2025年5月11日礼拝 説教要旨
命とは何か(ヨハネ11:17~27)
松田聖一牧師
聖書には、いろいろな数字が出てきます。今日の箇所にも、4とか、15という数字が出てきます。その数字に現わされた意味と実際を確認しながら、神さまがお語りになり、与えて下さっていることに思いを向けたいと思います。
まずは4です。4というと、「し」とも読まれることから、日本では不吉な、いい数字ではないと言われています。韓国や中国でも、ホテルに4階の表示がないとか、4という数字を避ける傾向がありますが、しかし、4という数字は、数字自体、極めて安定感のある調和のとれた数字です。というのは、4はいろいろなところで安定感をもって使われているからです。例えば、起承転結がそうですね。文章とか話の内容に、この起承転結が、しっかりとあると、読みやすいですし、分かりやすくなります。車もそうです。一般的に車の車輪は4つありますね。でも3つだったらどうでしょうか?以前、車輪が3つの三輪自動車がありました。後ろは車輪が2つなのですが、前は1つしかありませんでしたので、時折、その車の前の部分が、バランスを崩して、ガクッと傾いて、皆で、よいしょと元に戻したというエピソードもありますが、それは、車輪が4ではなくて、3というのはバランスが悪かったからです。そして、もう1つご紹介するなら、三角形も、実は、3つの四角形に囲まれているから、三角形になっているんです。その四角形が、それぞれ正方形であれば、その正方形に囲まれてできる三角形は、直角三角形になりますし、その正方形が同じ大きさであれば、その時の三角形は、正三角形になります。辺の数から見れば、四角形の4から、三角形の3が生まれるということになりますね。そういう意味で、その他いろいろなことにある4という数字によって、調和し安定するということなんです。
その4が、今日の聖書にあります、ラザロが、墓に葬られてから4日経っていたにもあるということは、ラザロは安定して、言い換えれば、安らかに墓に葬られていたと言えるのではないでしょうか?なぜ言えるのかというと、ラザロは墓に葬られながらも、ラザロ自身は、すべての苦しみから、貧しさからも、痛みからも、解き放たれて、神さまと共に、何の苦しみも、悩みもない、喜びと平安、安心できるところへと移されているからです。
それは、教会の納骨堂に入った時にも、そうだと毎回受け取らせていただくことです。納骨堂には、かつて教会で共に礼拝をささげ、守られ、信仰生活を贈られた方々が収められています。その方々の写真などを見る時、ここにはおられなくても、神さまと一緒だ!神さまと一緒に、天国で何の苦しみも、悩みも、悲しみもない、喜びばかりのところにいると、本当にそう思います。きっと天国で讃美歌を大きな声で歌っておられるのではないか?天国に帰られたたくさんの方々と、わいわいと過ごしておられるのではないかと、いろいろ想像します。ふと思い起こします。その方々のことを、ある先生は、天国会員だ!とおっしゃり、天国会員は増え続けているよ!だから、教会は人が減ることは決してない!増え続けて、今ある教会の力強い応援団になっている!とおっしゃっていました。確かにそうだなと思います。そんな天国会員になられた方々は、いつも神さまと共に安らいでいます。安定しています。だから、安定感をもって、安らかに葬られていると言えるんです。
だからラザロに対して、イエスさまが、今日の箇所のすぐ前に、「わたしたちの友ラザロは眠っている」とおっしゃられるんです。この眠っているということも、そもそも安心できるからこそ、眠れているということではないでしょうか?でも、安心できないストレスとか、何かがあると、なかなか寝られなかったりします。一旦夜中に起きたら、もう目がさえて眠れなくなるということも、あるかもしれません。そういう時には、朝までぐっすり眠れたら・・・と、どんなに思うことでしょうか?皆さんはいかがでしょうか?
あるおばあさんは、ぐっすりと眠ることができませんでした。夜中に起きたら、もう寝られなくなる毎日でした。そのことをある時、こうおっしゃっていました。「朝までぐっすりと眠れたら、どんなにいいか・・・」1回でもいいから、ぐっすり眠れたら…と本当に願っておられました。その一方で、いつでも、どこででも、すぐに眠ることができる方も、いらっしゃいますね。電車の椅子に座った途端、あるいは、吊革にぶら下がりながら、すぐに寝ることができる方もいらっしゃいます。電車とは違いますが、礼拝で説教が始まった途端、ぐっすりと寝ることができた方もいらっしゃいました。礼拝で寝ることができるというのは、一番安心できる場所で寝ることができたということですから、それはそれで、なるほどそうだなと思います。寝ることができるというのは、有難いことですし、幸せなことですね。
ラザロは安心して、墓に葬られ、「眠っている」んです。ラザロは、神さまのもとで、神さまと共に、安らいでいるんです。最も安心できる神さまのもとに、受け入れられているんです。そんなラザロのところ、べタニアに、イエスさまは行かれるその時、そのべタニアまでの距離について「15スタディオンほどのところ」と、記しています。その意味は、ただその距離が、15あるというだけではなくて、15という数字にも、意味があります。
というのは、東洋の思想では、15という数字は、完全・完璧を表す数字です。ここでなぜ東洋の思想をご紹介しているかというと、1つは、15日毎に変わる季節24節気(せっき)と呼ばれるものがありますね。立春、春分、夏至とか、小暑、大暑など、1年を24等分、約15日毎に分けて、それぞれに名前が付けられています。この15日毎に分けるというのは、月の満ち欠けと太陽の動きがもとになっていますが、それと同じ15と言う数字は、出エジプトにおいて、神さまが、神さまのことを忘れることがないように、7日毎の礼拝、安息日の礼拝以外にも、15日毎に礼拝を守り、ささげるようにと命じておられるところにもあるんです。さらに言えば、15日毎に変わっていく、月の満ち欠けによって、イースター、復活祭の日が定められたということもそうです。そういうことが、シルクロードなどを経て、また歴史の中で、日本にも伝えられてきたわけですが、それを伝えた方々の、伝えようとしたその中身は、神さまがいつも一緒にいてくださり、神さまが一番安心できるお方だという、すごく安心できるものを持って、旅をすることができたのではないでしょうか?もちろん旅の途中には、いろいろあったと思います。安心できないことにも出くわしたことでしょう。しかし、彼らに与えられ、彼らが持っていた、安心、安らぎは、どんなことがあっても変わらなかったんです。
だからイエスさまは、安定して墓に葬られ、眠っているラザロのところに出かけていく時、どんなにマルタや、マリアが、安らいでいなくても、また彼女たちのところに来ていた人々が、ラザロが亡くなってしまったことで、慰めに来ていても、イエスさまにとっては、ラザロは、一番安心できる神さまと一緒にいるということを知っているんです。そしてその安心を、イエスさまは届けに来てくださっているんです。
それに対して、マルタは、どうだったかというと、イエスさまが来られたと聞いて「迎えに行った」とありますが、これはイエスさまが来てくださったことを歓迎したと言う意味ではなくて、イエスさまを敵対的に受け止め、イエスさまに立ち向かっているということなんです。そして、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、イエスさまに対して、敵対し、立ち向かいながら、どうして、すぐにラザロのところに来てくれなかったのですか?どうして、ラザロを癒し、助けてくださらなかったのですか?という、不満、腹立たしさ、持って行きようのない怒りも含めて、イエスさまにぶつけているのではないでしょうか?
しかしそういう中で、彼女は、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、わたしは今でも承知しています」と、マルタは、イエスさまに立ち向かい、ぶつかっていきながらも、それでもイエスさまに頼ろうとしているのではないでしょうか?だから、イエスさまが、神さまにお願いになることは何でも神はかなえてくださると、信じていますとは、言ってはいませんが、それでも、イエスさまにもうラザロはなくなって、死んでしまったけれども、イエスさまだったら、何とかしてくださる!いや何とかしてほしい!と、訴えながら、彼女は、イエスさまを「あなた」と呼んでいるんです。この時、マルタにとっては、イエスさまは、もう、「あなた」であり、あなた以外には、あなたと呼べるお方はもういないんです。そして今、この時、「あなた」であるイエスさまの前に、マルタは、「わたし」になっているんです。それは、立ち向かい、ぶつかっていながらも、イエスさまに、自分自身を何もかも、委ねているマルタになっているからではないでしょうか?
だからこそ、イエスさまは、「あなたの兄弟は復活する」あなたの兄弟は必ず復活するとおっしゃられることにも、ハイ分かりました、ハイ信じますと答えることができないんです。その答えは、素直な答えではありません。でも素直に、ハイ分かりましたではなくて、分かりませんということも、ぶつけることができたというのは、素直ではないわたしだけれども、そんなわたしを、あなたは受け入れて下さっていると、マルタは、受け止めることができたからではないでしょうか?たからこそ、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と、イエスさまに対して、終わりの日の復活という、遠い未来のこととして、受け止めて、そのことは「存じております」とか、知っていますと、イエスさまが言われたことを素直には受けとっていなくとも、ちゃんとあなたであるイエスさまに返していくんです。イエスさまは、そんなマルタであっても、復活とは、遠い未来のことではなくて、今、ここに、今ここに復活がある!今、ここで生きて働かれるということを、マルタに向かって、はっきりと語り、ラザロの復活を通して、神さまであるイエスさまは、復活の主、今も、生きて働いておられる神さまであるということを、見せて下さるんです。
ある教会で出会った方が、病床で洗礼をお受けになられました。その時、もう今しかない!と思いましたので、側にいた家族の方にも、今、受けましょうということで、病院で洗礼を受けられたのでした。その時は、ご家族も、私も、もう今じゃないと、だめじゃないかと、本当に思っておりました。ところが、うれしい誤算と言いますか、洗礼を受けてから、急に元気になられて、無事に退院されることになりました。そして家に帰られて、お体は年齢相応になっていましたが、
日常の生活を送ることができるようになっていました。そんなある時に、お訪ねしました。その時は、玄関先だったのですが、祈りましょうと言って、一緒にお祈りしましたら、急にその方が、続けて祈り始めたのでした。「あ~天の父なる神さま!今日もお守りくださり、ありがとうございます。今日はまたこうして思いがけず、祈る時を与えて下さり、ありがとうございます。尽きせぬ感謝を主イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます」実は、その方が祈られたのは、この時が初めてでした。だから一緒におられた家族の方も、びっくりされて、祈っている!そんなことがあるんだ!どこで祈りを覚えたんだろう?どうしてかは分かりませんでしたが、それでも思わず、祈られた時、本当にうれしそうにされていました。
「尽きせぬ感謝を主イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます」神さまは、今、この時、祈りを与えて下さったのでした。そして今、生きて働いておられるお方に向かって、今、祈れる恵みを与えて下さったのでした。
イエスさまはおっしゃいます。「このことを信じるか」と。それは、遠い先に信じるか?遠い先にあることを信じるか?ではなくて、今、このことを信じるか?です。イエスさまにとっては、今、なんです。だからどんなに、存じておりますとか、承知しておりますと言っていても、イエスさまは、それらを越えて、その言葉に振り回されることなく、今、あなたは信じるか?と問いかけておられるんです。
イエスさまは、今も生きて働いておられます。それが復活の意味であり目的です。それは、終わりの日、遠い未来の、遠い先のことではありません。今、与えられます。だからこそイエスさまは、今、生きている、私たちに「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」今、イエスさまを信じる者は、だれでも、イエスさまと共に、神さまのいのちに、生きることができるという約束を、今、与えておられます。そして今、私たちに与えられた命は、今、神さまであるイエスさまと共にある、命となっているんです。
マルタはイエスさまに答えました。「はい、主よ」はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、今、イエスさまを信じたのでした。
祈りましょう。