2025年7月13日礼拝 説教要旨

価値あるもの(マタイ6:22~34)

松田聖一牧師

 

私たちの体には、手や足、目、口、耳といった、いろいろなものがあります。そのどれもがなくてはならないものですが、その中の1つ、目も大切ですね。この目についてですが、幼稚園の頃のことです。1つのものが2つに見えるようになってしまいました。これは斜視と呼ばれるものですが、もちろん1つが2つに増えたわけではなくて、2つのうちの1つは、本物ではありませんし、そこにはないのに、それがあるように見えるんです。これには不自由しました。そんな中、小さい頃は連れられて、毎週のように眼科に通ったことでしたが、その内に、自分ひとりで行くことができるようになりますと、バスで40分くらいかけて出かけて行くことや、自転車で40分くらいかけて行ったこともあります。不思議ですが、バスと自転車が同じ時間で行けたのは、どうしてなのか?大体4キロを20分で行けましたので、相当スピードを出していたのかもしれませんね。そしてその眼科には何人か看護師の方がいらっしゃいましたが、行くたびに看護師の方が、視力検査をされます。Cの字を見せて、どちらが開いているか?と尋ねられて、答えるのですが、同じ看護師でも、怖い方と優しい方がおられるんです。それで、自分の中で、品評会と言いますか、子ども心なりに、あっ今日は怖い、今日は優しいと、その時々に思ったことでした。そんな検査が終わり、最後に院長先生の診察を受けるのですが、いつも色鉛筆を1本差し出して、「ここを見てごらん!」色鉛筆の先を両目でちゃんと集中して見るようにという訓練もありました。最初はなかなかできなくて、つい色鉛筆が2本に見えてしまう時があると、さすが先生だと思います。ほら見ていない!ここだけをしっかりと見なさい!と言われながら、そういう訓練が10年以上続いたと思います。

 

なぜそこまで必要だったのか?それは目が良く見えるように、目が目としての役割を果たせるようにするためです。それほどに、目は大事なので、いろいろと訓練があったと言えます。それはそうですよね。目の前にあるものが、1つなのに2つに見えるなんていうことは、目に与えられている機能を果たしていませんし、日常生活も含めて大変不便になりますし、体のバランスを崩してしまうこともあるのではないかと思います。

 

そういう目から体全体に及ぶいろいろと同時に、体全体に受けたことが、目に影響を受けるということもあります。例えば、大きなストレスや、不安、恐れを感じた時にも、目の調子を崩してしまうこともあります。

 

目が泳ぐという表現がありますね。それは目がきょろきょろする、というだけではなくて、大きなストレスを抱えたり、何かのことで、大きな苦しみに会うと、目の焦点が定まらなくなり、その言葉の通り、目が自分の目の中で、泳いでいるんです。そう言う意味で、目と体というのは、一体ですね。繋がっています。そのことをイエスさまは「体のともし火は目である」、すなわち目や体に受けたことが、目を通して、また体を通して、ともし火となって、小さな、ほのかなサインであっても、出て来るということなんです。

 

そしてその目と体のサインが、「一方を憎んで他方を愛する」、「一方に親しんで他方を軽んじる」にも出て来るんです。というのは、憎むとか、愛するとか、親しむとか、軽んじると言う時、先ずは目で一方を見て、そして他方を見ます。そこから、そのどちらかに対して、憎んだり、愛すること、親しんだり、軽んじたりすることを、目で、また体全体で現していくからです。でも、そもそも憎むとか、愛するとか、親しむとか軽んじるというのは、感情、気持ちの世界の言葉でもありますから、目に見えないものだと言えるでしょう。しかし、そうであっても、その見えないものを、見える目で、また体で現わしていくのではないでしょうか?

 

それはイエスさまの言われた、「神と富とに仕えることはできない」においても、そうです。まず神さまと、富とをこの目で見て、体で感じたりしながら、自分なりに判断しようとします。しかし、神さまは目には見えないということ、その一方で、富は見えるということ。数字という目に見えるもので、その富がこれくらいだ~これだけの数字があるということで、表すこともできるでしょう。では、その両方につかえることはできないと言う意味は、それぞれ両方、神さまと富に、安心して自分の身を任せることができないということなんです。その理由として言えることの1つは、神さまは目に見えないから、どこにおられるか分からないから、と言ったことがあるでしょう。それに対して、じゃあ、目に見える富にも、自分を任せられないというのは、どういうことでしょうか?その富は目に見える富ですから、それがあれば安心できるのではないか?そう思います。

 

ある一人暮らしの方がおられました。年齢と共に、生活にもいろいろと支障をきたすようになられたのですが、いつもおっしゃっていたのは、お金がない!お金がない!と言い続けておられました。お金がなくなるというのが、ものすごく不安に感じておられるようでした。ところが、身に着けている服、はんてんのポケットには、いつもお金を詰め込んでおられました。しわくちゃになっていたもので、ポケットが一杯でした。あるじゃないと言われても、お金がない!お金がない!と、ないないと言い続けておられ、本当に不安がっていました。実際には、施設で生活するのに十分なお金がありました。でも結局、そのお金を使うことなく、召されていきました。目に見えるお金は十分にあったんです。それを手に取り、それを体でしっかりと握り続けておられたんです。でも、不安で一杯でした。その時、ふと、お金って何だろう?お金があるのに、不安になるのは、どうしてだろうか?そう感じたことでした。

 

確かに握り続けることで、自分の手元に確かにあり続けます。自分の目の届くところにあります。しかし、握り続ければ続けるほど、自分が握ったその手を開いてしまったら、どうしよう?どこかに行ってしまったらどうしよう?手を開いたら、それがなくなってしまう!誰かに使われてしまったらどうしよう?という不安に、自分が縛られていくのではないでしょうか?それは、握りしめることで、なくなったらどうしよう?とか、このままで大丈夫か?と、その不安でさえも、自分の手の中に、握りしめ続けようとしてしまうからです。その結果、不安になってしまうんです。そういう意味で、「神と富とに仕えることはできない」というのは、私たちに、神さまか、富か、どちらかを選びなさいではなくて、たとい神さまであっても、富でも、自分の手の中に、握りしめ続けようとしている時に起こる、私たちにある見えないところにあるものが、見えて来る1つの現実を現わしているのではないでしょうか?

 

「だから言っておく」「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」なんです。思い悩むということも、握りしめなくてもいいんです。そのことに目を向けられるように、イエスさまは、空の鳥をよく見なさい、野の花がどのように育つのか、注意して見なさいとおっしゃられるんです。それは、空の鳥、野の花を見る時、それがどのように育つかということを、よく見れば見るほど、注意して見れば見るほど、空の鳥も、野の花も、握りしめていないことに、気づかされます。飛ぶということも、毎日の食べ物、着るということも、自分の手の中に握っていませんね。飛ぶ時には、ただ風に乗って飛んでいきます。毎日の食べるものも、探しには行きますが、あればそれを食べますが、それを握りしめようとはしません。衣服を着ることも、もうすでに羽という衣服があります。毎日同じ羽を握りしめなくても、羽はあります。野の花も、その花自身がいつ、どこで、どのようにして咲くのかを、握りしめていません。ただ季節が巡って来るのを待ちながら、その時が来たら、咲きます。でも、つぼみになったその野の花が、そのつぼみを握りしめていたら、どうなるでしょうか?花が咲かなくなりますし、種をつけることもできなくなります。しかし、実際は、そういうことはありませんね。それは、自分の命も、空の鳥の命も、野の花の命も、異邦人の命も、寿命も、明日もそうですね。私たちの目には見えませんし、握ることはできません。

 

でも神さまは、握ることができなくても、この目で見る事、確かめることはできなくても、明日が来れば、明日になっています。明日を与えて下さいます。そしてその明日には、明日必要な食べ物、着るものも、与えて下さいます。なぜなら、神さまは、その日、その日の必要を全部分かっておられるお方だからこそ、その日、その日の必要なものを、十分に与えて下さるんです。そこにあるものは何か?神さまの私たちへの心からの思いです。その思いは、神さまの愛と言っていいでしょう。その神さまの愛は、それを自分で握りしめようとしなくても、私たちの目には見えなくても、私たちにいつも与えられ、注がれているんです。それに気づけないのは、自分がいろいろなものを握り続けているからではないでしょうか?

 

祖父の遺品というタイトルで、そのおじいさんのお孫さんがご両親と一緒におじいさんの遺品整理をした時のことを、こう書き綴っておられました。「祖父が亡くなり、遺品整理をしていたある日。押入れの奥から、数本の掛け軸が出て来た。「これはすごいかも!」「もしかして…有名な書家の作品じゃない!?」親たちが目を輝かせて騒ぎ始めたので、何気なく近づいて見てみた。―あ、これ、私の字だ。高校の頃、書道部で書いたやつ。確か部室の片隅で「いらないなら持って帰りなよ」って言われて、なんとなく祖父に渡した覚えがある。「これ、私のなんだけど…」と言うと、一瞬の沈黙のあと、親の表情が微妙に崩れた。その目が、ふとどこか遠くを見つめるように揺らいだ。きっと、私の練習作が、祖父にとっては大切な何かだったんだ。黙ったまま、私と親は掛け軸を見つめた。理由なんて言葉にしなくても、分かる気がした。気づけば、涙が一粒、すっと落ちた。その静けさの中に、祖父の気配がまだ少しだけ残っていた。」

 

イエスさまは、見えるものを通して、見えない神さまがいらっしゃること、そしてその神さまが、見える者全てに、必要なものを毎日与えて下さること、そして今日も、明日も、ずっと共にある神さまの愛に、気づかせてくださいます。それは、私たちが、自分の手で握りしめようとしていたそのことを、手離した時に、もうすでに与えられていたことに、気づけるのです。価値はあるものとは、そういうことを通して、与えられていくんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月13日)価値あるもの(マタイ6:22~34)