2024年6月2日礼拝 説教要旨

新たに生きる(ヨハネ3:1~15)

松田聖一牧師

 

20年ほど前、ある真夜中のことです。寒い冬の夜、電話が鳴りました。慌てて起きて取ると、一人の青年から「今から教会に行っていいですか?」ということでした。きっと何かあったのだろうと思いましたので、夜中に教会のストーブをつけて、出迎えますと、「ここで祈っていいですか?」祈り始めました。言葉に出してではありませんでしたが、ただじっと静かに祈っていました。私も彼の近くのイスに腰を掛けながら、一緒に静かに祈っていました。どれくらい経ったことでしょうか。しばらくすると起き上がって、「ありがとうございました」と、帰っていきました。この時、何を祈ったのか、その内容は分かりません。神さまに祈りたいという思いがあったのでしょう。きっとよっぽどのことがあったからだと思います。その心に飢え渇きがあったのではないかとも思います。そんな言葉にはならない、その祈りを、神さまがしっかりと聞いて受け止めてくださっていました。今、その青年は、もう40歳を越えていると思います。どこでどうしているか?神さまに委ねるしかありませんが、あの日の夜、真夜中に、一緒に過ごした祈りの時は、印象に残っています。

 

ある夜、イエスさまを訪ねたニコデモも、よっぽどのことがあったと思います。だからファリサイ派であり、ユダヤ人たちの議員でもあったのに、イエスさまのところに来ました。では、なぜ夜なのかということについて、これまでよく説き明かされる内容の1つに、ニコデモが、ファリサイ派であり、ユダヤ人たちの議員であったので、そういう立場の人が、昼間にイエスさまのところに行くということになると、みんなの目があるからということで、その立場や身分をはばかって、人目を避けるために、と言われています。しかしそれだけではなくて、それ以上のものがあるのです。

 

なぜならば、夜という言葉には、暗黒の支配という意味もあるからです。つまり、彼自身が、この夜と同じく、夜であり、暗黒、夜の世界に支配されていたということなのです。それが、具体的にはどういうことなのかは分かりません。しかし、真っ暗な中で、光も何もない状態で、今、自分がどこにいるのか、これからどうなっていくのか?生きる目的を失い、先が全く見えない中にあったのではないでしょうか?

 

それでもそんな中で、イエスさまのもとに訪ねたのは、イエスさまから、何か答えが得られるのではないか?希望の光が見つかるのではないか?暗闇が取り去られ、光の中を歩めるのではないか?という願いと期待をもっていたからではないでしょうか?

 

では、素直に、イエスさまのもとに来て言ったのか?というと、イエスさまの「もとに」という意味を見ると、向かって、近くに、という意味と同時に、敵対と、友好と言う意味もあるのです。敵対と、友好ということは、全く正反対の意味ですから、ニコデモは、暗闇の中を歩みながらも、イエスさまに対して、敵対と友好、イエスさまは敵だ!ということと、イエスさまは友だ!というお互いに正反対のものを持ちながら、イエスさまのもとに来ているのです。何とも奇妙な感じがします。一体どっちなの?と思いたくなります。しかし1つの中に、それぞれ正反対の2つがあるというのは、いいとか、悪いとかということではなくて、どんな中にも、1つだけではなくて、2つの、しかもお互いが正反対の意味があるということは、それが真実であるということを現しているのではないでしょうか?

 

ここに10円玉を持ってきました。コイン、硬貨には、表と裏があります。数字の方が裏で、平等院鳳凰堂の方が表です。お金には必ず表と裏があります。そのどちらかが欠けても、お金にはなりません。表と裏両方あって初めて、本当のお金、真実のお金になります。

 

イエスさまのもとに来たニコデモもそうです。たとい彼の中に、敵対と友好という正反対の思いが、1つの行動にあったとしても、それがあるということに、ニコデモの真実があるのではないでしょうか?

 

どちらか片方ではなくて、お互いに正反対の表と裏、両方があるということ、それは私たちにもありますね。例えばお天気でも、晴れか、雨か、どちらがいいか?という時にも、明日はお天気がいい!と思っていても、どこかで雨が降ったらどうしよう!と思っているのです。雨がいいと思っていても、どこかでは晴れになったらどうしよう?があるのです。私たちの気持ちもそうですね。元気ですか?という問いにも、元気ですと答えながら、本当は何とか元気になりたいと思いながらも、元気が出ない時があります。それが真実です。真実には、どちらか片方ではなくて、両方があってこそ、真実になります。

 

だからニコデモが、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」この時、ニコデモは、イエスさまが、神さまのもとから来られたラビ、教師であると受け止めて、高く評価しています。そして「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」と、イエスさまがなさることは、誰もできないということですから、ニコデモ自身も、イエスさまのなさることは、自分にはできない、何もできないということを、受け入れて、認めている言葉を、イエスさまに対して言っていても、

 

その続きを見ると、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエスさまが言われたことに対して、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」いやそんなことはできないと、答えているのです。この時のできないという答えは、できないと認めている言葉であっても、実は、自分の現実と、可能性を見て、そこから判断して、そんなことはできませんと答えているのです。ニコデモは、確かに、できるでしょうか。いや出来ませんと、できないことを認めています。しかし、そのできないという判断を、自分が、「年をとった者」だということ、新しく生まれるということ、「もう一度母親の胎内に入って生まれること」を、彼のこれまで学んで知っている、その知識に照らし合わせて、それを物差しにして、ああこれはできないと、と答えているのです。つまり、同じできませんでも、何もかもを任せて、委ねて、できませんというのとは、内容と基準が違うのです。それは、自分の何かに、どこかで頼ろうとしていることと、具体的には、これまで学んできたこととは、全く違う新しいことをおっしゃられるイエスさまに対して、これまで学んできたことをベースに、それは違うでしょと抵抗している姿でもあるのではないでしょうか?

 

そうは言っても、ニコデモ自身が、「年をとった者」と言っている通り、年齢を重ね、これまで生きてきたその時間と同じ時間は、この先ないということは、認めているのです。平たく言えば、後先、そんなにないという自覚はあるのです。だから、自分の知識、長い経験に基づいて、それはできないと答えていても、それでも、イエスさまがおっしゃられた「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」逆に言えば、「人は、新たに生まれることによって、神の国を見ることができる」というこのことを、自分に残された時間は、そんなにないからこそ、早く、自分が生きている間に、自分のこの目で、神さまの国、神さまが治め、神さまの守りの内に自分があるということを、確かめたいのです。

 

それに対して、イエスさまは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」とおっしゃられる内容は、誰でも水と霊とによって生まれれば、神に国に入ることができるという約束です。ではその水と霊とは何かというと、水と共にあり、水と結びついた神さまの言葉です。そして、その水によって生まれるということが、洗礼を受けるということなのです。

 

この洗礼は、教会が2000年以上に渡って守られ、受け継がれてきました。特に、教会が始まったその当初、キリスト教に対する大きな迫害が何度も繰り返される中で、神さまを信じたい、神さまによって、赦され、救われたいと願った方々のために、年に一回、イースターの日に洗礼式が執り行われました。そのイースタ―の前の1月、ないしは数カ月にわたって、その当時ささげられていた場所であった、地下室のお墓の中にあった教会に集まって、神さまについて、イエスさまについて、罪について、救いについてなど、聖書を共に学びながら、洗礼の準備をしていきました。やがてイースターの日の朝、太陽が昇ると同時に、洗礼式が行われました。神さまがわたしを赦し、救ってくださった!その喜びが洗礼を受けられた方々に与えられていきました。イースターの朝、イエスさまが十字架の死より甦られ、生きておられるという復活祭の、その日に、朝日を浴びながらの洗礼式は、どんなだったでしょうか?そんな洗礼を受けた方々が、激しい迫害の中、神さまを信じていたら、いつ殺されるかも分からないような中でさえも、神さまに救われた喜び、わたしは神さまと共にずっといることができる喜びに満たされて、神さまを周りの人々に伝えていくのです。それがヨーロッパに広がり、また東にも広がり、シルクロードを通って、中国にも伝えられていくのです。

 

それはここ日本でも、この教会の歴史の始まりにも、同じ出来事が起きています。最初に洗礼を受けられた10名の方々は、伊那よりも早く建てられた高遠教会の方々と協力して、いろんなところに歩いて、出かけて行かれました。松本、伊那、飯田、高遠を、歩いて、そこに住む方々に、神さまのことを伝えていくのです。松本から飯田まで歩くということは、今では想像できません。どうしてここまでできたのか?どうして、ここまで神さまを伝えようと、方々に歩いて出向かれたのか?そう思われるかもしれません。しかし、神さまがわたしを救ってくださった、神さまがいつもついていてくださるという喜びは、わたしたちにとっての、どうして?を越えていくのです。

 

それが洗礼から始まっていくのです。その洗礼について、教会がずっと守り、確認し纏められきた、神さまのことについて、学ぶ学びの中にこう記されています。

 

洗礼とは何ですか。洗礼とは、単なる水ではなく、神の命令に含まれ、神の御言葉と結びついた水であります。それでは、どなたの名によって、洗礼を受けるのですか。父と子と聖霊との名によって洗礼を受けます。これはどういう意味ですか。洗礼によって、私が、父と子と聖霊の三位一体の神と結ばれて神のものとなり、あらゆるめぐみのたまものを受け継ぐという意味です。だれが洗礼を受けるのですか。若い人も、老人も、すべての人がキリストを信じ、洗礼を受けて救われるのが神の御心です。

 

つまり、水と霊とによって生まれるという洗礼は、洗礼を受ける側が受けたい!と願う前から、神さまが、神さまによって命を与えられた者全てに、望んでおられることなのです。その神さまの心からの願いに、応えて、神さまからのあらゆる恵みのたまものを、ただ受け取っていくこと、それが洗礼です。

 

そのことを、イエスさまはニコデモに伝えるのです。がしかし、イエスさまが、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』と、あなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も、皆そのとおりである。」とおっしゃられても、「どうしてそんなことがありえましょうか」ハイ分かりましたとは答えていないのです。まだ納得できていないのです。それはそうかもしれません。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」イエスさまが、風ということについて、どこから来て、どこへ行くかを知らないと言われることも、その通りのことをおっしゃっていますから、ニコデモは、そんなこと当たり前じゃないかと、受け取ったことでしょう。

 

それはそうですよね。風は空気の流れですから、天気予報などでは矢印などで、いろいろ表示されますが、しかし、実際には、風は、目に見えません。風に揺られて動くもの、木の葉っぱだとか、洗濯物とか、いろいろなものが、目に見えないけれども確かに吹いている風によって、動いていることは見えても、風そのものは目に見えません。どこから来て、どこへ行くかを知らないということは、確かにその通りです。でも、風が吹いている時には、風を感じます。風を受けます。神さまの言葉は、そういうものなのです。だから目に見えないし、いつ、どこからどこへ吹くかも、私たちには分からなくても、神さまの言葉は、吹くその時に、確かに吹くのです。そして神さまの言葉を受けたその人が、言葉という風によって動かされていくのです。それは、神さまが語られるその言葉のままに、進んでいけるということではないでしょうか?だからニコデモは、分からなかったし、分かったという答えは、ここにはないというのも、自然なことなのです。

 

そのことをイエスさまは「分からないのか」とおっしゃられるのは、分からないことがいけないのではなくて、分からないということを、そのまま受け取ればいいんだ、ということなのです。そしてその分からないということも、そのまま受け取ることを通して、神さまと共にある命に、新しく生き始めるということが、神さまにはできるということが、分からないままであっても、神さまの言葉、風が吹く時を与えて下さるのです。

 

ある一人の方が、ミッションスクールに入られました。毎日礼拝があるところです。クラスメートのお友達は、彼女一人を除いて、みんなイエスさまを信じて洗礼を受けていかれました。その時のクラスは、自分一人を除いてみんな教会に行くというクラスでした。ところが、彼女は、私はそんな気持ちにはなれない。みんなからは、イエスさまを信じて、洗礼をうけたらと何度も勧められても、たった一人断り続けていました。

 

やがてその学校を卒業し、結婚され、家庭を持たれて生活していた中で、ご主人が大きな病気をされました。そのために、彼女は、悩んで苦しんでいた時、ふと教会の前を通った時、この御言葉が目に入ってきました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」それまでは、教会って、いつか誰かが、行くところ。私の行くところではないと思って、素通りしていました。でも、この時、この御言葉がすーっと、入ってきました。そのまま教会に入られ、やがて洗礼を受けていかれました。ミッションスクールでイエスさまのことを聞いてから、もう何十年もたっていました。でもイエスさまは、拒み続けていた時にも、ずっと彼女の心の扉をたたき続けて、そこで待っていて下さったのでした。

 

聖書にこう書かれています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう。」イエスさまが、どんなに私たちが分からなくても、納得できなくても、あきらめないで、一人のあなたが救われ、永遠の命、神さまと共にある命、神さまと共に生きる新しい命を与えるために、語り続けておられ、その言葉、風が吹く時を与えて下さいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(6月2日)