2024年5月26日礼拝 説教要旨
これからも共に(ヨハネ14:8~17)
松田聖一牧師
ある高校の卒業式の後、1つのクラスで、担任の先生へのお別れと、感謝の挨拶がありました。そこでは生徒たちが、思い思いに先生にお世話になったこと、感謝を述べていきました。中には、失敗したこと、教室にあるものを壊してしまった時の事もありました。1人の生徒はこう言いました。「天井に穴をあけてしまった時、先生は、僕と一緒に、〇〇先生のところに誤りに行ってくれました~」と、次々と生徒たちが話していくうちに、感極まってしまう場面もしばしばでした。そんな挨拶が終わった後、先生はこうおっしゃいました。「僕は、これでもう担任は最後と思っていました。だから思ったこと、気づいたことを、ストレートにぶつけてきました。それにみんなは精一杯応えてくれました。みんなからの励ましで、もう一度また担任をやってみようかなという思いが少しずつ出てきています。本当にありがとう。」そんな感謝の言葉に、同席された保護者の方々も、うんうんとうなずいていました。
先生が、生徒にぶつかっていくというのは、思ったこと、気づいたことがあったからです。同時に、先生の生徒たちに対する願いと期待も、あったからではないでしょうか?でもそれがなかなか実現しないこともあったと思います。それでもなお、ぶつけていかれたこと、そして、それに応えていこうとする、その関係は、人と人とが、繋がるというのは、うわべだけの、当たり障りのないやり取りではなくて、むしろ、本気でぶつかって、あるいは本気で向き合っていく中で、作られていくのではないでしょうか?
それは、フィリポとイエスさまとの関係、また弟子たちとイエスさまの関係においても、同じです。というのは、フィリポが、他の弟子たちの思いも代弁して言った、「御父をお示しください。そうすれば満足できます」この言葉の意味は、わたしたちに、父なる神さまを、言葉によって提示し、証明し、明らかにしなさいと、イエスさまに命令している言葉だからです。フィリポはイエスさまに命令しているのです。
しかし、そもそも、フィリポが、イエスさまに命令するというのは、立場上、おかしいです。フィリポは、イエスさまからわたしに従いなさいと呼びかけられて、イエスさまの弟子となった一人です。イエスさまの弟子ですから、フィリポは、イエスさまから言われたことを、その通りにしようとして、イエスさまに従うという関係です。だから、フィリポから、イエスさまに明らかにしなさい、証明しなさいと命令することは、立場上は、ないというよりも、むしろしてはいけないことではないでしょうか?
それなのに、イエスさまに「御父をお示しください」と、命令するのは、イエスさまから、既に父なる神さまを見ていると言われたことに対して、それがどういうことか分からないということと、納得できていないからではないでしょうか?というのは、これまで誰も、神さまを見た者はいないと語られ、むしろ神さまを見た者は死んでしまうと語られていたからです。それは彼も知っていました。見たら死んでしまうということも、彼の中にはありました。それがフィリポにとっての神さまがいらっしゃるということの、障害と言いますか、壁になっていたと思います。だからイエスさまから、もうすでに神さまを見ていると言われた時、これまでとは全く違うことですから、それがどういうことなのか、分からなくなったのではないでしょうか?それでも、どこかで、父なる神さまを、この目で確かめたい、この目で見たい、神さまがいるということを、証明してほしい、という強い願いを持っていたからこそ、フィリポは、イエスさまにぶつかっていくのです。
それに対してイエスさまも、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」フィリポが、神さまを示せと言われたことに、ハイ分かったなんていうことをひと言もおっしゃることなく、「わたしが分かっていないのか」と対決姿勢です。それはイエスさまが、偉そうに言っているフィリポを、抑え込もうとしているのではありません。むしろ、イエスさまは、ぶつかってくるフィリポを、たとい、命令調の言葉であったとしても、喜んで受け入れて下さっているのです。
なぜならば、分からない、納得できないということも含めて、ぶつかり合えることは、本気で向き合えていることだからです。言い換えれば、お互いに、どんなことを言ったり、言われたりしても、大丈夫だという、信頼が、そこにあるからこそ、ぶつかり合えるのです。そういう意味で、こんな関係というのは、素晴らしい関係です。幸せだと思います。
ぶつかり合えるという関係から、あるお2人のことを思い起こします。2人は、何かの話し合いになった時には、必ずと言っていいほど、ぶつかり合っていました。お互いに立場が対局でしたから、合わないのです。でも、凄く仲が良かったお2人でした。時には激しく唾の飛ばし合いをすることもありました。でもそこにあるのは、お互いへの信頼でした。お互いに考え方が違うということも、納得できないということも、お互いに、よくわかっていたと思います。それでもお互いのことを気づかい、違いは違いとして、受け止めておられました。おまけに応援するプロ野球チームが、阪神と巨人でしたから、阪神が負けたら、もう一人は上機嫌です。逆に阪神が勝って、巨人が負けたら、阪神ファンの方は上機嫌でした。阪神ファンと巨人ファンは、その部分では、限りなく絶対に合いません。でも、お互いを信頼し合っていました。こんな一コマがありました。ある時、阪神ファンの方が、会社を定年退職したことを、もう一人の方に伝えました。すると、「おめでとう!お疲れさま!」と、定年まで勤めあげられたことに、労をねぎらっていました。そして2人は堅い握手を交わしていました。でもまた何かの時には、合わないんです。激しい議論がまた始まりました。ああまたやってる、やってると思いながらも、ほのぼのとした一場面でした。そういう関係って、いいですね。当たり障りのないことしか言えない関係ではなくて、思っていること、感じていること、納得できないことでも、ちゃんと向き合って言えるというのは、素晴らしいことです。
そして、そのぶつかり合いを通して、物事が何も進んでいないように見えても、実は、少しずつであっても、そこに新しいもの、エネルギーが生まれ、新しく前に向かって進んでいくのです。でもそれは目に見えるものか?というと、目に見えないものばかりかもしれません。それは電子レンジの理屈とよく似ています。電子レンジは、食べるものを温める時などに使いますね。電子レンジの温めをスタートすると、その中に入れたものが、温められますが、それは、中に入れたものが、お互いに原子レベル、分子レベルでぶつかり合っているからです。だから熱が生まれ、温められていくのです。そして、それは目には見えないところで起きていることです。
その電子レンジについての思い出があります。初めて見たのは、今から30年前、神戸でのことでした。それまで電子レンジを見たことがなかったのですが、そこで友人が、レンジの中に食べ物を入れて、タイマーをセットして温めてから、おいしい、おいしいと、食べていたことでしたが、それが不思議で、不思議でたまりませんでした。どうして火を使わないのに、温まるのか?それが分からなくて、また電磁波で温めるんだと言われると、余計に、入れたものが悪くなるのではないか?そんなことを最初は、本当に思っていました。ところが。慣れというのは、不思議なものです。今では、レンジはなくてはならないものになっています。でも、当時は目に見えない何かによって、温められる、ということに対して、分からないし、どうしてそうなるのか信じられませんでした。
そういう意味で、目で見て確かめられない時には、分からなくなりますし、信じられなくなるものです。しかしそれは見方を変えれば、目に見えないということは、私たちの目に見えるということを、越えているということでもあるのではないでしょうか?
フィリポに、イエスさまが「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」と言われたのは、フィリポの目に見えるということの中に、おさまる神さまではなくて、確かに目には見えなくても、神さまが、目に見えるという人間の能力を、超えたお方であるということを、イエスさまは、神さまをお示しください、神さまを明らかにしてくださいと願った、その願いの答えとして、フィリポとぶつかり合う中で、与えておられるのではないでしょうか?
でも、そういうことを言われても、フィリポは信じられないでいるのです。しかしだからこそ、イエスさまは、ぶつかり合うことを通して、その壁を、取り去ろうとして、わたしを見た者は、父を見たのだとおっしゃって下さり、そして、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」と語られ、「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」と続けられるのは、イエスさまが神さまであるということが、今は、信じられないでいても、それでも、イエスさまは、イエスさまの言葉によって信じられるように、それでもなお、信じられないでいたら、イエスさまがなさること、その業そのものによって信じられるように、フィリポに、その時、その時に適って、ぶつかりながら、語り続けておられるのです。それはフィリポだけのことではありません。私たちにもいろいろな時があります。時には、神さまが分からなくなり、示して下さいとぶつかっていくこともありますし、神さまが、信じられないでいること、もあります。そういうところを、辿ることもしばしばです。
でもそれでいいのです。イエスさまは、そうなるということを分かっておられるからこそ、イエスさまが神さまだということが、今は、分からなくても、信じられなくても、イエスさまが私たちのために、必要なことをしてくださり、必要なものを与えて下さっているのです。そして、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と、分からなくても、納得できていなくても、何かを願って、いいのです。何を願うか?それは、自由です。何でもいいのです。何でも願ったらいいのです。問題は、願う内容ではなくて、願うかどうかです。何でも願ったらいいと言っているのに、何も願わなかったら、それは信じていることにはならないですね。でもそういう信じていなかったということも、イエスさまは、分かるようにしてくださるのです。
新潟県の佐渡という島に、国際保護鳥でもあり、特別天然記念物に指定されている、トキという鳥がいます。学名はニッポニアニッポンと名付けられています。今は、野生に放たれて、自然の中で、増え続けています。この鳥を初めて知ったのは、ある本を通してでした。写真にはトキが夕日に照らされて飛ぶ様子がありました。それを見た瞬間、何と美しい鳥だろう・・・見に行きたいと思いました。さらに、その写真の下には、こう解説がありました。「今は、佐渡に10羽ほどしかいない・・・」それを見た瞬間、これは大変だ、もういなくなるかもしれないと思いました。そして、寝る前に祈り始めました。「神さま、トキが増えますように・・」それを毎晩お祈りしていきましたが、祈れば祈るほど、減っていくのです。病気になったり、卵を詰まらせたりしてなくなってしまうのです。それでも、「神さま、トキが増えますように・・・」と祈るのですが、祈れば祈るほど、どんどん数が減ってしまうので、お祈りするのを止めてしまいました。それから祈ったことも、祈りを止めたことも、すっかり忘れておりましたが、ある時、中国から贈られたトキが、繁殖に成功して、次第に増えて、野生に放たれたことが、ニュースになったとき、かつて増えますようにと祈ったこと、祈るのを止めてしまったこと、それすらも忘れてしまっていたことが、はっと思い出されたのでした。その時、気づかされたことがありました。神さまは、祈ったこと、祈りを止めてしまったこと、祈ったことを忘れてしまったことでさえも、願ったことに、こたえて下さっていたということでした。
神さまが分かる、神さまを信じるというのは、分かったから信じるということというよりも、むしろ、分からない時にも、納得できない時にも、神さまに願うことを止めてしまったことも、またそれも忘れてしまっていた時でさえも、神さまは、そういう私たちを信頼し続けてくださっています。時にはぶつかり合いながら、向き合いながら、私たちを受け入れて下さっています。そういう神さまであることを、これからも、分かるようにしてくださいます。なぜなら、私たちが分からなくても、信じられなくても、分からない、信じられない、私たちを信頼し続けておられる神さまだからです。
祈りましょう。