2024年9月29日礼拝 説教要旨

ただ神の恵みによって(ヨハネ11:1~16)

松田聖一牧師

 

奥さんのご病気に際して、病院への入院ではなく、家で最後までみられた方の体験記があります。83歳のご主人ですが、こうおっしゃっていました。

 

以前から家族ぐるみで徒歩6分の近くにあるAクリニックに外来でお世話になっていました。平成23年5月、妻(83歳)が歩行困難となって参りましたので、院長先生から在宅医療介護の説明を受けお願いすることに致しました。

 

人生の終末を住み慣れた自宅で、家族の介護を受けながら療養できることは、本人はもとより家族も常時接することにより安心でベターであると判断しました。娘に会社を辞めてもらい私(83歳)と二人で悔いが残らないように最善を尽くすことにしました。患者の療養の日程(2週に1回院長先生、週1回看護師さんの訪問、週2回のリハビリ、週3回の訪問入浴など)を最優先に準備をして対応してきました。日月の経過とともに症状は進行して参りましたが、なんとか平成26年の正月を迎えることが出来ました。当方もかなり疲労が蓄積し先に倒れるのではないかと不安をかかえていました。そんな中、1月27日20時30分に吐血があり、Aクリニックに連絡、看護師さんと院長先生が来診され、最後が近いことを告げられました。

 

私達家族は、枕元に寄り添って涙ながらに、よく頑張ったね!と名前やありがとう、を連呼していましたが、翌28日午前1時8分に遂に息を引き取りました。60年間連れ添った辛抱強かった妻は2年9ヶ月に及ぶ療養の末に、安らかな一番いい顔をして天に召されましたのが何よりの慰めでありました。86年2ヶ月の人生で女性の平均寿命近く迄生かされたことは本当に感謝でありました。

 

ここに、ご主人の、そのままのお気持ちと、在宅医療というものが、どういうものであるかが、現れているように思います。そして、病の床にある1人のご家族への思いも、早く元気になってほしい、前のような生活を送ることができるようになってほしい、という期待と、その一方で、このまま治らないのではないか?そうなったらどうしようという、不安と覚悟のようなものも抱えながら、病の床にある一人のその人のそばから、24時間、離れられない生活を送っておられたのではないでしょうか?

 

それは、今日の聖書の御言葉にあります、ラザロを看病しながら、共に過ごしたマリア、マルタとも重なります。というのは、この時、ラザロは病気です。しかも、かなり重篤な状態ですから、今でしたら、即入院だと思います。しかし当時は、病院もありませんし、もちろん入院という考え方、そのものもありませんから、在宅医療という言葉はなくても、彼女たちは、ラザロに何かあったら?という不安と、ラザロを1人には置いておけないという思いの中で、それこそ24時間、昼も夜も、ずっとラザロのそばにいて、ラザロのために必要なことをしてこられたのではないでしょうか?そういう生活ですから、ラザロのそばから離れられなかったのではないでしょうか?

 

だから、彼女たちは、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」を、直接イエスさまのところに行って、イエスさまに伝えることができないんです。そのために(3)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた、ということではないでしょうか?

 

そしてもう1つのことは、彼女たちが「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、「言わせた」この人は、自分からイエスさまに言おうとして、言ったのではなくて、彼女たちから言わせられたということですから、この人自身は、マリアとマルタの兄弟ラザロが「病気なのです」ということを、本当は言いたくなかったか、自分からは言えない、何か事情があったのではないでしょうか?

 

ご家族の中で、自分以外全員がハンセン病と診断されたために、家族は隔離され、その方は、1歳半の時に、養護施設に入られました。そこで9歳まで過ごされたのですが、ある時、お母さんとお姉さんが迎えに来ました。そしてようやく家族5人での生活が始まったのですが、そんな中で、お母さんが、毎日、薬を飲んでいた、その時に、その子が、尋ねました。「何の薬?」お母さんは、小さな声で「らい病」と答えたのでした。それは、この病気は誰にも言ってはだめよというふうに思わせる仕草でした。最初は、どういうことか分かりませんでしたが、次第に周りから、同じような境遇にある方からも聞いてようやく分かってきたことと、どうして母親が誰にも言ってはだめよという仕草をしたのかを、それから何十年もたって、こうおっしゃっていました。

 

ものを売ってくれない。学校に来るなと言われる。仕事はやめさせられる。

結婚話が破談になる。家族の人たちはそういうひどい目に遭ってるから、自分の家族にハンセン病の患者がおったということは絶対秘密にせんと、自分自身や家族を守られへんかったんですね。

 

家族が病気であるのに、それを誰にも言えない・・・病気の家族と共に過ごしながら、看病していることも、誰にも言えない、それはすごくつらいことです。それはラザロのそばにいて、ラザロを見ている、マリアもマルタにとっても、凄く辛かったのではないでしょうか?

 

それはそうだと思います。看護と付き添いの日々というのは、それは、その看護に関わり、付き添いをしている人でなければ、分からない、大変な日常があります。周りからは、大変ですねと気遣われても、それがどれくらい大変なことかは、なかなか理解していただけないことです。しかも、誰にも言ってはダメだということで、言えないままであったら、それこそ関わっている、その人自身に、何もかもがかかってきてしまいます。いろんな思いは抱えていても、それを吐き出すことができませんから、大変なことです。だからこそ、マリア、マルタは、自分たちは動けないけれども、イエスさまだったら、言っても大丈夫だと、イエスさまだったら聞いて下さると信じて、とにかく聞いてほしくて、分かってほしくて、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」を、その人に言わせたのではないでしょうか?

 

イエスさまは、そのことを全部、聞いて下さったんです。聞き流したのではなくて、また1回聞いたらそれで終わりでもなくて、聞き続けてくださったんです。

 

その時、イエスさまが、その人に言われた「この病気は死で終わるものではない。」は、ラザロの病気は死で終わるものではない、すなわち死は死で終わるのではなくて、神さまと共に、生きる命に生きることができるということを、イエスさまはおっしゃられるんですが、このイエスさまの答えは、マリアやマルタが、ハイ分かりましたと受け入れられる内容だと言えるのでしょうか?というのは、そもそも彼女たちは、人を介してイエスさまに「病気なのです」と、訴えた時、ラザロの死ということも、受け入れた上で、病気なのですとは言っていません。ですから、「病気なのです」ということは、病気であるラザロに、イエスさまが、何らかのことをしてくださることを、期待しているということではないでしょうか?

 

しかし、イエスさまは、ラザロのこの病気は、「死で終わるものではない」と、おっしゃられるんです。ということは、病気のラザロは、そのまま死ぬ時が来るということになっていくんです。さらには「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と、おっしゃる、このことは、ラザロのこの病気は死で終わるのではない、神さまと共に生きる命に、生きることができるということが、神さまの栄光のため、すなわち神さまが神さまとして、輝くこと、そして、神の子であるイエスさまが、ラザロの病気が死で終わる者ではないということによって、イエスさまが栄光を受ける、イエスさまが神さまとしての輝きをもって、輝やかれるということになります。そのために、ラザロの死と、その死が死で終わりではないことが用いられていくんです。

 

そのことを彼女たちが、そのまま受け入れたのかというと、彼女たちのところに、この人は戻って、イエスさまからの言葉を伝えたとも、それに対して、またこの人に託して、彼女たちが何らかの言葉を返しているかというと、何もありません。また彼女たちに言わせられた、この人も、この後出てきませんから、この人は、彼女たちのところにイエスさまの言葉を伝えたのかも分かりません。いずれにしても、これ以降は、イエスさまと弟子たちとのやり取りに変わっていくんです。

 

さらには、イエスさまが、「病気なのです」と聞いた時、ラザロのところにすぐに出かけて、病気を癒されるのかというと、イエスさまは、すぐには動かないんです。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じところに滞在された」とどまられたということですから、すぐにラザロのところに、イエスさまは行かないんです。ではこの2日間、病気のラザロは、どうだったのかというと、「病気なのです」と知らされた時には、もうすでに、ラザロはなくなられて、墓に葬られているということではないでしょうか?というのは、「ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていた」と、17節にありますから、イエスさまが、「病気なのです」と知らせを受けた時には、もうすでにラザロは召されているんです。だから、なお2日間同じところに滞在された、その時には、もうすでに、ラザロは召されている中にありますから、ラザロの病気が癒されるということを、マリアやマルタが、どんなに願っていたとしても、もうすでに叶わないことになっているんです。

 

それでも、イエスさまはこの後、「もう一度ユダヤに行こう」、私たちは行こうと、弟子たちと一緒にユダヤに行こうと言われるんです。たとい「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と、弟子たちから言われても、イエスさまは、ラザロのところに一緒に行こうとおっしゃられるんです。しかし、もうすでに、ラザロは死んで、墓に葬られています。当時は、火葬ではありませんから、墓に葬られたラザロは、亡骸として、そのままそこに葬られているんです。にも関わらず、その墓にいるラザロのところに、弟子たちも一緒に連れて、「もう一度、ユダヤに行こう」と、再び命を賭して、行こうとおっしゃられるのは、イエスさまは、マルタとマリアも、そしてラザロも愛しておられたからです。イエスさまにとって、マルタも、マリアも、ラザロもかけがえのない大切な人なんです。そのラザロが、イエスさまにとってだけではなくて、「わたしたちの友ラザロ」であるからこそ、「ラザロが眠っている。」永遠の眠りにある状態であっても、イエスさまは「しかし、わたしは彼を起こしに行くのだ」と、ラザロが死の眠りの中にあっても、イエスさまは、死から、もう一度、神さまと共に生きる命に、生きることできるように、ラザロっを起こしに行って下さるんです。

 

それはラザロに対してだけではありません。私たちに連なる家族のところにも、イエスさまは行ってくださいます。たとい、亡くなられ、墓に葬られていたとしても、イエスさまは、そこに納められている、その人を起こしに行って下さるんです。

 

でも私たちにとっては、墓に葬られたその時、もうその人は、本当に死んで、もうここにはいない・・・と改めて、受け取ることです。お墓というのは、そういう思いを強く与えるところでもあります。またお墓というのは、だいたい村はずれか、人が住んでいるところから、離れたところにあることからも、普段人が生活するところとは、区別されています。

 

しかし、イエスさまが、その墓に収められているところにまで、行こう、行こうじゃないか!と言われるのは、その人が亡くなり、そのお墓にあったとしても、その人をイエスさまは、起こしに行って下さり、神さまと共にある命に生きる、新しい命に造り変えて下さるということでもあるんです。

 

だからこそ、病気は死で終わるのではない。死は死で終わるのではないということが、本当にその通りになっているんだということを、イエスさまは、もっともふさわしい時に、そのことを実現させ、そしてそれを明らかにしてくださるんです。

 

山川千秋さんというフジテレビのアナウンサーがいらっしゃいました。病気を得て、病室に来られた宣教師の方が読まれた聖書の言葉を聞いて、死は死で終わりではないということ、神さまと共にある命に生きることができる、死で、その人の存在がなくなるのではなくて、神さまと共に生きているということが、分かった時、本当にうれしくなりました。そして、イエスさまを救い主として受け入れたのでした。その後、落ち着きを取り戻し、次第に明るい表情になっていきました。そこには奥さんの長年の祈りがありました。そのことを病室で、その時々の思いを書き綴られたものが、「死は終わりではない」という本になりました。その中に、こんな言葉を書いておられました。

 

私の妻になってくれて十数年、地上では短かったと済まなく思っています。しかし、私は幸せでした。私はあなたによって二度生まれ変わりました。この世にも純粋な夫婦愛があることを、あなたは教えてくれました。そして、永遠の夫婦愛があることを教えてくれたのも、あなただった。私はあなたに巡り合ったことで、あなたに感謝します。深く深く永遠に感謝します。そのように計画された主に感謝をささげます。私は、私に信仰を植え付けてくれたことを、あなたに感謝します。「すべてを主にゆだね、二人の息子を信じてたくましく生きてください」

 

そう結ばれていました。

 

深く深く永遠に感謝します。そこにあるものは、死は終わりではない、死は死で終わりではなくて、神さまと共にある命に生きる、そのスタートを、イエスさまは、与えて下さったからです。そしてその命は、いつまでも続くものであることを、イエスさまは、示すために、どんなに困難と思えるような中にあっても、「起こしに行くために」そこに行かれるのです。

それはただ神さまのお恵みによるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(9月29日)