2024年9月15日礼拝説教要旨
聞き分けるということ(ヨハネ10:22~30)
松田聖一牧師
先日の夏のキャンドルコンサートで、歌ってくださったアンサンブルダリアというグループの皆さんからも、感謝と喜びの思いを頂きました。「地球賛歌」という歌を歌いながら、泣きだしそうになった~とおっしゃる方もあり、聞く者にとっても、また歌われていた方にとっても、良いひと時であったと思います。その方と、先日鹿麗高原でもお目にかかった時のことです。この間はありがとうございました~と申し上げましたら、ありがとうございましたというお返事に続いてこうおっしゃいました。「クリスマスはいつされますか?私は、12月20日から22日まで、こちらにおりませんので・・・」「今年のクリスマスキャンドルサービスは12月24日ですよ~」と申し上げますと、「良かった!じゃあ出れますね!」最初、えっ??と思いましたが、すぐに、キャンドルサービスでも、歌われるおつもりなんだと。それで、良かったら、是非どうぞということでしたが、こちらからお願いする前に、もう歌われる予定でいらっしゃることに、ありがたいやら、うれしい気持ちになりました。そして頭は、クリスマスどうしようか・・・ということに切り替わった瞬間でしたが、そのように、教会の働きと言うのは、これまで教会に来られたことがなかった方々と、どれだけの出会いと、繋がりを持とうとしているかということと、同時に、こちらからつながりを作ろうとする前に、向こうからも、やってくる、その出会いを受け取っていくものでもあると思います。そういう意味で、今回のコンサートも、また用いられたことは、お恵みだったと思います。
そういうつながり、出会いを求めていかれたのが、イエスさまです。だからこそ、イエスさまは、神殿奉献記念祭という、神さまに礼拝をささげる神殿が、再び清められ、新たにささげられたことを覚え、神さまに感謝をささげる祭りの中で、神殿の最も中心にい続けたのではなくて、そこから一歩出て、「ソロモンの回廊」を歩いておられるんです。それは、ただぶらぶらと歩いていたということではなくて、自らの意志で、神さまが何をおっしゃっているかということを、教え伝えるために、歩き回っているんです。
ここで、ソロモンの回廊について、確認しましょう。このソロモンの回廊とは、神殿の境内でも、異邦人の庭と呼ばれる、海外から来られた外国の方々、異邦人と呼ばれますが、その異邦人が神さまを礼拝できる場所の庭を取り囲んでいる、境内の一角にあり、屋根付きの廊下で、柱は立派な大理石で作られています。そしてそこには誰でも入ることができるので、出入りされるいろんな方々に、律法学者たちが、神さまの言葉、律法を教えていくんです。
そこにユダヤ人たちが「イエスを取り囲んで」すなわち、イエスさまを包囲し、囲んでいるということですが、この取り囲むという言葉が、使われる場面というのは、大きく分けると2つあります。1つは、取り囲んだその相手を、滅ぼそうとするために、取り囲む時と、その反対に、何とかその人を守りたい、助けたい、そして、自分たちも守られ、助かりたいと願って取り囲むという、2つのお互いに正反対の意味が、この取り囲むにはあるんです。これは、具体的にはどういうかというと、
大正時代に実際にあった出来事に、米騒動というものがあります。その発祥の地が富山県魚津という町です。今でも、その米騒動が起こったその現場の建物が保存され、記念されています。その米騒動について、こんなコメントがあります。
魚津の名を全国に知らしめた「米騒動」。日本の近代史を語る上で大きな出来事に発展しました。大正時代、近代化とともに貧富の格差増大や都市の人口増による米不足、大商人による米価の吊りあげが起こっていました。その頃北海道へと米を運ぶ輸送船 伊吹丸が魚津に寄港した時、米価高騰に苦しんでいた魚津の漁師の主婦たち数十人は、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、積み出しの中止と住民に販売するよう求めました。この事件は、全国の新聞に「越中女一揆」として報道され、米騒動は近隣の村や町、1道3府40県に及ぶ全国的な米騒動へと発展、その後内閣を総辞職に追い込む事態とまでなりました。
この時彼女たちは、お米が手に入らないので、コメを売ってほしいと、何十人かで押しかけて、その銀行のコメ倉庫を取り囲んでいくんです。そこにある思いは、コメの値段を吊り上げ、コメを売ろうとしない相手に負けたくないという思いと、自分たちにも、またお米を必要としている、たくさんの人たちに、分けてあげたいという願いです。そしてその騒動によって、お米を売ってくれるようになれば、ご飯が食べられるようになります。命が守られます。そのためにお米を求めて押しかけ、お米を売ろうとしない人々を、取り囲んでいくんです。
ユダヤ人たちも、そうです。ただイエスさまをやっつけてしまいたいではなくて、自分たちも助かりたいから、イエスさまを取り囲むんです。というのは、彼らは、ローマと言う大きな国の中で、苦しんでいたからです。また神殿も、何度も何度も、取り囲まれ武力をもって壊され、また汚されてきたからです。そういう押さえつけられた苦しみから、何とかして解放されたいからこそ、「いつまでわたしたちに気をもませるのか。」、すなわち、いつまでわたしたちの命を切り裂き、奪うのか?という言葉をイエスさまに向かってぶつけていくんです。そこまで訴えていくのは、彼らが、自分の命がいつ切り裂かれ、いつ奪われるかという、大きな恐れを抱いているからです。だからこそ、イエスさまに一刻も早く、自分たちの命が切り裂かれないように、奪われないように、わたしたちを救ってくださるメシア、救い主として、「はっきりそう言いなさい」と迫っていくんです。
それに対して、イエスさまは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしの父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と答えるのですが、彼らが信じないという事実を、責めている言葉は何一つありません。じゃあイエスさまは、ただ彼らが信じていないということだけを言っているのかというと、そうではなくて、彼らが願ったメシア像、救い主と、イエスさまの救い主としての、真実とは大きく隔たっている、彼らの今の事実を、イエスさまは、彼らに代わっておっしゃっておられるんです。そしてイエスさまは、あなたたちがなぜ信じないのか?なぜ信じることができないのか?そのことも、よくわかっていて下さっているからこそ、信じないあなたたちをそのまま受け取っていてくださるんです。だから「あなたたちは信じない」とはっきり本当のことを、おっしゃっておられるんです。
しかし同時に、イエスさまは「わたしが父の名によって行う業」イエスさまが行う業は、神さまによって行っている神さまの業であること、そしてそのことが、イエスさまが救い主メシアであるということを、証し、していると、どんなに彼らが信じていない、信じていなくても、それでもイエスさまは、イエスさまが救い主であるということを語り続けるんです。
「福音は届いていますか」という本があります。ある牧師と医師の祈りという副題が付けられていますが、その中に、信仰の本来という小見出しで、こう紹介されています。
復活のイエスに出会って頂いたのに、拝しつつも疑った弟子たち。しかし、イエスはその彼らに近づいて、世の終わりまで共にいることを約束されました。これは何を語っているのでしょう。それは、そういう中途半端な状態こそ、神が共にいて下さる状態だということです。拝しつつ疑う。これ以上に信仰深くある必要はないということ、この程度が信仰の本来の姿だということです。疑うことは信仰の健やかさの印でこそあれ、不信仰の印ではないのです。疑うことを知らない信仰には共通して独善的な陶酔があるではありませんか。
何も疑うことなく信じるというのは、本当の信じる姿ではありません。むしろ、信じられない、信じなかったという姿が、そこにあるからこそ、信じるということが、逆に真実であることを、ますます証ししておられるのではないでしょうか?
だからユダヤ人たちは信じなかったし、その彼らをイエスさまは責めずに、ただ受け止め、受け入れて下さっているんです。そして今は信じなくても、それでも「わたしの羊」であり、「わたしの声を聞き分ける」羊になるんです。イエスさまに従うようになるんです。そのことをイエスさまの方から、信じ続けて下さるんです。だからイエスさまは、「永遠の命」神さまと共にある命、神さまがいつも共にいてくださることを、受け取っていく生き方、命そのものを与え、そしてその命は、決して奪われることがなく、いつも、神さまと共にある命だということを、イエスさまは証ししておられるんです。
先日、神さまのみもとに召された方のことを、思い起こします。今から3年ほど前から、礼拝に来られるようになりました。もちろんそれまでにも、この会堂が建つ前から、月2回の草刈りなども、ご一緒にしてくださっていました。そして幾度となく、自家製のお野菜などを、会堂を建てるためにとせっせと育てておられ、その時々に立派なお野菜が届けられていました。そしてご主人は、奥さんの西澤訓世さんが、教会に行くことができるように、精一杯の手助けをしておられました。そんな中で礼拝に来られた時、丁度私は何も分からないのに、ブロッコリーの苗が、50円で売られているということで、買い求めましたら、20鉢くらいあったそのひと固まりを、50円と勘違いしてしまい、それで買ってきてしまった、そのブロッコリーのことで、ご主人の信治さんは、大変心配くださいました。きっと初めてと言っていいくらいの者が、いきなり素人が普通育てない、ブロッコリーを植えてしまったということで、どうなることかと思われたかと思います。でもそんな中で、ブロッコリーがよく育つために、「これをあげたらいい~」と、ご自身で配合された肥料を持ってきてくださったこと、その肥料をいつあげたらいいか?ということも「ご飯を食べることと一緒だから~」と教えて下さって、肥料というものの考え方が、そのひと言ですごくよく分かったとことでした。そして収穫されたブロッコリーを受け取られた後、お電話を頂き、丁度留守をしていましたので、留守電に入れて下さっていました。それが、先日皆さんにも聞いていただいた録音ですが、「立派に育ちましたね~いいところを下さってありがとうございます~今から頂きます~」との声が入っていました。その録音を、何となく、消すことができませんでした。3年そのまま残してあります。またある時にはイチゴの苗をもって来てくださったり、玉ねぎの苗もありました。そんな中で、今年に入って、家族の方から、この方にも洗礼を受けてほしいと何度も何度もおっしゃられ、それで何度か伺う機会がありました。そして8月11日の礼拝後、伺った折には、ベットの上で起き上がられ、「こんな格好で申し訳ない」とおっしゃりながら、ご家族と一緒に讃美歌「慈しみ深き」を歌って、祈りました。その時、「神さまを信じている」とはっきりおっしゃられ、わたしの手をびっくりするような力で、「これからどうぞよろしくお願いします」何度も何度も、力強く手を握られたのでした。神さまを信じていると、おっしゃられたことが、どれだけご家族が安心されたことでしょうか。そのことで十分と思いました。
イエスさまは、今は信じない、とおっしゃりながら、信じるようになることを、信じておられます。そしてその信じたその時、「永遠の命を与える」神さまと共にある命を与えると約束しておられます。そしてその人は、神さまの手からだれも奪う者はいません。神さまの手の中に、これからもずっとあり続け、神さまと共にある命に生かされ続けています。
そのことを聞き分けていくこと、イエスさまの約束を、受け取って、聞き分けていくことです。