2024年8月4日礼拝 説教要旨
その時がある(ヨハネ7:1~17)
松田聖一牧師
中沢啓治さんの作品に、「はだしのゲン」という漫画があります。これは中沢さんご自身の、広島での原爆体験をもとに書かれたものです。そこには、投下直後の、広島の惨状と、なまなましい人間の姿が描かれています。8月6日の朝8時15分、中沢さんは、当時の神崎国民学校の門柱の影にいたために助かりました。しかしそのすぐそばで、たった今まで話していたおばさんは、まともに爆風を受け、吹き飛ばされて、真っ黒になっていました。そしてお父さん、お姉さんと弟さんは、倒れた家の下敷きになり、助けることができませんでした。火が迫る中で、弟は、「かあちゃん、あんちゃん、熱いよ~熱いよ~」と泣き叫んでいました。父は、倒れた家の下から、こう言いました「お前の弟か、妹のどっちかが、かあさんの腹の中にいるんだ。死んじゃいけん。生きるんだ、生きるんだ!」しかしそう言われても、なかなかその場を立ち去ることができないでいた時、近所の方が、嫌がるお母さんを無理やり引っ張って、一緒に逃げてくれました。そんな体験を通して、最後に平和について、こうおっしゃっていました。「口で平和、平和って言うのは、僕は、絶対信用しない。あんなのはね、もう口先のもんだって、何にもならしない。誰だって言えるんだって、平和って。だけど、平和の本当の本質を知ってるって、のは、どういうことかって言ったら、そういう人間の汚さだ。」
つまり、平和を祈り、平和を追求するということは、同時に、人間が起こしてしまった、平和とは全く正反対の、人間が憎み争うという、人間の汚さ、人間の罪、を認めることです。それを認めることなしには、いくら平和、平和と言っていても、また争ってはいけないし、憎んではいけないし、ましては家族も含めた人間を壊してはならない、といくら言っていても、平和ということには向かっていかないのではないでしょうか?
だからこそ、イエスさまが、まことの光として、イエスさまに対して、イエスさまを殺そうとねらっているユダヤ人がいる、この世に来てくださったんです。そして、イエスさまは、イエスさまを憎み、イエスさまを亡き者にしたいという欲望、人間の罪、汚さを照らされ、明らかにされるんです。
それはまた「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」中で、イエスさまに、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」という言葉と、そういうことを思い、そして言葉にした、イエスさまの兄弟たちに対してもそうです。というのは、イエスさまの兄弟たちが、「ここを去ってユダヤに行」け、そしてイエスさまのしている業を弟子たちにも見せてやりなさいは、イエスさまに対して、住居を変わってほしい!引っ越ししてほしいと、命令しているんです。つまりそれは住居を変えろということですから、ここの住民ではなくなるだけではなくて、家族から出て行けです。でも、表向きは、「あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」です。しかし、実際は、兄弟たちのイエスさまとの縁を切りたい、切り捨てたいという思いなんです。しかもイエスさまは、ユダヤ人が、自分を殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかったのに、ユダヤに去ってほしいですから、兄弟たちは、イエスさまを殺そうとねらっているユダヤ人に、引き渡そうともしているんです。
そんなことを言っていいのでしょうか?イエスさまの兄弟たちは、イエスさまにある意味で、養われて育ってきたんです。血のつながりはなくても、彼らにとっては、兄であるイエスさまに支えられて、ここまで来れたんです。それなのに、ここから出て行け!というのは、イエスさまが、死んでしまっても、かまわないということなんです。だからいくら「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」イエスさまに、神さまとしての姿をはっきりと示しなさいと、言葉の上では、イエスさまがまことの神さまであるということを、認めたかに見えてはいますが、実際は、イエスさまが、まことの神さまであることを、信じていないんです。その結果、イエスさまを殺そうとねらう、ユダヤ人に引き渡していくことになるんです。
ということは、この時、イエスさまの兄弟たちは、後の過越し祭の時に、イエスさまを十字架につけろと叫ぶ人々、イエスさまを祭司長、兵隊たちと言った人々に引き渡していった、弟子のユダや、イエスさまを、知らないと3回完全に否定したペテロ、そしてイエスさまから逃げ去って行った弟子たちとも、実は同じことをやっているのではないでしょうか?
それがイエスさまの現し、示そうとされた、世は「わたしを憎んでいる」憎しみと、イエスさまには、何一つ悪いところがないのに、イエスさまが行っている業は、悪くないのに、「悪いと証ししている」ことなんです。
そんな兄弟たちに、イエスさまは「あなたがたは祭りに上って行くがよい」とおっしゃられるのは、神さまがかつて与え、導いてくださった、神さまの救いを感謝し、記念する祭りに、イエスさまを認めず、ないがしろにしている兄弟であっても、それでもイエスさまは、彼らを、その祭りに招いておられるのではないでしょうか?そして神さまが救ってくださった、その出来事を、過去のことではなくて、彼らがそこに上って行った、その時に、与えようとしておられるのではないでしょうか?それはイエスさまが、「わたしの時はまだ来ていない」「まだ、わたしの時が来ていない」とおっしゃりながらも、それでも、イエスさまは、ご自分でおっしゃられた、その時を越えて、わたしの時を、今、彼らに与えるためでもあるんです。
そしてイエスさまは、ユダヤで、自分がどうなってもいいから、それでも、自分の兄弟たちに、神さまが与えて下さった、救いを知ってほしい!神さまが導いてくださった、素晴らしい恵みを、知って、信じてほしいと心から願っておられるんです。その願いはまた、イエスさまをこの世に遣わされた神さまの願いでもあるんです。
なぜならば、神さまは、その兄弟にも、父ヨセフ、母マリアを通して、命を与えて下さり、生きる者としてくださったからです。だからこそ、彼らが神さまを、どんなに信じていなかったとしても、神さまであるイエスさまを、憎んでいたとしても、ここから出て行けと言っていても、それでも、神さまにとっては、神さまが命を与えた、神さまの愛する子どもであり続けるんです。その神さまの子どものために、その命を与えて下さった神さまを、ただ信じて、ただ受け取るだけでいいんだということを、神さまは、何とかして、伝えたいんです。
しかし現実は、祭りに兄弟たちが行った時、イエスさまについて「良い人だ」「群衆を惑わしている」とか、いろいろささやかれていました。でもユダヤ人を恐れて、イエスさまについて、公然と語る者はいませんでした。ですから、そこにいる兄弟たちの耳に入って来るものは、たといささやきであっても、イエスさまについて、言っていることが、人によっては正反対です。その結果、信じなかった兄弟たちにとっては、どちらが正しいのか迷ってしまいますし、イエスさまの真実が正しく伝わっていないということになります。
だからこそ、イエスさまは、ひそかに、人目を避け、隠れるようにして上って行った、祭りの中で、大胆に神殿の境内で、神さまの真実、どんなあなたであっても、救ってくださる神さまを、何とかして伝えたい!この素晴らしい神さまの救いを、何とか分かってほしいからこそ、イエスさまは、命をかけて、命をささげて、教え始められるんです。
心臓の動きを補助するバルーンカテーテルというものがあります。それは、日本の愛知県にある町工場から、生まれました。それまでは海外からの輸入に頼っていたのが、今から35年前、国産のバルーンカテーテルが初めて生み出され、それが実用化されたのでした。その開発に当たった、医療機器メーカーの社長さんのことが、あるドキュメンタリーで紹介されていました。
それはこの社長さんの娘さんが、9歳の時、重い心臓の病を抱えていることが分かり、今の医療ではどうすることもできないと診断され、あと10年しか生きられないと医師から伝えられたことに始まったのでした。お父さんである社長さんは、何とかして娘の命を救いたい、その一心で、まだ誰もやったことがない、人工心臓の研究開発に乗り出すのです。そのために膨大な費用と時間を使って、何とか試作ができたのですが、それから実用化するまでに、さらに多くのお金がいることが分かりました。もうそれは1つの町工場では担い切れないものでした。そこで、人工心臓から、心臓の動きを補助するカテーテルの開発に乗り出すことになりました。しかしそれは、娘の命を救うことはできないということでもありました。それが分かっていながらの決断でした。国内で作られた前例はありません。周囲からは、できるわけがない、無理だ、何でそんなことをするのか?と冷たい目で見られていました。しかし社長さんは、それでも会社のお金をつぎ込んででも、助かる命のために、何とかしたい!そんな思いで、これまで人工心臓の製作で培った技術を総動員して、試行錯誤を重ねていくんです。やがて、これでいけると目途が立った時、父親は、娘さんのところに行って、ちゃんと話をしなければいけないということで、病院に行きました。
でもこのことを、娘さんに話すことは、ものすごく言いにくい話でした。しかしそのことを、先に言っておかないと、との思いで、話し始めました。
「よしみちゃんの手術費を貯めて、人工心臓の研究をしてきたんだけど、あれはとてもお父さんの力ではできないんだと。お金もすごくいるし、長期間時間がかかるし、そんなことでやれないんで、心臓を補助するカテーテルに切り替えたよって。それ一生懸命やってるよ」その話をしたら、娘からこんな言葉が帰ってきました。「ごめんって言わなくてもいいよ。お父さんとお母さんは私の病気のために、すっごく医学の勉強をして、いろいろ人工心臓にも挑戦してくれて、ものすごい努力したんじゃない。わたしはそれだけでも、ものすごく嬉しい。もう私のことはもういいよ。やることさえやってくれたから、次からは苦しんでいる人のために、そういうことをしてくれることが、わたしにはすごくうれしい。お父さんとお母さんは私の誇りだよ」それから彼女は、それから、バルーンカテーテルが売れるたびに、幾つ売れたではなくて、これで何人、助かった!また一人助かったことを喜びながら、2年後に召されていかれました。
そのカテーテルによって、17万人の命を救うことになったのでした。その背後には、「苦しんでいる人のために、そういうことをしてくれることが、わたしにはすごくうれしい。」と言い残した一人の命がありました。やがてその会社の基本理念が、次のように定まりました。それは「一人でも多くの命を救おう」「一人でも多くの命を救おう」今年、この実話が、ディア・ファミリーと言う映画となって公開されたのでした。
イエスさまが、命を賭して、神さまの真実を、神殿で教え始められたその時、兄弟たちや、人々が、たといイエスさまのこと、神さまのことをよくわからなくても、だからこそ、神さまの救いを教えられた、その時となっていました。
私たちにも、いろんな時があります。信じていなかった時、憎んでいた時、いろいろでしょう。その時、その時に、いろんな出来事があり、いろんな思いを抱かれたことと思います。そんな私たちの時を、イエスさまは受け止めながらも、同時に、その時を越えて、今、神さまが与えて下さった、神さまの救いを、イエスさまは、語り続けておられます。それは1人でも、そのことを信じて救われてほしいからです。幸せになってほしいからです。この神さまに出会ってよかった!これでもう私は大丈夫だと、その幸せを受け取ってほしいからです。そしてそのことを受け取る、その時を、イエスさまは必ず与えて下さいます。必ずその時があります。なぜならば、もうすでにイエスさまのいのちによって、神さまが与えて下さる救いが、実現しているからです。
祈りましょう。