!と呼ぶ大きな声が聞こえるのよ」と突然言い出した。父も母も彼女を呼んだのではない。母が「それは誰の声だったの?」と尋ねても返事をしない。ただ大きく目を見開いて上の方を見つめている。父がやがて召される時の近づいたことを知って、「それは神さまがお呼びになる声なんだよ」と聞かせてやる。「体を起こして・・・」と促すように母の膝から体を自分で起こす。母は抱き上げて支えたが、支え切れないので、「それじゃお父さんにだっこしてもらいなさい」と父に渡す。父は彼女の体を両腕両脇に抱きかかえると、彼女は深い息を吐いてのけぞるようにしてさらに体を起こそうとする。「佑子ちゃん、神さまのお顔が見えるか、しっかりと神さまのお顔を見ているんだよ」と言い聞かせる。彼女は父の胸に頭をすりつけて二度ほど頷く。「イエスさまのお顔が見えるか、イエスさまにお迎えしていただくんですよ。」彼女はじっと目を据えて上の方を見つめている。もう臨終である。右の手は母の手を握っていたが、顔を上向けて仰向くようにするので、父は母に彼女の臨終を知らせる。「子どもたちをすぐ呼んで」と。母は佑子の手を離して、階下に降りて弟たち3人を連れて来る。子どもたちが階段を上がってくる途中頃、彼女は大きな息を一つ吐く。父は心臓に手を当ててみたが、鼓動はまだ乱れずに続いている。「佑子ちゃん!佑子ちゃん!」と母は呼んでみる。「ねえちゃん!ねえちゃん!」と揚が呼ぶ。半開の瞳がじっと上目使いをしたまま動かない。しかし左手の脈を診たがまだ打っている。それが次第次第にかすかに途切れがちになる。「今神さまのところに行くところだ」と父は家族に言う。半開の眼に手を当てて閉じてやる。母は「佑子ちゃん、神さまのもとで待っておいでよ。お母ちゃんも後から行くから」と言う。弟3人は「姉ちゃん!姉ちゃん!」と叫びながらすり寄って泣く。母も泣く。時計を見たら11時57分。・・・・彼女は父と母との膝に抱かれ、弟たちに見守られつつ、安らかに神のもとに帰ったのであった。
そしてこの出来事について、四竈揚先生のご兄弟の1人が、こう結んでいます。
「学徒動員で働いていた姉が原子爆弾で被災して、頭に重傷を負い、疎開していた私たちのところに辿りついたのは、原爆投下から5日後でした。それから一カ月足らずで死んだのですが、この姉の最後の場面こそ荘厳であり、厳粛極まるものでした。姉の名、佑子と呼んでいる声を聞いた姉に、牧師の父が「よく見るんだ。お答えするのだ。今、イエスさまが呼んでおられるのだ」と言うと、姉は体を起こして、手を伸ばして、上を見ながら召されていきました。当時の私には驚くべき、信じがたい光景でしたが、見たのです。姉は御顔を仰ぎ見ていたのです。私が伝道者としての召しを頂いた1つのきっかけは、この姉の信仰でした。おうちゃくで鈍い私の魂の眼にも、天の光輝く御座が見えるようになるのだろうか、見せて頂きたいと思いました。」
百人隊長は、一人の僕のために一生懸命でした。イエスさまに懇願しました。またイエスさまとのやり取りの中では、決して素直ではありませんでした。闘っていました。でも、その百人隊長の信仰を、イエスさまは見えるものにして、与えてくださいました。その信仰を見た時、イエスさまは、私が、こんな私だったということをも、見えるようにしてくださいます。そして、見えない神さまを見せて頂きたいと言う思いへと変えて下さるんです。
祈りましょう。