2025年6月1日礼拝 説教要旨

心が開くとき(ルカ24:44~53)

松田聖一牧師

 

来週日曜日の午後、伊那文化会館にて、ヘンデル「メサイア」の演奏会があります。この曲は300年もの間演奏され続けている、2時間を超える大きな曲ですが、その作品の名前であるメサイアは、救い主と言う意味です。そしてこの曲には、最初から最後まで聖書の言葉が、散りばめられ、そこには、救い主イエスさまの誕生、クリスマスから、十字架の苦しみ、復活、イースターの喜びに繋がる、イエスさまについての聖書の中心メッセージが、ぎゅっと詰まっています。

 

このメサイアについて、鈴木秀美さん、この方は、鈴木雅明さんの弟さんでいらっしゃいますが、この方の指揮でメサイアをご覧になられた方が、こんな感想を寄せていました。

 

素晴らしいの一言です。クラシックについてはほとんど知識のない素人ですが感動しました。あの有名なハレルヤのフレーズが訪れるまでに、壮大すぎる神とキリストのストーリーがあることを知ると、一層感動しますね。そしてステージに立つ皆様の魂が奏でる音がしっかりと心に沁みました。ありがとうございます。

 

メサイアを聴いた感動と喜びが、ここに現れています。そして、「あのハレルヤのフレーズが訪れるまでに、壮大すぎる神とキリストのストーリがあることを知ると、一層感動しますね・・・」とある通り、ハレルヤが訪れるまでに、神さまの、そしてイエスさまの壮大なストーリーがあるということに、触れることができたのではないかと思います。そういう意味で、メサイアでハレルヤと歌われるのは、ただハレルヤがあるということではなくて、イエスさまが生まれたことも、十字架の上で、苦しまれたことも、そして赦しと救いを与えて下さり、甦られ、今も生きて働いておられるイエスさまがいらっしゃるという、全体があるからこそ、ハレルヤがハレルヤになっていくということではないでしょうか?

 

それは、イエスさまが甦られ、弟子たちにもう一度出会われ、弟子たちから差し出された焼いた魚を一切れ、彼らの前で食べられたこと、そしてその時、語られた言葉にも現れているんです。

 

ここで、イエスさまが、焼き魚を食べられたというのは、イエスさまが、生きておられる、復活されたということを、イエスさまが証明しているだけではありません。自分を裏切り、自分から離れ去ってしまった弟子たちから、焼き魚を受け取って食べたということは、そんなとんでもないことをしてしまった、彼らでさえも、受け入れて、赦しておられるということでもあるんです。その上で、イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 

聖書全体に渡って、イエスさまについて書かれている事柄は、必ずすべて実現すること、それは、聖書全体はすべて、イエスさまを通して実現し、与えられた神さまの救いについて、書かれてあるということと、聖書の全ては神さまの救いそのものであること、そして、そのことを必ず、イエスさまは、すべて実現されるということなんです。そういう聖書全体のメッセージを、イエスさまは、弟子たちに語られるのですが、同じことを、ここで初めて言われたわけではなくて、

 

「まだあなたがたと一緒にいた頃、言っておいたことである。」とおっしゃっていますから、そのことはこれまでも何度も何度もイエスさまは、弟子たちに語り続けてくださっていたということなんです。そういうことを言いながら、もう一度、語って下さるのは、彼らにイエスさまが、神さまによって与えられ、聖書全体を通して、約束されていた救い主であることを、もう一度、教え、確認できるようにして下さっているということではないでしょうか?そしてそのもう一度は、これで最後、終わり、ではなくて、弟子たちにも、そして、私たちにも、これからも、何度も何度も、繰り返し語り続けてくださっているんです。

 

それは、弟子たちにとっても、また私たちにとっても、神さまが与えてくださり、約束してくださった、イエスさまが、私たちを赦し、救ってくださった救い主だということが、分からなくなることがあるからではないでしょうか?それは、また私たちの側で、神さまからの、その約束を、忘れてしまうということもあるからではないかと思います。

 

忘れることは、誰しもあるものです。皆さんにもおありになりますね。さっき覚えていたことを、忘れてしまうこと、忘れないように・・・とメモしたのに、そのメモをしたものが、どこに置いたかを、忘れてしまうこともあると思います。

 

失敗談ですが、忘れてはいけない・・・ということで、メモ書きだと、そのメモもどこかに行ってしまうと思いましたので、この手に、マジックで書いたことがありました。自分の手に書きますから、メモ書きのように、どこかに行ってしまうことはなかったので、それはそれでよかったのですが、自分の手に、油性のマジックで書いてしまったことで、なかなか消えないんです。石鹸でごしごししても、消えない・・・しかも、大きな字で、しっかりと書いたものですから、消えないまま、しっかり周りにも、何をするにも、書いてあるものが、見えてしまうんです。それでしばらくちょっと恥ずかしい思いをしたことがありました。

 

忘れることは、あります。忘れることが、いけないのではなくて、忘れるものは忘れるんです。たとい、忘れちゃいけないと思って、忘れないようにしていても、忘れる時には、忘れるんです。けれども、忘れることで、忘れたことが、かえって良いことにも変えられ、与えられていくんです。

 

だからこそ、イエスさまは、何度も何度も、聖書全体に渡って、書かれていることは、わたしについて、イエスさまがメシア、メサイア救い主であるということを、繰り返してくださることで、恵みが繰りかえし、繰りかえし、何度も何度も、与えられていくという恵みに、変えられていくのではないでしょうか?

 

その結果、弟子たちの心の目は、開かれていくんです。そういう意味では、心が開かれていくというのは、1回語られ、与えられたから、開かれていくというのではなくて、忘れても、忘れても、あるいはいろいろな理由で、心が閉ざされていても、だからこそ、イエスさまは、その度毎に、何度も、何度も語って下さるんです。何度も、わたしだ!何度も、わたしがあなた方の救い主だ!ということを、語ってくださるんです。

 

それは、畑を作り、耕すと言うこと、作物を植え、育てるということと似ているように思います。

 

畑も1回耕したらそれで終わり、ではありませんね。1回耕しても、また耕します。それで終わりではなくて、また耕します。草が生えれば、草刈りをしたり、草抜きをします。では草刈りをしたら、それで終わりかというと、雨が降ると、次の日には、大きく、のびのびと成長していますよね。それでまた草刈りなどを繰り返していきます。そういう意味ですね。心の目が開かれるというのは。だから、何度も何度も、繰りかえしなされていくんです。

 

そして、その心の目が開かれた時、イエスさまは「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、弟子たちに、都エルサレムにとどまっていなさいと、おっしゃられるんです。

 

その言葉を、彼らは、素直に受け取っていくんです。だから、彼らは、イエスさまが、彼らを祝福して、彼らを離れ天に上げられた時にも、天に上げられたイエスさまを、捜し求めたり、離れて行くイエスさまを追っかけようとしませんでした。ただイエスさまの言われた通りに、受け取り、大喜びで、エルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた、彼らの心は、喜びで満たされ、神さまを心から賛美して過ごしていくんです。

 

それは、イエスさまが、目に見える姿では、自分たちから離れても、もう離れてどこかに行ってしまったお方ではない!イエスさまが語った通り、イエスさまが、聖書全体を通して、イエスさまは今も、ここにおられるということが、分かったからではないでしょうか?それが、心の目を開いて下さるということではないでしょうか?

 

先日の教区総会も、守られ無事に終わりました。行きも帰りも、ご多分に漏れず、ナビを使っていたにも関わらず、道を何度も間違ってしまいました。車を留めた駐車場が、静岡教会の近くにあったのですが、どこに止めたか、土地勘がないこともあってでしょう。分からなくなって、右往左往することも度々でした。そして帰りは、早めに出て、インターに向かったのですが、ナビが案内するインターが、ETC専用のインターで、ETCがない車でしたから、もう一度、元来た道を戻って、ようやくインターに入ったかと思いましたら、東京方面か、名古屋方面か、どちらに行けばいいか分からなくなり、分岐点で車を止めて、ようやくナビで確認して、ようやく高速に入ることができたのでした。そんな総会の一日目の夜は、その前年に神さまのもとに召された、教区内の教会に連なる方々の名前が読み上げられ、讃美と祈りの時が持たれました。そして、昨年私たちの教会に連なる方々のお名前も読み上げられた時、ふと、生前のお元気でいらした時のことを、思い起こしました。そして神さまに出会い、神さまを信じて、歩まれたその姿と、今も、神さまと共に、イエスさまの救いと赦しの中にあることへと思いを向ける時となりました。それはそこで歌われた讃美歌にも現れていました。

 

主を仰ぎ見れば 古き我は うつしよと共に、とく(速く)さりゆき、われならぬわれの あらわれきて、見ずや天地ぞ あらたまれる。

うつくしの都、エルサレムは、今こそくだりて われに来つれ。主とともにいませば、つきぬさちは きよき河のごと 湧きて流る。

うるわし慕わし とわの御国、うららに恵みの 日かげさせば、いのちの木の実は みのり繁く もはや死の影も なやみもなし。

つゆほど功の あらぬみをも きよめてみくにの 世継ぎとなし 輝く幕屋に 住まわせたもう わが主の愛こそ かぎりなけれ。

 

続く頌栄讃美歌29番もそうでした。

 

天のみたみも 地にあるものも 父子聖霊なる神をたたえよ とこしえまでも。アーメン。

 

その讃美を通して、与えられていることは、天に召された方々は、神さまと共に、神さまの愛と、神さまの赦しに、しっかりと包まれて、神さまに受け入れられている!ということでした。そしてすべての悩みと苦しみからも、解き放たれて、私たちと同じ神さまと共に、神さまを、心から喜んで賛美しておられるということでした。

 

弟子たちが、天に上げられていくイエスさまを見た時、それは別れではありませんでした。別れの挨拶を、イエスさまが祝福された時、それは別れの挨拶でもありませんでした。これからも目には見えなくても、主が共におられ、赦しと救いの中で、歩むことができる、という約束が与えられていました。その約束、お恵みを持って、彼らは、これから神さまの赦しと救いにあずかっていかれる方々のところに、出かけて行きました。それは、イエスさまが、心の目を開いて下さったからです。

 

祈りましょう。

説教要旨(6月1日)心が開くとき(ルカ24:44~53)