2023年12月10日礼拝 説教要旨
聖書が証しするもの(ヨハネ5:36~47)
松田聖一牧師
ずいぶん前ですが、小学6年生の時のことです。風疹がクラスで、はやったことがありました。それが自分にも移ってしまい、手などにぶつぶつが出てしまい、熱が出て、学校を欠席となってしまいました。でもそれは欠席ではなく、出席停止ということでしたが、その風疹が、次々と友達にも広がっていきました。担任の先生にもそれが移ってしまい、欠席者ばかりのクラスとなってしまいました。そんな中で、3日間か4日間家で過ごした後、ぶつぶつもなくなったし、大丈夫と自分では思うのですが、やはり、医師の治ったという診断がいるので、小児科に行きました。でも内心、ドキドキです。大丈夫か?治っているか?どうか?そんな気持ちで診察室に入りますと、お医者さんが、聴診器を当てていろいろ調べてくださいました。聴診器をこの辺りに当てられると、冷たいですから、ひやっとするんです。それをあちこちされて、先生は、ひと言おっしゃいました。「はい、治りました。もうこれで学校に行ってもいいですよ」と言われた時、ほっとしました。また学校へ行ける!友達に会える!その喜びがありました。そのために、治りました、もう大丈夫ですという医師の診断が必要なんです。自己流、自己判断ではだめなんですね。
そういう治ったという証明は、イエスさまの、この時代にも必要でした。例えば、重い皮膚病が本当に治ったとなるためには、祭司のところに行って、治りましたという証明が必要でした。それで、祭司は、その皮膚病のところを見て、治った状態になっていることを確認できたら、もう癒されましたと証明できるんです。そこで初めて、その人は、完全に治った、癒されたということになるんです。そして隔離されていたところから自分の家に戻ることができたんです。なぜならば、旧約聖書に、神さまがそうしなさいとおっしゃっていたからです。
そんな癒されたという証明、完全に治りました!という証言、証明が、(36)にイエスさまが語られた「証し」の意味でもあるんです。つまり、イエスさまの証しとは、もちろんイエスさまが神さまであるという証明だけではなくて、イエスさまが、人々に、あなたは癒されました、治りましたと証明することができるという意味での証しでもあるんです。それは、身体的、精神的な病だけではなくて、あなたは神さまから、完全に赦され、完全に受け入れられています!という罪の赦しの証明でもあるんです。その赦しの証明をイエスさまは、ヨハネにも、私たちにも、与えることができるんです。
そしてその赦しをヨハネは、イエスさまから受け取り、受け入れているんです。それは、ヨハネが、与えて下さるイエスさまに、心を開いているということと、同時に、心が自分の思いや願いで一杯になるのではなくて、空っぽになっているのではないでしょうか?
受け入れられるというのは、例えば、誰かが何かをアドバイス下さる時、そのアドバイスを聞き流すのではなくて、その内容も含めて、それは本当だと認めて、自分のために、わたしのために、言ってくれているんだと、受け止められるときでもあります。それは自分自身の思いや、自分の考えから解き放たれている時です。自分の思いや考えを、一旦横へ置くと言いますか、空っぽになっていないと、本当にそうだとは受けられないのではないでしょうか?そういう意味で、ヨハネが空っぽになれたのは、もちろんそこには神さまであるイエスさまの導きがありますが、同時に、彼自身が、荒れ野のような何もないところに、導かれたことで、誰も頼りにできない、ただひたすら神さまに頼るしかないところに身を置けたからです。そこで、誰も頼りにできない、自分でもどうすることもできないこと、自分の弱さ、力のなさ、自分自身がいかに小さなものであるかというところを、見せつけられ、通らされていくのではないでしょうか?
つまり「ヨハネの証しに勝る」、ヨハネよりも大きな証しがあるとは、ヨハネよりもイエスさまが比べられないほどに大きなお方であるだけではなくて、ヨハネ自身が、小さな存在であることを、空っぽのヨハネになって受け入れていたということではないでしょうか?
ジョンベイリーという方の「朝の祈り 夜の祈り」という毎日の祈りの言葉が記されている本があります。その中にこんな祈りがあります。「神よ、わたしは今ここに立っています。力弱く、貧しい者でありますが、なおあなたに向かってたましいと声とをあげています」力弱く、貧しい者、それは、ヨハネだけではありません。私たちもそうですね。小さな者であり、小さな存在です。それでもなお神さまに向かって、神さま、わたしは今ここに立っています!神さま、今わたしはここにいます!と声をあげることができるんです。またその声を、神さまは聞いて、受け入れて下さっているんです。
しかしいつも自分の弱さ、小さな者であることを認め、受け入れることができるようになるかというと、自分の中で、自分を大きくしたいという思いが出て来ます。力弱く、貧しく、小さな者でありながら、それでも、自分で自分を大きくしようとするんです。だからこそ、神さまは、自分ではどうにもならないこと、どうにもならない環境に身を置かなければならなくなったときと、ところへと導かれるのではないでしょうか?そこで、ようやく自分には何の可能性も、力もないと、やっと認め、受け入れられるものではないでしょうか?
それと同じプロセスを、イエスさまの目の前にいるユダヤ人たちも辿るのです。
ユダヤ人たちにも、神さまがしてくださった大きな神さまの業が、そこには確かにあります。ところが、彼らも、小さな存在なのに、お互いに、どちらが大きいか?どちらが小さいか?神さまとの関係で、自分が、どれだけ神さまの言う通りにできたか?出来ているか?そして自分が人と比べて良い人か、どうか?を、お互いに評価し合うということに明け暮れてしまうことが、ここにあるんです。それは丁度、どんぐりの背比べと同じことですね。どんぐりは小さいです。でも、小さいそのどんぐりも、小さいながらに、ちょっと大きめのどんぐりもありますね。でも小さいどんぐりです。その小さなどんぐり同士で、背比べをしていても、お互いに、小さいということには、変わりません。でも本当はお互いを比べるのではなくて、そもそもどんぐりは、大きな木に成長していくものです。成長し、実が豊かに実っていくものであり、そのどんぐりによって、沢山の動物たちの命を支えていくようになるものです。そのために、そもそもそのどんぐりがあるということを、そのどんぐりが受け取っていくことではないでしょうか?
それでもユダヤ人同士、背比べをしているんです。それがこの言葉(44)「互いに、相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたち」ですが、彼らは、お互いに、神さまが命じたことを、どれだけ守れたか、どれだけ守れなかったか、そして誰が守れて、誰が守れなかったかということを、お互いに比べ合っているんです。そこにはお互いへの批判もあるかもしれません。それは同じユダヤ人同士の中で、自分が人よりも良い人になりたい、神さまに従っている良い人と、同じユダヤ人から認めてもらいたい、評価してもらいたいという思いがあるからではないでしょうか?
確かにイエスさまが「聖書を研究している」、とおっしゃっている通り、ユダヤ人たちは聖書を良く学びました。そして聖書に書かれていること、旧約聖書に書かれていることを、一生懸命に実行し、完璧にできるようにしようと、本当に努力してきました。それは神さまがおっしゃられたことを行うことができたら、救われると受け止めていたからです。自分がどれだけできたのか?自分がどれだけ守り、実践しているか?そのことに一生懸命生き、そこに自分の人生をかけていたとも言えるんです。でもその姿は、自分の良い行い、自分の努力と引き換えに、神さまが評価してくださると願うことです。またそれは自分たちの、これをやりました!やってきました!という行為と、神さまと取引することと同じことをしているのではないでしょうか?それは丁度、お金を出して、物を売り買いする商人と同じことになります。
NHKのEーテレで、100分で名著という番組があります。その中で新約聖書、福音書というタイトルで何回か放送されましたが、その放送の内容がテキストになっています。その中に著者ご自身のことを触れながら、こんな言葉がありました。
聞きなさい。次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであって善き業なら何でもする人々。このような行為をひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えている限り、これらの人々はすべて皆商人である。
この言葉に初めて触れたのは、21歳の時でした。当時、わたしは心を病み、家から出られないような日々を生きていました。そのきっかけは、良い人間になりたい、優れた人間になりたいと強く願ったことだったのです。それは悪いことではないのではないか、と思われるかもしれません。しかし、単に良く、優れた人になろうとするとき、人は苦しむ人、悲しみ人の姿が目に入らなくなるものです。そういう生き方は、いつしか自分の「弱さ」からも目を背けるようになります。目を背けたところで、自分の弱さがなくなるわけではありません。それに打ちかてるようにと必死で祈ります。そのために自分ができることは何でもしたいと思いました。この時、私は自分と神と「取引」をしようとしていることに気が付きませんでした。やがていつしか自分の願いで一杯になり、神のおもいを受け止めることができなくなってきたのです。・・そして自分にもっとも欠けていたのは、自分に対する、そして他者に対する「愛」であることに気づいたのです。
良い人間になろう、良い評価を人からもらおうとすればするほど、その願いで一杯になり、神さまのおもい、愛が欠けていきます。お互いに比較することで、分断が生まれていきます。良い評価とそうでない評価を、人が人にしていくこと、人が人に求めていくことで、人と人とがばらばらになっていくんです。それがここにあるユダヤ人の姿であり、その姿は、イエスさまと、神さまと同じ1つであることを認めていないこと、神さまとイエスさまを引き離し、ばらばらにしようとし、神さまを愛していないことだということ、につながるんです。でも彼らは、それに気づいていません。私たちは一生懸命にやってきました。一生懸命に自分が認められるために、一生懸命にやってきました、だから神さまが自分の願いをかなえて下さるはずだと取引していることにも、気づいていません。
だからこそイエスさまは、彼らが、神さまを愛しているならば、神さまの証言、聖書の証言、つまり、モーセの書、旧約聖書を信じるはずだとおっしゃられるんです。それは、彼らが、分かっていないからこそ、彼らにも、イエスさまが、神さまであり、神さまと1つであること、そしてモーセの書、聖書を信じているはずだ、そこにかかれている神さまの証しを、ただ研究の対象とし、あれこれ自分の頭の中で考えることも大切だけれども、それ以上にもっと大切で必要なことは、神さまの証しは、そのまま受け取って、信じるものだ、信じて、分かってくるものだということを、イエスさまは、与えて下さるんです。それによって、神さまとイエスさまが引き裂かれるものではなく1つであり、神さまと共に生かされ、生きているユダヤ人同士を、受け入れ合うというつながりへと導くんです。
その上であなたたちは、今どうなんだ?自分がよしとされることを、人から認められるということのみに明け暮れてはいないか?人がどう自分を思うかということを、気にしてばかりいるのではないか?と、それはしんどくて、自分を不安にさせることじゃないのか?と、尋ねながら、そういうことを繰りかえしているのは、神さまからの誉れ、神さまから、あなたはあなたでいいじゃないか?あなたはあなたで良しとされていることを、受けようとしないことと同じだということなんです。
そうであっても、わたしたちは、人からどう思われるか?ということを、どこかで気にしますね。人からの評価は、確かに大切です。人から認められることももちろん大切です。しかし、それのみに明け暮れていたら、人から評価されない、人から良しとされないことを恐れてしまい、それによって、人から認められるということのみに走ってしまうのではないでしょうか?あの人、この人の顔色を窺ってばかりの、八方美人的な姿になってしまうのではないでしょうか?八方美人になってばかりいたら、自分が自分でなくなります。自分がどこかに行ってしまいます。そしてその姿は、人の評価されること、人から良いと認められることを、信じていく姿となっていくのではないでしょうか?
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。という聖書の言葉を通して、中高ミッションスクールでの生徒との出会いから、こんな言葉がありました。
人間は誰でも「できればよい人間になりたい」という願いを持っているのではないでしょうか。いじめられた経験があるからこそ新しい環境では優しい人に出会っていきたいし、自分も優しい人になりたいと思います。つらい境遇の中にある人の話を聞けば、その人たちのために自分には何ができるだろうかと考えます。他者に寄り添う人が世界に必要なことを生徒たちはみんな分かっています。この聖書の言葉に出会うと、こんな人になりたいという思いを誰もが持ちます。しかしこの言葉は、そうなれない自分の現実を向き合わせるものでもあるのです。悲しんでいる人に心から同情することは時々ならできます。しかし幸せそうな人の喜びを、ねたむ気持ちを持たずに一緒に喜ぶことは難しいのです。笑顔や誉め言葉でその場をやり過ごすことはできても、心の奥に苦々しさがあることを自分が知っています。それでも良い人を演じ続けることが、キリスト教の教えなのだろうと勘違いする生徒もいます。しかしそうではないのです。ここに聖書の教えの分かりにくさがあります。良い人になるためには、自分で良い人になることをまず諦める必要があるのです。自分の心の貧しさを認め、救い主に心を開き、心においても生き方においても、自分を新しくしてくれる神を信じることが、キリスト教信仰の出発点であり到達点です。「自分にできないことを神がしてくださる」という信頼は、偽善や諦めから離れた生き方を可能にします。本心からの優しさを持てる自分になるには、喜ぶ人と共に喜んで下さるイエスに心に宿ってもらうほかありません。
良い人になるためには、自分で良い人になることをまず諦める必要がある。それは何もかも投げ出して、何をしてもいいという自暴自棄ということではありません。良い人間にはなれない、自分、自分にはそういう人間になる力がないということを、神さまは知っておられて、だからこそ、そういう自分であることを受け入れておられる上で、神さまがしてくださるということなんです。
そのことを信じるということ、神さまがしてくださることを信じていくこと、そのことが聖書の証しであり、イエスさまがしてくださったことそのものであり、イエスさまがそのことを証言し、証ししているのです。