2024年1月14日礼拝 説教要旨

イエスを見つめて(ヨハネ1:35~51)

松田聖一牧師

 

戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶人、商人として生きた千利休という方がいます。その千利休の和歌の1つに、このような歌があります。

 

「規矩(きく)作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本(もと)を忘るな」

 

ここから守破離という言葉が生まれていますが、この歌の意味としては、「教えを守り、発展させ、新しい形を生み出したとしても「根源の精神」を見失ってはならない」ということになるのでしょう。つまり、たとえその道を究めても、基本、規範を忘れない事が大切だという事でもあると言えます。それによって、いろんな流派が生まれてきます。それはお茶の世界だけではありません。いろんな世界に同じように、流派がありますね。お花の世界もそうです。何とか流という名前となって、またその流派を教える師匠があり、そこにはお弟子さんがいます。また1つの流派で学ばれたお弟子さんの中には、これまで習い教えて頂いた師匠から、離れて、その人なりの流派が生まれていくということが、繰り返されていきます。つまり、弟子がその師匠から離れることによって、しかし同時に基本を忘れることなく、新しいものが生まれていくということでしょうし、そこには新しい出会いが与えられていきます。

 

洗礼者ヨハネと、その2人の弟子との関係もそうです。というのは、「ヨハネは2人の弟子と一緒にいた」とあるこの言葉の意味は、「彼の弟子たちから離れて、彼の弟子たちの所属の中から出た」2人の弟子とヨハネは一緒にいたいう意味です。つまり、これまではヨハネの2人の弟子、アンデレともう一人だった、この2人が、この時、そのヨハネから離れ、ヨハネの弟子としての所属から出ているのです。ということは、単に2人が離れたというだけではなくて、洗礼者ヨハネも、自分の2人の弟子が、自分から離れることを、認めていたということが言えるのではないでしょうか?

 

ところが、ここで、ヨハネは、自分の弟子から離れた2人の弟子と、一緒にいたのです。一体どういうことでしょうか?2人は、ヨハネの弟子から離れたのです。それなのに、2人と一緒にいたのは、どういうことでしょうか?その2人の元弟子と、もう一度、一緒になろうとしているのでしょうか?でももうお互いに離れたのです。それなのに、この2人と一緒にいたのは、ヨハネの弟子に2人がもう一度なるためではなくて、これまで自分の弟子としてヨハネに従って来た彼らが従うお方は、イエスさまだということを、伝えようとしているのではないでしょうか?それがこの言葉、「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』すなわち、見よ、ご覧なさい、ここに神の小羊がいる、ここに、神さまの小羊であるイエスさまがいる!そのお方に聞け、と、ヨハネはただイエスさまを指し示しているのおです。そして、そのイエスさまをヨハネが見つめているその時、イエスさまは、彼らのそばを、彼らの周りを、彼らの間を「歩いておられた」歩き回っておられるのです。

 

それは、彼らの間だけではありません。私たちのそばを、私たちの周りを、私たちの間を、イエスさまは歩き回っていて下さるのです。

 

遣わされた1つの教会では、家庭集会が良く持たれていました。確か、4つのご家庭に伺うということでしたので、毎週どこかでそういう集まりがありました。伺ったそのところで、礼拝をささげ、讃美と祈りの時を持ちました。そして帰り際には、私が甘いもの、特に餡子が好きだということを分かっておられたのか、もなかやら、お店で作ったお団子などを、持って帰って~ということもしばしばでした。家庭集会ではなかったのですが、ある時には、伊勢の赤福餅を持ってこられる方があったりと、身の回りに、いつも餡子があるという感じでした。そんな家庭集会の1つでは、そのお家のお夫妻と、私という3人で礼拝をささげ、その最後には、いつも一緒に祈りの時を持っていました。その祈りの中に、いつもこの祈りがありました。「イエスさま、いつも、わたしたちのところを行き巡って下さり、ありがとうございます。どうぞお守りください・・」「わたしたちのところを行き巡ってくださり、ありがとうございます」その祈りの言葉は、本当にその通りです。イエスさまが共におられるという具体的なかたちは、私たちのところ、私たちの間、私たちに与えられている関係の中を行き巡って下さるのです。イエスさまは、じっとしておられるお方ではありません。私たちが、どこにいようと、どんな中にあろうとも、イエスさまは私たちと共に、私たちと共にあるそれぞれの関係の中に、行き巡って下さるのです。

 

だからこそ、ヨハネは、そのイエスさまを見つめ、ほら、ここにいるじゃないか!見よ、神の小羊だ、と2人にも伝えることができるのです。そしてその言葉を聞いて、彼らは、イエスさまに従ったのです。

 

そして従って来るのをイエスさまは見ておられて、「何を求めているのか」と問われた時、彼らは、「どこに泊っておられるのですか」と言うと、「イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。」とありますが、イエスさまにどこに泊っておられるのですか。と尋ねた時、イエスさまの答えは「来なさい。そうすれば分かる」です。でも彼らが尋ねたのは、「どこに泊っておられるのですか」です。だからここに泊っているとか、あそこに泊っているとか、具体的な場所を答えるかと思いきや、イエスさまの答えは、「来なさい。そうすれば分かる」ですから、彼らの問いの答えにはなっていないのです。けれども、イエスさまは、彼らの問いに、直接答えておられないけれども、「来なさい。そうすれば分かる」は、彼らを招いておられる、招きではないでしょうか?たとい彼らの質問に対する答えはなくても、いらっしゃい、来なさいとおっしゃってくださるイエスさまの招きがあるからこそ、イエスさまに従うということになっていくのではないでしょうか?

 

そしてそのイエスさまの招きは、招かれ、従った人を通しても、広がっていくのです。それがまずアンデレを通しての、この言葉にあります。「まず自分の兄弟シモンに会って『わたしたちはメシアに出会った』と言った」このことを、まず、自分の兄弟シモンに会って、伝えていくんですが、その時、「わたしたちはメシアに出会った」とシモンに告げるのは、アンデレ一人です。そうなると、わたしは出会ったとなるんです。ところが、メシア、救い主イエスさまに出会ったのが、「わたしたちに」になっているんです。確かに、アンデレともう一人の人と一緒に、イエスさまに出会い、イエスさまがメシア、救い主、油注がれた者であるお方に出会いました。そういう意味では、「わたしたちは」です。でもその2人がシモンに会ったのではなくて、会ったのは、アンデレ一人であるのに、その時、「わたしたちは」出会ったとシモンに言ったのは、アンデレが、兄弟シモンに、メシアに出会ったと言った時、自分の兄弟シモンも、メシアに出会っているからではないでしょうか?

 

なぜならば、そのアンデレとシモンの間にも、イエスさまが行き巡っていて下さるからです。だからこそ、「わたしたちはメシアに出会った」となり、イエスさまに出会うためにではなくて、イエスさまがここで出会って下さったからこそ、「シモンをイエスのところに連れて行った」イエスさまのところに連れて行った時、イエスさまは、シモンを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファー『岩』という意味―と呼ぶことにする」と、シモンを、岩、ペテロとして、イエスさまは、「来なさい。そうすれば分かる」と招いて下さっていたのです。

 

その招きは、フィリポにおいてもそうです。イエスさまから「わたしに従いなさい」と言われる前に、イエスさまの方から、フィリポに出会ってくださっているのです。そして「わたしに従いなさい」と言われた時、今度は、フィリポがナタナエルに出会っていくのです。その時、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と、出会ったのは、フィリポ一人なのに、ナタナエルに、イエスさまに出会ったと言った時、「わたしたちは」出会ったとなっているのです。しかし、その時、ナタナエルは、フィリポに「ナザレから何か良いものが出るだろうか」「いやでない」とぶつけていくのですが、この言葉は、当時、ナザレからは良いものは出ないと言われていたことを、そのままナタナエルは聞いて、受け止めているので、フィリポの言ったことを拒んでいるんです。しかしそんなナタナエルであっても、フィリポは、ナタナエルを受け入れて、招いて、「来て、見なさい」と、イエスさまから受け取った言葉を、そのままナタナエルに語った時、イエスさまは、「ナタナエルがご自分の方へ来るのを」イエスさまに向かって歩み出していく姿を見ておられ、その彼を受け入れ、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃられるのは、それはナタナエルが、ナザレから何の良いものが生まれるだろうか、いや生まれないということを、正直に、自分の素直な気持ちを現わしていることをも、イエスさまは受け入れているからです。

 

時々、神さまなんて、イエスさまなんて信じられない!と納得できない方や、そっぽを向かれる方に出会うことがあります。そういう方に出会うと、ますます興味が湧いてきます。ますます関わりたくなります。なぜならば、今は、そうかもしれないけれども、イエスさまが出会ってくださった時には、あっち向いていたのが、素晴らしく変えられていくことを期待できるからです。イエスさまがどんな素晴らしいことをして下さるか!ということが、楽しみになります。

 

イエスさまのナタナエルを見る目というのは、今は、確かに、イエスさまがメシアであるということを、受け入れられないでいた、ナタナエルの正直な気持ち、取り繕った姿ではなくて、表裏がない姿を、見ておられるのです。その姿を、偽りがないと受け入れておられるイエスさまは、ナタナエルを既に信頼しておられるのです。

 

なぜかというと、そういうナタナエルを、イエスさまは、「いちじくの木の下にいるのを見た」とおっしゃられるからです。それは、ただイチジクの木の下にいたという意味ではなくて、いちじくの木の下で、神さまのことを求め、学んでいたことを見たということでもあるのです。というのは、この地方は、日中、日差しが非常に強いところです。太陽の下では息をするのも苦しいくらいです。でも、空気が乾燥しているので、木陰に入るととても過ごしやすいです。でもすごく乾燥しているので、水分をいつも取らないといけません。それでイスラエル旅行をされる方には、現地のガイドさんから、必ず水を飲みなさいと、口酸っぱく言われますね。そんな気候の中で、いちじくの木の下という涼しい所で、神さまのことを学ぶ、学び舎で、ユダヤ教のトーラー、律法を教師から学ぶのです。その意味で、フィリポが「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」というのも、ナタナエルが、神さまのことを求め、学んでいたのを、フィリポも知っているし、イエスさまも知っているよという言葉となっているんです。

 

「あなたが神の国を熱心に求めているのを私は知っているよ」ナザレからどんな良いものが生まれるだろうか、いや生まれないと拒んでいても、それでも、イエスさまは、あなたは神さまのことを求めているよと、そういうナタナエルを、イエスさまの方から、招いて、出会ってくださったのです。そして、そのお方が、そこにおられたことに出会った時、ナタナエルは、あなたは神の子です、とイエスさまがメシア、神さまの救い主だということを、受け入れているのです。

 

こうして、ヨハネに始まり、アンデレ、もう一人の人、シモン、フィリポ、ナタナエルと、それぞれがイエスさまに出会うという時、それはその方々の方から、イエスさまに出会おうとしたから、イエスさまに出会ったというよりも、むしろ、イエスさまに出会う前から、イエスさまの方から、その人、その人を知っていて下さり、見ていて下さり、その人を認めて、受け入れてくださっていたイエスさまがもうすでに、招いて下さっていたからこそ、イエスさまに出会っているのです。

 

かつて小学校で出会った、子どもたちの何人かから、今年も年賀状を頂きました。カメラマンをしているとか、JRの運転手とか、研究職とか、あるいはお母さんになりました~とか、いろいろになっています。その中で、先生に出会った時には、小学校3年生でしたが、40歳になりました~とか、いろいろありました~とか、それぞれの近況を知らせてくださいました。その中に、こんな一言がありました。「一度教会に行ってみたいです」びっくりしました。教会においでということは、もちろん言ったことはありません。30年会っていませんから、どうしてそう思ったのかも分かりません。その子も家庭を持ち、今はお仕事で忙しいと思います。でも、その言葉を見た時、イエスさまが、その子のところにも、行き巡って下さり、出会ってくださっていたことをうれしく思いました。感謝しました。そして、1つのことを思い出しました。それは、退職が決まって、3学期の終了式の後、誰もいなくなった教室で祈ったことでした。「どうかこの子どもたちが、イエスさまを信じることができるように・・」この先どうなっていくか、そして受け持った子どもたちが、これからどんな歩みになっていくか、その時には全く分かりませんでした。けれども、それから30年たって、教会のYOUTUBEを見たとか、クリスマスキャンドルサービスを見たとか、そういういろいろな反応の中で、「一度教会に行ってみたいです」という気持ちを、一人のその人に与えて下さったイエスさまがいらっしゃること、イエスさまが、場所は離れていても、行き巡って下さり、その人その人を、知り、いつも招いて下さっているということに、出会わせてくださっているんです。

 

その招いて下さっている、イエスさまを見つめていくこと、来なさい、そうすれば分かると言われたイエスさまを見ていくこと、それぞれのところを行き巡っていて下さるイエスさまが、私たちの間にも、私たちと共におられること、その出会いを与えて下さっているイエスさまに、私たちもまた出会っています。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月14日)