2025年4月27日礼拝 説教要旨
お金が動くとき(マタイ28:11~15)
松田聖一牧師
昨年の1月1日に能登半島で大きな地震が起った、その時、槍ヶ岳に上っておられた方が、山頂で地震に遭われました。その方の映像がYOUTUBEで出ています。地震が起きた時、登山者の方々は、槍ヶ岳の山頂、槍の先のようにとがった僅かな場所で、岩にしがみついて、やばい、やばいと叫んでいました。周りでは落石の音や、同じように登山されている方の悲鳴などが聞こえてきます。それが、地上ではなくて、山の上、槍ヶ岳の山頂でしたから、本当に怖かったと思います。そんな中、人々は、やばいやばいと言いながら、一緒にいた人にも、こっちに来い!と声を掛けながら、お互いに身を寄せ合っていくんです。その時、不思議なことですが、お互いに見ず知らずであっても、どこから来たのかも分からなくても、お互いに一緒になれるんです。
私たちにとっても、地震に限らず、予想もしない大きな出来事を一緒に経験した時、自分の身を守ろうとして、必死で集まり、お互いに身を寄せ合っていくのではないでしょうか?
それは、イエスさまの墓で起きた地震や、番兵たちが死人のようになり、墓をふさいでいた大きな石が転がされていたという、大きな出来事が起きた時の、番兵たち、祭司長たちや、長老たちの姿でもあります。だから彼らも、まずは自分の身を何とかして守ろうとして、それぞれ集まっていくのですが、それも、かき集めるようにして、集まっていくんです。
この中で、数人の番兵たちに注目したいと思いますが、この番兵の立場は、神殿を警備する兵隊ではなくて、ローマの兵士です。その兵士たちが「都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」とありますが、どうして、すべて報告できたのかと思います。というのは、この兵士たちと、彼らが報告した祭司長たちの関係を見ると、この兵士たち、番兵たちは、神殿を守る兵士ではありませんから、祭司長たちと直接の関係はありません。しかも、その頃、神殿も含めたその場所は、ローマに支配されていましたから、祭司長たちにとっては、自分たちを政治的に支配している側の国の兵士、いわば、占領軍の兵士ですから、そんな兵士たちに対して、「自分たちの国を占領した!」という反感の気持ちも含めて、いろいろな思いがあったのではないでしょうか?そういう気持ちを自分たちに向けている関係が、祭司長たちと、番兵たちとの関係です。それなのに、番兵たちは、すべて、その祭司長たちに報告したんです。そしてその報告をした番兵たちを、祭司長たちも受け入れているんです。
どうしてこんなことができたのでしょうか?その理由が、番兵たちの、祭司長たちに報告したという、この言葉と、婦人たちの、弟子たちにイエスさまが甦られ、生きておられることを「知らせる」ために走って行ったの、「知らせる」と同じ言葉であることから、見えてくるんです。不思議なことですが、婦人たちが弟子たちにイエスさまの復活を知らせる時には、「知らせる」である一方、番兵たちが祭司長たちに、これらの出来事を知らせる時には、「報告」になっているんです。しかも婦人たちは、イエスさまが甦えられ、生きておられることを、恐れながらも、大いに喜び、「知らせた」のに対して、番兵たちはただ報告した、だけです。ここには、番兵たちの感情が現れていません。ということは、この時、番兵たちには、恐れも、喜びも何も感じられない中にあったのではないでしょうか?感覚がマヒしていたということではないでしょうか?
それはそうかもしれません。同じ仲間である番兵たちが、死人のようになったことを目の当たりにして、あまりのショックのために、何も感じられない状態になっていたのではないかと思います。そしてそれだけしか、目に入らなくなってしまい、それが彼らにとってのすべてとなっているのではないでしょうか?
念入り、という言葉がありますね。念入りにというと、心を込めてとか、一生懸命にとか、丁寧にとか、いろいろな意味がありますが、この念入りの念という漢字を見ると、今、という漢字と、心という2つの漢字が繋がっていますね。このことについて、こんな一言がありました。「「念」を入れて生きる。「念」の文字を分解すると、「今」の「心」。今、目の前にいる人を大事にし、今、目の前にあることを大事にすること。」確かにそうだなと思います。今ということに、心を込め、念入りにすること、大事ですね。ただですね、今に、心を込め過ぎて、今を大事にし過ぎてしまうと、今、目の前に在る人、今、目の前に在ることも含めた、今ということに、かえって自分が縛られてしまい、今以外のこと、これまでとこれからに、また周りのいろいろなことにも、心が向かなくなってしまうのではないでしょうか?
だから番兵たちも、今起きた、その今のことに、念入りになりすぎてしまっているんです。その結果、自分たちの国が占領している側の、また自分たちが守っているわけではない、神殿の祭司長たちに、感情も何もなく「報告した」と繋がるんです。
それは、この報告を受けとった「祭司長たち」が、「長老たちと集まって」寄せかき集めて、「相談」することも、その相談に乗る「長老たち」も、そうです。この時、彼らは、自分の身、立場を守る事のみに、心が向き、今それに向かっているんです。それが、多額のお金、すなわち、多額の、十分な相当の銀貨を、兵士たちに与えていくという行動にも現れているんです。そのお金は、兵士たちの生活、これから生きるために必要な十分なお金、相当なお金です。それが今、兵士たちに与えられ、今それを受け取ることができたら、兵士たちは、生涯、そのお金で食べていける、支えられます。言わば、すごく安心できるお金です。だからこそ、兵士たちは、今、そのお金を受け取り、そのお金を、今、与えた祭司長、長老たちに、今、心を向け、今、その言う通りにするということにのみ、心を向けて、動かされていくんです。それはまた、祭司長、長老たちに、自分たちの心を、今、お金で売り、その心を譲り渡したということでもあるのではないでしょうか?どうしてそんなことになるのか?兵士たちも、祭司長、長老たちも、今ということにのみ、心を向けすぎているからです。お互いに、感覚がマヒしているからです。
そういう感情がない、感覚がないというのが、実は、お金の性質でもありますね。お金は天下の回り物と言われますが、お金には気持ちも、こうしようという意志はありません。しかし、それを使おうとする人の気持ちや、意志がそのお金を動かしていきますから、今、私たちが手元にあるお金も、どこでどのように使われたのかは、分かりません。だから、良いことにも使われたでしょうし、悪いことにも使われたお金であると言ってもいいでしょう。そういう意味で、お金というのは、いろんな人の気持ち、意志も含めて、お金と一緒になって、人から人へ、それこそ回っていきます。それが商売で言えば、物の売り買いであったり、銀行や郵便局に預けたり、おろしたり、貸したり、借りたりすることにも、そのお金を手にし、動かしていく人の気持ちや、意志が、そのお金と共に、動きます。
しかし、その時、お金を使う側、受け取る側、お金を回していく側が、今のことしか、今しか考えずに、感覚がマヒした状態で、使ってしまったら、回してしまったら、あるいは受け取ってしまったら、どうにでもお金が使われてしまうのではないでしょうか?その時、お金を使う側も、受け取る側も、回していく、そのお金と同じものになってしまうのではないでしょうか?そういう中で、祭司長たち、長老たちが、兵士たちに多額のお金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」と言われるんです。でも実際には、弟子たちが、夜中にやってきて、イエスさまの遺体を盗んで行ったということは、ありませんから、根拠のない作り話です。弟子たちはイエスさまが十字架に付けられた時には、逃げましたし、隠れました。しかしそうであっても、兵士たちは、与えられたお金を受け取り、与えた人たちに、心を売って、ますます感覚がなくなり、教えられた通りに、作り話を広めようとするんです。
それにしても、祭司長、長老たちは、どうしてここまでイエスさまの復活、甦られ、生きておられることを、否定しよう、なかったことにしようとするのかで?そのために、根拠のない真実ではない、作り話を、お金を使って、お金を回して、兵士たちを使って、一生懸命に広めていくのか?しかも、真実ではないことを、言った兵士たちの身分も守られるように、「あなたがたには心配をかけないように」総督を「うまく」説得して、総督のお墨付け迄取ろうと、言うのか?というと、自分たちの立場を守ろうとしているということに尽きます。それがイエスさまの復活を否定しようとする彼らの目的です。
しかし、イエスさまの復活を否定しようとして、その事実を曲げ、作り話迄作って、ここまで念入りに否定しようとすればするほど、かえって、イエスさまの復活、甦られて、生きておられるという真実が、明らかにされ、イエスさまが甦られ、生きておられるということが、言い広められていくのではないでしょうか?
そう言う意味で「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあるのは、弟子たちがイエスさまの死体を、我々の寝ている間に盗んで行ったということが、広まっているだけではなくて、逆に、イエスさまの甦りをどんなに、お金を使って、否定しようとしても、それらを越えて、神さまは、イエスさまが、甦られて、生きておられるということを、広めてくださっているということなんです。そしてその知らせを、神さまは、今、私たちにも広めて下さっているのではないでしょうか?
昨年の夏、8月に教会ではキャンドルコンサートを開きました。それまでいろいろ準備がなされていきました。教会に練習に来られる方や、グランドピアノが与えられたので、調律に何度も足を運んでくださった調律の方やら、いろんな方が出入りされることになりましたが、丁度そのタイミングで、エアコンが1台壊れてしまいました。最初は、保証期間内と思っておりましたら、タッチの差で保証期間が終わっておりまして、修理にお金が必要になりました。これはどうしたものか。修理代がかかる・・・と思っておりました時、コンサートの前に壊れてしまったことで、コンサートに備えて、修理しなければならないということを教区の伝道援助に申請できるかどうか、ダメかもしれないけれども、ダメもとで聞いてみました。開口一番「いいですよ~伝道のためならとにかく申請してください~」でした。それで申請してみようということになりました。その中で、丁度グランドピアノも、コンサートの前に与えられましたので、ピアノの調律も申請できますか?と聞きましたら、「いいですよ~それも伝道のためですから、出して下さい~」ということで、調律費も申請することができ、それが認められて、援助を頂くことになりました。神さまは、凄いお方だと思いました。エアコンが壊れる時も、コンサートの後ではなくて、その前に壊れるようにしてくださいました。壊れるタイミングもちゃんと見て下さっていたのではないかと思います。
その他、コンサートの1週間前から、非常に大型の台風がやってくるというニュースばかりが流れていました。毎日、予報円を見ますと、この日に長野県に近づく・・ということを考えてしまいます。ところが、その時の台風は、本当に進まなくて、いつまでたっても、大阪方面でじっとしているんです。それでも動き出した時に、予報円を見ると、コンサートの当日に長野県に近づくという予報でしたので、祈りながら、台風がこちらに来ないように、来ても被害がでないように、無事に開催できるようにと、皆さんと祈りました。そうこうするうちに、気象庁から、こんなお知らせが出ました。「台風が消えてなくなってしまったようです・・・」近づかないように、来ても大丈夫なように・・というお祈りはしていましたが、消えてくれるようにというお祈りはしていませんでした。その日、その時、今の台風がどこにいるか、そういうことばかり見て、考えて、それに基づいて祈ったり、対応をどうしようかということで来ていたと思います。それは感謝なことだったのですが、ところが当日は土砂降りの雨。朝から凄い雨でした。その日は、葬儀があり、お昼ごろに弔問に出かけたのですが、その時も土砂降り。同じ弔問で出会った方から、「今晩、大丈夫?」と心配しておっしゃってくださいましたが、お天気のことを、私に大丈夫と尋ねられても、答えようがないのですが、その時に思わず出た言葉が、「大丈夫です!今日、午後4時に雨が止みます」ということを、答えてしまっていました。どうしてそんなことが言えたのか?今でも分かりませんが、その時は、雨は午後4時に止むということを本当に思っていたからだと思います。とは言うものの、雨は降り続いていましたし、どうなることか・・・と思いましたが、やがて雨は上がり、今まで見たこともないような夕焼け、虹が出ました。その時の時刻を見たら、午後4時でした。
これで大丈夫と思ったところに、夜に演奏くださる方々が、リハーサルのために、来てくださいました。新聞社の方からも電話が入り、「今日はコンサートされますか?」と尋ねられた時、「ハイ予定通りします。取材にどうぞお出かけください。」とお伝えしましたら、記者の方から、「それは良かった。実は、今日は他でもいろいろイベントがあったのですが、どこもこの雨で中止になったので、今日はどうか?とお電話しました~」他のイベントが中止になってしまったことで、記者の方も、動きやすくなったようでした。でも何かのイベントをするにも、お金がかかっていたと思います。ただではできません。お金が動いていたと思います。でも、残念ながら、雨で中止になってしまったものもありました。そんな中で、コンサートが守られて、無事に開催できた時、満員御礼であったことと、駐車場も一杯になったことへの感謝と共に、受け取らせていただいた1つのことは、この会堂が非常に狭いということでした。駐車場も狭くて来られた車を全部止めていただくことができませんでした。だから他の場所をお借りできて本当によかったと思いますが、そうであっても、狭いままでいいのか?そのままでいいのか?と、言われているようなひと時でもありました。ただそれが本当に実現するためには、お金が必要ですし、お金が動くことになりますから、否定しようとする思いも出て来るでしょう。ですから、その時、その時に、私たちは、何を祈るか?どんなことを祈ろうとするか?ということが、求められ、問われていくように思いますし、もちろん祈りの内容は、自由です。狭いままでいいです。このままでいいですと、狭いままでいいのかという問いかけを、否定することもできると思います。自分のお金は自分のものだから、神さまのためには使いたくありませんと、否定しようとすることもあるかもしれません。しかしそうであっても、お金は毎日、動いていきます。毎日、いろんなことに、いろんな方向に、気持ちと共に、動きます。
そのお金が動く時、動かされる時に、イエスさまが神さまであり、甦られて、今も生きておられるということを、否定しようとして、お金が動いたとしても、神さまは、その否定を、否定のために、ではなくて、否定することによって、逆に、本当にイエスさまは生きておられる、ということのために、そのお金を用いて下さいます。それが、神さまの、お金の動かし方です。イエスさまが生きておられ、生きて働かれるということの証し、証明のために、お金を動かしてくださるんです。
その結果、生きておられるということが、広まっていきますし、広まっているんです。
祈りましょう。