2024年5月12日礼拝 説教要旨

渇いている人(ヨハネ7:32~39)

松田聖一牧師

 

不平と不満とは、どう違うのですか?という質問に、こんな答えが紹介されていました。

 

「不平」とは、要求が満たされなくて不愉快な思いが態度やことばに出る場合に多く用いる。そして「不満」は、要求の水準に達していないので物足りない、気に入らないと思う意味が強いのだそうです。例えば、「なんであいつばっかり良い目を見るんだ」と不平を言う。「なんでこんなに安月給なんだ」と不満を漏らす。つまり、「不平」は不平等だと感じて言葉にする。「不満」は不満足だと感じて言葉にする。ということではないでしょうか?・・とのことですが、

 

つまり、不平と不満では、似ているようでも、厳密には意味が違うということです。その違いをつまびらかにするということについては、また別の機会に譲りたいと思いますが、いずれにしても、満たされていない何かがあるから、不平や不満が出て来るということではないでしょうか?

 

その不平が、群集のイエスさまについて「このようにささやいている」の、「ささやいている」という言葉の意味の中に、あるのです。つまり、群集は、イエスさまが、メシア、救い主かどうかについて、単に小声でささやいているというだけではなくて、イエスさまについて、満たされていない何かがあって、不平をぶつぶつと言っているということなのです。でもそれはイエスさま自身に対して、不平があるということと同時に、自分たちの、イエスさまについて、願ったことが、その通りに進んでいかないことへの不平でもあるのではないでしょうか?

 

というのは、群集は既に、イエスさまを殺そうとねらって、捕らえようとしています。けれども、イエスさまがメシア、救い主であることを認めて、イエスさまを信じている人も大勢いたために、誰もイエスさまに手をかける者はいないこと、イエスさまを殺そうとねらって、捕らえようとしていることが、なかなか実現できないでいるのです。そして、もう1つのことは、イエスさまは、ご自分が捕らえられようとしている中で、なおも、神殿から立ち去ろうとせずに、ご自分が、神さまであることを、大声で語っていることに対する、不平でもあるのです。

 

しかし、そもそも、イエスさまを捕まえようとすること、殺そうとすることは、それ自体、赦されないことです。しかし、イエスさまを捕まえたいといったことを願っている、その群衆にとっては、自分たちの思い通りに、前に向かって進まないということに直面しているのです。そんな状況の中でもなお、イエスさまはそこから立ち去ろうとしないで、神殿で語り続けているのですから、群集は、なぜ捕まるかもしれないのに、そこから立ち去らないのか?どうして語り続けるのかという、疑問もあることでしょう。それがまた彼らの歯がゆさとなり、満たされない思いとなり、不平となっていくのではないでしょうか?

 

そういうものを抱えている群衆が「ささやいているのを」、ファリサイ派の人々は、耳にした時、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕えるために、下役たちを遣わした」ということは、祭司長たちや、ファリサイ派の人々が、群集のイエスさまに対する不平、満たされないことに、一緒になっているのでしょうか?あるいは、その群衆の満たされないその思いを、自分たちが代わって実現しようとしているのでしょうか?その結果、祭司長たちや、ファリサイ派の人々は、イエスさまを亡き者にしようとしているのでしょうか?いずれにしてもそのことを、彼らは、自分たちの手で直接しようとしているのではなくて、自分たちは、隠れたところから、自分たちがやっているということを見せない形で、下役たちを使って、イエスさまを亡き者にしようとして「遣わ」すのです。

 

そしてもう1つのことは、群集がささやいているのを耳にしたのは、ファリサイ派です。ところが、彼らは、祭司長たちと一緒になって「下役たちを遣わし」ていくのです。ただし主導権はファリサイ派の人々です。その理由は、ファリサイ派と、祭司長という言葉の、それぞれのもともとの言葉であるギリシャ語の頭文字を見ると、ファリサイ派は大文字で書かれているのに対して、祭司長は、小文字です。つまり、祭司長たちとファリサイ派の人々とある、この言葉は、祭司長が頭にあって、それに続いてファリサイ派となっていますが、実は逆で、首謀者はファリサイ派であって、そのファリサイ派のもとに、祭司長たちが、ファリサイ派の言われた通りに、従っている立場であると言えるのではないでしょうか?

 

見方を変えれば、祭司長たちと、ファリサイ派の人々は、お互いに、平等な立場、ウィンウィンではないけれども、イエスさまを捕らえ、亡き者にしようということでは、共通点となり、自分たちが前面に出ることなく、あの手この手を使いながら、画策していくのです。その結果が、「イエスを捕えるために下役たちを遣わした」ということなのです。そして下役たちも、それに従っていくのです。

 

こうした群衆と、ファリサイ派、祭司長、下役たちとの関係を見る時、やってはいけないこと、赦されないことを、行動に移す時の関係と、序列のようなものが出来上がっていきます。それにしても、人間というのは、やってはいけないことをする時というのは、首謀者がいて、それに従う者がいて、また利用し、利用される者がいるということです。その満たされない人間の姿というのは、この当時も、また今も変わらないですね。そしてイエスさまを捕らえようとするということ、別の意味では、イエスさまを自分たちの手でつかみ、握ろうとするということが、イエスさまに対してだけ向けられているのかというと、満たされないでいる、その時の不平、不満は、自分の願いを満たそうとしない、誰かを捕え、自分たちの手でつかみ、握ろうとすることに向かっていくことがあるのではないでしょうか?

 

あさいちという番組で、母親の言われるままに、従って来た娘さんのことが、紹介されていました。彼女は、ある時を境に、自分は操られてきたんだ~自分が自分でなかったんだ~と気づかされたことで、怖くて外に出られなくなり、いろいろなことをへて、その経験を生かして、ひきこもっている方々のサポートをされていること、そして40年経って、母親との関係をもう一度作っていけるようになったことが、紹介されていました。

 

その中で、自分が操られてきたと気づかされた時の思いを、ある場でこうおっしゃっていました。「私には自分がないんだと、母の操り人形だったんだなって気がついた時に、もうちょっと息ができなくなって震えが出るくらい、それは本当に怖かったんですよね。」

 

また母もその時のことを振り返って、こうおっしゃっていました。「立派に育てなきゃいけないっていう。なんか変な思い込みがあって、多分だいぶ力が入っていたと思うんですよ。やるからには、完璧に、家事も仕事も、手を抜かずに生きてきました。私は、子どもを持つことに自信を持てませんでした。そんな私が子どもを産んでね、それはもう自分の命に変えても、何があってもこの人だけは絶対守ると思って、一番大事なものと思ってやらないといけないと思っていました。でも、私がよかれと思ってやっていることでも、やっぱり罪深いというか、受けた方の気持ちを、やっぱり深く考えるだけの心の大きさというか、深さを持っていないと・・・そういうところが私には欠けていたんじゃないかと、思います。」そんな思いをおっしゃりながら、今は、お互いに、いくら親子であっても、相手のテリトリーに土足で踏み込まないということを決めて、穏やかな関係となっています。

 

親子の関係には、いろいろありますね・・・そして、そこにあるのは、子どもへの愛情と、それを受けていく子どもとの関係と、同時に、その親自身が、その親から、あるいは周りから受けてきたものが、親子の関係に出ているのではないでしょうか?もちろん、よかれと思ってしていることです。悪いものを与えようとはしていないと思います。しかし、それが結果として、子どもをコントロールし、子どもに恐怖心を植え付けてしまう時、子どもを自分の手の中に捕らえ、つかみ、握ろうとしているということなのです。その時、その子どもは傷ついています。最も信頼できるはずの関係で傷つくのですから、それは本当に大きな影響を与えます。しかし同時に、その子の親も、自分ができる親じゃないといけないのではないか?そういう人でなければ、ダメじゃないかと、自分を追い詰め、追い込んで、またそれを、親の親から、周りから、そうしなければ、できなければ、だめだ、だめだと言われ続けてきたことでも、あるのかもしれません。その結果、親であるその人自身も傷ついているのではないでしょうか?傷ついて、どこか満たされていないからこそ、それを満たすために、一生懸命にするのではないでしょうか?

 

それは、群集や、ファリサイ派の人々と、祭司長たちの、イエスさまに対して抱き、しようとしていることの、根っこにあることです。しかし、イエスさまは「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と語られるのは、これから十字架の死と復活の後、神さまのもとに帰られるということであると同時に、見方を変えれば、イエスさまを、自分たちの願い通りに、捕らえ、にぎり、つかもうとしても、それは人にはできないというよりも、そもそもそれは、ないことだと、おっしゃっているのではないでしょうか?

 

それはそうです。イエスさまはまことの神さまですから、人が握ることも、つかむことも、捉えることも、できるものではりません。それなのに、ユダヤ人たちは、「わたしたちが、見つけることはないとは、いったいどこへ行くつもりなのだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか。」いやそんなことはできない、どこにも行くことはできないと、イエスさまを自分たちの手の中に捕らえることができると判断しているんです。でもそれは、自分たちにとって、できるか、できないかということを、物差しにして、イエスさまがおっしゃっている言葉を判断しているのではないでしょうか?だからその意味が、「どういう意味なのか」と、分からなくなっているのです。しかし、その時、分からなかったら、直接イエスさまに聞けばいいんです。分かりませんと言えばいいのです。それなのに、聞こうとしないのは、自分たちの物差しに縛られ、自分たちには、「わから」ないということが認められないでいるからではないでしょうか?それなのに、分からない者同士が、分からない者同士で、話し合っても、分かるということが、ない者同士ですから、何かが出て来るわけではなくて、分から「ない」んです。分かるということが、0なのです。だから0にいくら0を足しても、0をかけても、0のままが、お互いですから、お互いの満たされない思いが、ますます大きくなってしまうのではないでしょうか?

 

イエスさまは、そこから離れ、逃げるという意味で「わたしを捜しても見つけることがない」と、おっしゃっているのではありません。イエスさまは、人が捕らえ、つかみ、にぎろうとすることは決してできない、ではなくて、「見つけることがない」んです。ということは、逆に言えば、イエスさまは、私たちには、ない、ものを持っておられるお方だということではないでしょうか?その結果、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」というのも、イエスさまは、私たちのできる、できないというものを越えておられるお方ではないでしょうか?

 

だからこそイエスさまは、「立ち上がって、大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスさまは、満たされ「ない」でいること、満たされ「ない」不平を持っていることも、全部分かっておられるからこそ、分かっていて下さるイエスさまのところに行くこと、イエスさまがおっしゃられる言葉、聖書の言葉を、そのまま受け取っていけるように、導いて下さるお方です。そして満たされないでいる、その人の内から、川となって流れ出るようになる、その生きた水、すなわち、かれることのない恵みを、ない、ところに、与え続けてくださるのです。

 

あるバリトンの歌手の方がいました。生まれた時から、目が見えない状態でいらした方でしたが、家族と一緒に教会に通い、そこで歌われる讃美歌を通して、イエスさまがいらっしゃるということが、分かるようになりました。やがて音楽大学に進まれ、音楽活動をされていますが、盲学校で学んでおられた頃、1つの出来事をこうおっしゃっていました。

 

最終学年、ひとりで通学することを決意し、チャレンジしていましたが、よく道が覚えられず、多くの人たちに聞いて助けられて通学していました。その日も学校からの帰途、JR大阪駅で道に迷い、うろうろしていました。その時、ポンと肩を叩かれ「兄ちゃん、どこへいくんや」と声を掛けられました。振り向くと、アルコールのにおいをぷんぷんさせていました。するとまた、彼が「兄ちゃん、何処へ行くんやと聞いとんやんかい。」と、どなるような大きな声でした。私は正直困っていましたので、「神戸線に乗りたいんですけど、道に迷いましてね」と言いますと、「ヨッシャ、わいが連れて行ったる」と言って、私の腕をグイっと掴み歩き出したのです。彼の足もとはふらふら、私が支えないといけないくらいでした。でも彼は、私を電車に乗せ、席に座らせてくれました。彼は、また「兄ちゃん、どこへ行くんや」「これから家に帰るんです」と言いますと、急に悲しそうな声で、「兄ちゃん、兄ちゃんはええのう、帰るところがあってよ。わいはなあ。どっこも帰るとこあらへん、誰もわいのこと相手にしてくれへん。ええなあ、兄ちゃん、わいなんかどうせ生きとってもしょうがないんやろうな」わたしは、彼がどんな人か、どんな状況の方か知りません。しかし、彼のひとことひとことを聞いていて、ジーンと心に伝わるものがありました。彼は今孤独なんだろうな、ひとりぼっちなんだろうな。寂しいだろうということでした。彼に何か言葉をかけてあげたいと思いましたが、どんなことを言えばいいか分からず、うつ向いていました。彼はやがて「兄ちゃん、そんな悲しそうな顔するなや」しばらく、沈黙の時が続きました。途中のある駅に来た時、彼は急に「兄ちゃん、わいここで降りるわ。気いつけて帰りや、兄ちゃん、がんばりや、がんばりや」とわたしの手を強く握りました。わたしはありがとうございましたと言って、その手を握り返すことしかできませんでした。彼は帰り際に「こんなわいでも、役に立つことがあったんやなあ」と言い残して降りて行きました。私は彼に何の言葉もかけてあげることはできませんでした。私は全く無力でした。「私の力は弱いところに完全にあらわれる」とあります。イエスさまが、私に、また私たち一人一人に、あなたにもできることがあるのですよ。いや、あなたにしかできないことがあるのですよと、いつも語りかけて下さいます。このように弱い私を生かして下さるイエスさまを信じて歩む時、大きな喜びと力が与えられて来ます。

 

私たちにとっても、自分には何もできない時、満たされない時があります。しかし、たとい、できないこと、満たされないことがあったとしても、できないまま、満たされないままであったとしても、イエスさまは、私たちの、できる、できないというものを越えて、できる、できないに縛られないで、「渇いている人はだれでも」わたしのところに来て飲みなさい、水がない、ないというところに、渇くことのない水、渇くことのない恵みを与え続けて下さいます。

説教要旨(5月12日)