2025年7月6日礼拝 説教要旨

守られるために(マタイ5:21~37)

松田聖一牧師

 

(37)あなたがたは「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことが悪い者から出るのである。

 

 と、イエスさまはおっしゃいますが、「然り、然り」「否、否」は、それぞれ、はい、は、はい、いいえ、は、いいえ。と答えなさいということですが、そこには、はいでも、いいえでもどちらでもいいとか、はい、なのに、いいえとか、いいえ、なのに、はいといった、はいと、いいえをごちゃまぜにして良い、といった、曖昧さは一切ありません。はいか、いいえか、はっきりしています。ではそのことをそのまま、はいは、はい、いいえは、いいえと、私たちがいつも、どんな時にも、どういう相手、どんな内容であっても、言えるかというと、どうでしょうか?時には、はい、なのに、いいえと言ってしまったり、いいえなのに、はいと言ってしまったりすることや、はいとも、いいえとも、どちらとも言えない、どちらにでも取られるような、曖昧な答えになっていくこともあるのではないでしょうか?そして、その曖昧さが、この人には、はいと言えても、あの人には、いいえと言ってしまうこと、相手によって、あるいは、内容によって、はいといいえが、一貫していないと言いますか、時と場合によって、コロコロ変わってしまうことにも繋がっていくのではないでしょうか?

 

その理由について、こんな一文があります。

 

「嫌われたらどうしよう…」「怒られたらどうしよう…」「変に思われたらどうしよう…」この様に周りの反応を気にするほど、言うことが変わりやすいです。相手の顔色を伺って、自分の主張を変えているのです。自分の気持ちよりも先に、相手のことを考えている状態です。他人軸で生きていると、言うこともコロコロ変わってしまいます。「自分の発言に責任を取るのが怖い…」こうした意識があると、言うことが変わりやすいです。いざ自分の意見を言えば、上手くいかない時に自分のせいになります。また実際に行動へ移したりと、責任が発生します。責任を回避するためにも、その時々で言うことを変えているのです。あるいは相手の発言に同調し、「私もそう思っていた」と合わせることもあります。もし上手くいかなくても、「あの人が言ってたから…」と責任逃れができるのです。

 

 つまり、そういう曖昧さが、結局は、自分を守ろう、自分が責任を取らなくてもすむようにしようという方向に向かっていくのではないでしょうか?

 

そのことが、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」に始まり、「姦淫するな」「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」といった、昔の人々が命じられている、その内容と、そのことを聞いている、弟子たちにおいても、同じことに繋がっていくということを、イエスさまは、明らかにしようとしておられるんです。

 

というのは、昔の人々から命じられたことと、それを聞いていることの1つ、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」というこの内容から見ていくと、先ずは、昔の人々が命じられていると言ったこの言葉、その内容は、旧約聖書で神さまが命じた言葉の引用ですから、この後に続く、あなたがたも聞いているとおりとイエスさまが繰り返される言葉も含めて、すべて旧約聖書において、神さまが命じ、おっしゃられた言葉です。ところが、「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」の、「裁きを受ける」は、そもそも神さまは「必ず死刑に処せられる」とおっしゃっていますから、昔の人が命じられ、あなたがたの聞いているこの言葉は、そもそも神さまが命じた言葉から、変わっているんです。

 

それは、昔の人々に始まる人々が、神さまが命じておられるその言葉を、その時々に受け取り、受け継いでいくうちに、変わってしまっているということが、まず言えるのではないでしょうか?

 

伝言ゲームってありますね。一列に並んで、前の人から、口伝えで、何かの文章を伝えていくゲームですが、このゲームの魅力は、最初に伝えた内容と、最後の人が聞いた内容と比べると、ずいぶん変わっているということが、見えて来るものだと思います。時には、最初伝えた言葉から、全く逆の内容になっていたり、みんなを楽しませるゲームの1つですが、その時に、早口言葉を使うと、また楽しくなるということで、こんな言葉があります。「隣の客はよく柿食う客だ」「東京特許許可局局長」とか、少し難しいのですが、「蛙ピョコピョコ、3ピョコピョコ、あわせてピョコピョコ、6ピョコピョコ」といった具合に、しばし一緒に楽しめるものですが、それを伝言で間違えなく言えるか?というと、間違いますね。どこかで違ってきます。そのように、人から人へ伝えられた言葉というのは、一般的にも、全く変わらず、同じであり続けるかというと、人から人へ伝えられていく中で、変わっていくものです。それは聞いた言葉をそのままなかなか覚えられないとか、早口で聴きとれないとか、いろんなことがあると思いますが、

 

ではここで、昔の人が命じられている言葉を、聞いて受け継ぐ時にも、そういう単純なことが起きたのかというと、そうではないと思います。なぜなら、昔の人々も含めて、当時の人々の記憶力というのは、今とは比べ物にならないほど、凄いものがあったからです。ましてや神さまが命じておられる言葉ですから、それを変えるということは、恐れ多くて出来ないことです。ところが、ここでは変わっているんです。これは大変なことです。そもそも変えてはいけないのに、変わっているわけですから・・・よっぽどのことが、聞いている人の中にあったということではないでしょうか?

 

今年は戦後80年を迎えます。これから来月にかけては、80年という節目ということもあり、いろいろな催しなどがあると思いますが、こぐれさんという漫画家が、自分のおじいさんの写真をアルバムで見た時、ふと思い出した幼い頃のことを、「小さい頃、祖父の友人が酔っ払ったときのことだった」というタイトルで、小さな漫画にしています。そのマンガの吹き出しには、こんな言葉がありました。

 

小さい頃、祖父の友達が、酔っ払って戦争の話をし始めた。話の前後は思い出せない。「ワシはよお・・・人殺しだわ・・・・敵なんかおらんかった。おったのは人やったわ・・・」泣きながらその友達が話をしているのを、「大人が泣くのを初めて見た・・・・」大人になってもたまに思い出す。祖父は絶対に戦争の話はしなかった・・・

 

こう結んでいる小さな4コマ漫画ですが、実際に人に手をかけて、人をあやめてしまった人によっては、精神的な病になるほど、人が変わったようになって、長い間、それこそ亡くなるまで苦しみ続けていた方もいらっしゃいました。家族に暴力をふるい続けていた方もいました。では、その人にとって、「人を殺した者は、必ず死刑に処せられる」という、この言葉は、直視できないほどだったのではないでしょうか?でも言われている内容は、事実その通りです。それで苦しみ続いていたことも事実です。そういう自分であるということも、分かっています。それでもなお「必ず死刑に処せられる」ということが、その通りであっても、目を背けたい、そういう事実を忘れてしまいたい、と苦しみ続けていたのではないかと思います。

 

ということは、聞いた内容が、自分に都合が悪い内容であるから、受け入れたくない、聞きたくない、と言う以上に、その人にとって、言われている通りであっても、またそれが分かっていても、自分でもどうすることもできないからこそ、言われていることを変えてでも、何とか逃れたいと、苦しみ続けているからではないでしょうか?そういう意味では、その言葉や内容を変えても、その人の中の苦しみは、全然変わらないんです。そういうことに対して、神さまが命じたことから変わっているから駄目だとか、赦されないことをしたということで、おさめられてしまったら、ますます追い込まれてしまうのではないでしょうか?

 

だからこそイエスさまは、「しかし、わたしは言っておく」と、それに対して「兄弟に腹を立てる者は、だれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とおっしゃられるのは、その行為だけを問題にしているのではなくて、昔の人々が、変えてしまったのは、なぜなのか?そうさせる、そうせずにはおれないでいる、その人の中にある動機、気持ち、言葉でもあるということに、イエスさまはしっかりと光をあて、しっかりと見て、分かっておられるんです。だから、イエスさまは、ただその行為だけではなくて、その行為に繋がる動機、気持ち、言葉も、曖昧にされないんです。

 

同時に「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、兄弟と仲直りし、そこから帰って来て、供え物を献げなさい」とおっしゃるのは、神さまにささげるささげもの、供え物を、神さまにささげるよりも先に、兄弟が自分に反感を持っているのだから、その兄弟のところに行って、仲直りをまずしなさいとか、そういう反感を持っているその兄弟とのことを、自分で解決せよと、いうのではなくて、その反感を持っていることと、自分が神さまにささげようとしている、その供え物とを、交換せよということなんです。「仲直りし」には、そういう意味があるんです。

 

供え物と言うと、それは神さまへの感謝のささげものですよね。いやいやささげるものではありませんね。そのささげものは、余り物ではなくて、一番大切なもの、自分自身であると言えるのかもしれません。なぜならば、神さまへの感謝、神さまがお守り下さり、支えてくださり、導いてくださり、苦しんで、悩んでいた時には、解決への道を、与えて下さり、そして何よりも、私たちを愛し、赦して下さった神さまだから、その神さまに、自分にとって大切なもの、自分自身を、感謝してささげていきます。そのささげものと、反感を持たれていること、反感を自分に対して持っている、その人とを交換しなさいというのは、反感を持っていることも、反感を持たれている自分が、その兄弟に対して、思っていること、気持ちも含めて抱えている、そういう私も、まずは神さまのところに持って行きなさいということではないでしょうか?

 

ということは、自分で何もかもやろうとか、自分で解決しようとしなくても、あるいは自分ではどうすることもできなくて、解決できないようなことであっても、それでも、神さまのところには、持って行くことができるということなんです。そして神さまは、持ってこられたそのすべてのことを、神さまへのささげものとして、しっかりと受け取ってくださるんです。

 

 だからこそ、その行為に繋がる、言葉、思い、動機を捨てよとおっしゃられるんです。たとい、どこに捨てたらいいのか?どこに持って行けばいいのか?分からなくても、分からないわたしを、分からないと言いながらも、神さまに持って行き、神さまに向かって、それを捨てて行けばいいんです。その捨てたものを、イエスさまは、最後の1クァドランスまでも、誓うということも、右の眼も、右の手も、十字架の上で、すべて受け取っておられるんです。だから十字架の上で、言われた叫び「成し遂げられた」と言う意味は、ただ十字架の上で、赦しを成し遂げたというだけではなくて、私たちが捨てられなかったこと、それで悩んで、苦しんでいることも、どうしていいか分からないことも、イエスさまが、私たちに代わって、全部受け取って下さったということが完成したからこそ、「成し遂げられた」なんです。

 

 1人の子は、なかなか友達ができませんでした。どうしても無理して、周りに合わせよう、合わせようとするので、疲れてしまい、誰かと一緒が本当に苦手でした。それで寂しい思いをしていた時、その子のことを分かってくれていた、受け入れてくれていた先生が、ある時、静かにこうおっしゃいました。「全員と仲良くなる必要はない。無理してごまかして一緒にいるのは、友達とは言えない。友達が出来ないなら、自分の好きなことに没頭しなさい。そしたら、好きなことが一緒の人が集まってくる」この言葉に、力づけられていきました。こんな僕でも、受け入れられていると分かり始めていきました。捨てられる場所が分かった時、初めて無理やり周りに合わせようとすることを、捨てることができるようになっていきました。

 

神さまは、私たちを守るために、いろんな決まりを与えておられます。でもそれが守れない時、守りたくない時もあります。守りたくても守れずに、苦しみ続けることもあるでしょう。曖昧にしてしまうこともあると思います。そうであっても、そんな私たちを守るために、イエスさまが、守れない私たちの代わりに、守れないでいる私たちを、守り、受け入れてくださるんです。私たちの抱えているものを、捨てられるように、捨てる場所を与えて下さるんです。だからこそ、神さまのところに、守れないことも、その時も思いも、何もかもを、持って行ったらいいんです。神さまはちゃんと受け取ってくださいます。それによって、守られていくんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月6日)守られるために(マタイ5:21~37)