2024年11月17日礼拝 説教要旨
与えられたことを(マタイ5:38~48)
松田誠一牧師
イエスさまが「目には目を、歯には歯を」と命じられているとおっしゃられたこの言葉は、ハムラビ法典という古い決まりにもありますし、旧約聖書にも出てきます。その意味について、次のような解説があります。
「目には目を歯には歯を」は、被害に応じた報復または制裁をするという意味です。あくまでも報復は受けた被害と同等の仕返しにとどめ、それ以上のことをしてはいけないことを表しています。
ということなのですが、そもそも、目には目を歯には歯をという決まりがあること自体、されたことに対して、されたことと同じでは済ませたくない、されたこと以上のことを、やり返したいというものが、お互いに関係の中に、あるからではないでしょうか?具体的には、1のことをされたとき、された1と、全く同じ1で済むか?というと、そうではない現実があると言えるからです。それはそうですね。自分が受けたり、されたりした、嫌なこと、また許せないことに対して、されたことと同じでいいとは思えないと思います。むしろ、されたこと以上に、返してしまいたいという思いが出て来るのではないでしょうか?なぜならば、仕返しをしたいと思っている相手は、自分にとって、悪人になっているからです。その通り、嫌なこと、赦せないことをした相手を、私たちは、悪人にすぐにしてしまいます。
だからこそ、イエスさまは「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」と、悪人に対しては、目には目を、歯には歯を、ではなくて、「手向かってはならない」反対し、反抗し、抵抗してはいけないとおっしゃられるんです。つまり、悪人に対しては、受けたことと同じ仕返しにとどめなさいということすらも、するな。悪人とは、一切関わるなということではないでしょうか?
何故悪人にはそうしなさいと、イエスさまはおっしゃられるのでしょうか?それは、自分にとっての悪人に抵抗し、反抗し、反対することによって、反抗し、反対する者が、逆に悪人に巻き込まれてしまうこと、そして悪人と同じところ、同じ土俵に立ってしまうこと、その可能性を、イエスさまは知っておられるからではないでしょうか?そう言う意味では、悪人というのは、ものすごく力強いです。太刀打ちできないほどに、凄いです。
ある学校の卒業式で、PTA会長をされていた方の挨拶の中で、こんな言葉がありました。「これから皆さんは、この学校を巣立って行きます。そして社会に出て行く人も、さらに進学する方もいるでしょう。その時、いろいろな人と出会います。そのいろいろな人の中には、ある一定数、人がどうすることもできない悪というものに出くわします。それが1つの現実です・・・」
世の中の現実を、非常にストレートに語っていますが、本当にその通りです。人がどんなに働きかけても、どんなに悪人から善人に変えようとしても、人の力ではどうすることもできない悪、悪人の存在がなくなる世界ではありません。しかし、そうであっても、その悪人から、被害を受けた時、いくら悪人であっても、心情的には、その悪人に手向って行こうとする思いや、反抗し、報復をしたいということは、出て来て当然だと思います。でも悪人は、悪人なんです。何を、どうやっても悪人は悪人です。善人ではありません。ですから、どんなに手向かって、反抗して、反対して、報復をすることで、その悪人を善人に変えようとしても、悪人のその悪意を善意に変えるようとしても、非常に難しいというだけではなくて、そうしようとすればするほど、報復の連鎖となって、憎しみや悪意が、また悪事がどんどん大きくなっていくのではないでしょうか?そういう意味で、悪人をどうこうしようとすることは、人にはできないことなんです。だから、悪人は、立ち向かい、反抗し、手向かえる相手ではないし、悪人には立ち向かってはいけないんです。関わってはいけないんです。
その理由を更に強める意味が、この悪人という言葉の中にあります。悪人という言葉には、病気とか、悪性、という意味も含まれています。一般的に、悪性と言われるものがあると、放っておいたら治るというものではなくて、それは、その人から切り離さないといけません。悪性のものは切り取ってしまわないと、そのままにしておいたら、どんどん大きくなります。
何年か前に、あるところで、大学時代の先輩にお会いする機会がありました。本当に久しぶりだったのですが、その方が、会うなり、ズボンのすそを少しくっと上に上げられて、足を見せて下さいました。「こんなことになっちゃったよ~」見ると、両足が義足になっておられました。足が壊死してしまったので、ばい菌が体にこれ以上入って来ないように、足を切断されたとのことでした。
足をそのようにしなければ、体全体に悪いものが回ってしまいます。放っておいて治るものではなくて、切り取らなければならない時には、切り取らないといけません。悪人に対してもそうです。立ち向かってはならないんです。立ち向かう相手、関わる相手ではないんです。だからこそ、イエスさまは、「手向かってはならない」関わらないようにとおっしゃっておられるのではないでしょうか?
じゃあ、イエスさまは、悪人の悪事をそのまま放っておかれるのかというと、そうではありません。それは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉の中にある、頬を打つ、手で殴る、棒や鞭で打つという意味を通して、また左の頬をも向けなさいという言葉を通して、悪人の悪事を、イエスさまは放っておかれるのではなくて、悪人の殴る、平手打ちを食わせるといった、その悪事を、イエスさまが、自分にとっての悪人との間に立って、その関係の真ん中で受けておられるからです。というのは、「だれかがあなたの右のほほを打つなら、左のほほをも向けなさい」という言葉には、右のほほを手で殴る、平手打ちを食わせるならば、手で殴られた、あるいは平手打ちを食わされた、右のほほから、左のほほを向けよという意味ではなくて、彼に振り向けなさい、そして、もう一人の人がそこにいるということなんです。
不思議な言葉です。右のほほを打つなら、打たれていない左を向けて、こちらのほほも打ちなさい、平手打ちを食らわせなさい、左のほほを手で殴りなさいではなくて、右のほほを打つなら、彼に振り向けること、その結果、そこにはもう一人の人がいるんです。ということは、右を打たれようとする本人が、彼に向きを変えることによって、そこには、打たれた本人とは違う人が、そこにいるんです。
では、その彼とは、またもう一人の人とは誰か?イエスさまです。なぜならば、手で殴る、平手打ちを食わせる、この言葉は、イエスさまが、十字架にかかられる時、十字架を背負いながら歩かれた時に、イエスさまが、人々から受けたことだからです。それだけではありません。取らせなさいと言われた「上着をも」、「行きなさい」すなわち無理やり行かせなさい、歩かせなさいと言われたことも、全部、イエスさまが十字架にかかられる時、十字架にかけられた時に、周りから無理やりされたことです。それでも、イエスさまは、それに対して、何の抵抗をされませんでした。着ていたものをはぎとられ、十字架を担がされて、無理やり歩かされ、そしてすべてを奪われ、十字架にかかられました。そのことを通して見えてくるもの、それは、イエスさまがおっしゃっていることは、全部、イエスさまに向けられた言葉であり、イエスさまがまず受け入れられた言葉であるということなんです。そして「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」ということも、イエスさまが自らされたことに繋がっていくんです。
どうしてこんなことまでされるのでしょうか?無理やり取られ、奪われ、歩かされ、無茶苦茶されていることを、どうして神さまでありながら、ご自分から、それを受け取って行かれるのでしょうか?誰かがという、その人にとっての悪人は、イエスさまとは直接関係ありません。でもイエスさまが、その人にとっての悪人との間に、立って、ここまでされるのは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ということを、イエスさまの方からしてくださっているからです。
だからイエスさまは、十字架の上で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか、分からないでいるのです」と祈られました。自分を十字架につけ、自分に悪口、暴言を吐き、鞭や手でたたき、殴っていくのを、ご自分が受けていかれる中で、その相手に対して、手向かうのではなくて、許して下さいと祈られたのです。
それは何のためでしょうか?敵を愛することは、こういうことだということを、イエスさまの方から身をもって、命を使って、示すためです。たといどんな敵であっても、認め、受け入れて、赦すこと、それが、神さまの思いであり、御計画であり、神さまがなそうとされたことだからです。だからイエスさまは神さまとして、イエスさまを自分たちの敵だと受け止めていた、その人々から受ける、苦しみを、人に負わせるのではなくて、当事者同士で何とかしなさいでもなくて、イエスさまの方から、その間に来てくださり、その間に分け入って下さり、全部受け取って行かれるんです。それが赦しを、完全に成し遂げていかれたということに繋がるんです。
三浦綾子さんという作家がおられました。氷点に始まり、たくさんの作品を出して来られました。塩狩峠という本は、映画にもなりました。教会の映画会で塩狩峠を見た時、路傍でイエスさまのことを伝えておられた方に、雪を投げつけていく場面もありました。そんなたくさんの作品を世に出された三浦綾子さんに、イエスさまのことを伝えてくれた一人の方がいました。前川正さんという方です。この方も、同じ結核を患い、大学を休んで療養生活をしていました。ある日のことです。三浦綾子さんをお見舞いに行った時のことでした。
結核の病で、将来も希望も何も描けず、ふてくされていた綾子さんに、前川さんは、いつもおだやかながらも、はっきりと意見を言ってくれました。心から心配していました。でもその時の綾子さんはどうだったかというと、かたくなな心で、なかなか心を開こうとはしませんでした。投げやりな言葉を吐きました。「クリスチャンなんて、偽善者でしょ。お上品ぶって・・・。クリスチャンは精神的貴族ね。私たちを何とあわれな人間だろうと、高い所から見下しているんじゃないの」と喧嘩腰に言う言葉にも、正さんは、ニコニコ笑いながら、受け止めて帰って行かれました。また別の日には、綾子さんを、外に誘いました。そして相変わらず、ふてくされたような投げやりの態度の綾子さんに、「いったい、あなたは生きていたいのか。生きていたくないのか」「そんなことどっちだっていいじゃない」「どっちだってよくはありません。」と涙ながらに訴える彼を横目にしながらしていた時、正さんは、そばにあった小石を拾って、自分の足をゴツンゴツンと打ち始めました。その姿にびっくりされた綾子さんは、彼の手を押さえようとしました。その時、その手をしっかりと握りしめて、こう言ったのでした。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈ったか分かりません。綾ちゃんが生きるためなら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰の薄い僕には、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ち付けてやるのです。」その姿を通して、今まで反発しか感じていなかった彼の信じるイエスさまを、自分なりに知ってみたいと、この時初めて思ったのでした。
それから病床で洗礼を受けられたのでした。昭和27年7月のことでした。その時、与えられた聖書の言葉がありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
愛するとは、ただ単に優しくすれば、それで愛することになるというのでは必ずしもありません。むしろ、愛するとは、その人のために、その相手によって、傷つくということでもあります。傷つけられることを、受け入れていくのです。そのためにイエスさまは傷つくこと、自分にとって、悪人になっていたその人から受ける悪を、全部十字架の上で受けていかれたのでした。ここに神さまの愛があることを、これが神さまの愛であることを、イエスさまは、十字架の上で現し、与えられたのでした。神さまを信じる、イエスさまを信じるとは、そのことを受け取るだけです。