2023年11月5日礼拝 説教要旨
神の愛と救いを信じて(ヨハネ3:13~21)
松田聖一牧師
吉野源三郎さんという方の書かれた著書に、「君たちはどう生きるか」という本があります。これは今から80年以上前のものですが、数年前に漫画化されました。その中に登場してきます、主人公のコペルくんという男の子がいますが、彼は自分がしてしまった過ち、失敗を本当に悔やんでいました。あんなことしなければよかった~なぜ友達を裏切ってしまったんだろう~そんな思いで、自分を責め続けていました。そんな中で、1人のおじさんに自分の思い、辛かったこと、自分のやるせなさ、いろんな思いを全部話しました。しばらくして、そのコペル君に、おじさんが1冊のノートを持ってきてくれました。いつか読んだらいいと、託していきました。さてコペルくん、そのノートをすぐに読むことができたのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。苦しんで、苦しんで、沢山の涙を流しながら、自分を責め、迷い続けていた中で、ふと自分なりに、今までたくさん流した涙とは、まるで違う涙が一粒落ちた後に、ノートに目を向けるようになり、少しずつ前を向いて歩むことができるようになるのです。そんなノートの、こんな言葉が目にとまりました。
コペルくん・・・僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子どもなりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことは、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。・・・
私たちにとっても、悲しいこと、辛いこと、苦しいことは、避けたいことです。それはあってほしくありません。誰にとっても望ましいことはありません。しかし、たとい、どんなにこちらが、悲しいこと、辛いこと、苦しいことに出会いたくないと思っても、それは突如としてやってきます。それは大変なことです。しかし、そのことを通して、すぐにではないかもしれませんが、それまで気づかなかった、あるいは気づけなかった、気づこうとしなかった、人間とはどういうものであるか?わたしは、どういうものであるか?を問いながら、それを知るようになれる、かけがえのない1つの出会いともなっていくのではないでしょうか?
それは、先に神さまのもとに召された、お一人お一人にも同じ出会いがあったのではないでしょうか?その方々の、生きられた日々、その生き方の中で、それぞれに悲しいできこと、辛かったこと、苦しかったことがあったと思います。そしてその中で、「どう生きるか」ということを、問いながら生きてこられたのではないでしょうか?そしてその問いを問いながら、私を、そのまま受け入れてくださった、神さまに出会う歩みとなっていったのではないしょうか?そして神さまを信じ、教会に通い、礼拝を守り、その信仰の歩みが導かれたのではなかったでしょうか?
しかし、神さまを信じることができるようになったからと言って、すべてが自分にとって、心地良い、ばら色に変わるわけではなかったと思います。なぜ私に、私たちに、こんな悲しいこと、苦しいことが起こったのか?どうして自分がそうなってしまったのか?その意味が分からない!という中で、自分に襲い掛かる苦しみを否定したり、そうなってしまったことへの怒りが湧きおこったり、その怒りを周りにぶつけてしまったこともあったのではないでしょうか?でも、それは、ただ周りに当たり散らしたいとか、自分の気持ちを聞いてほしいということだけではなくて、実は、その気持ちもある私を、そのまま受け取ってほしい、という自分を神さまに向けているのではないでしょうか?
それは今日の聖書の中に出てきますニコデモという人もそうです。彼も生まれた時から、ずっと神さまがいることを知っていましたし、神さまを信じていました。その神さまについて深く学んだ人でもあります。でも信じていながらも、どう生きるかを、問い続けていました。それで、同じファリサイ派の仲間からはバレないようにして、真夜中にイエスさまを訪ね、イエスさまに、どう生きたらいいのかということを、問い続けていくんです。そしてその問いは、今を、そしてこれからをどう生きるかという、生きている間の、今のことだけではなくて、人はどこから来て、どこへ行くのか?と、問うていくんです。
それに対して、イエスさまは風は思いのままに吹くとか、風がどこから来て、どこへ行くかを知らないと、風がそうであるように、「霊から生まれた者も皆そのとおりである」即ち神さまの命、神さまの息、神さまの霊から生まれた者である、人も皆、どこから来て、どこへ行くかを知らないと答えていかれるんです。それではニコデモにとって答えにはなりません。自分がどこから来て、どこへ行くのか?と尋ねても、知らないと言われたら、ニコデモにはますます分からなくなるんです。
だからこそニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」人がどこから来て、どこへ行くか知らないと言われても、そんなことはあり得ないと答えるのは、彼にとって、その場所があるはずだと思っているからです。それを知りたいし、確認したいからです。そんな彼に、こんなことが分からないのかと、続けておっしゃる意味は、分からないでいるニコデモを、責めているのではなく、分からないでいるニコデモが悪いと言っているのでもありません。そういうことではなくて、人が、人について、どこから来て、どこへ行くかということは、どんなに自分の持てる知識を持ってしても、分からないものなんだということなんです。そして分からないものだということが、分からないでいるニコデモ自身の姿を、ニコデモに、イエスさまは示しておられるのではないでしょうか?
そんな分からないものは、分からないということ、そして分からないということが、分かっていないということは、私たちにも、ありますね。どんなに考えても、どんなに人に聞いても、そして返って来る答えは、理屈としては正しい答えであったとしても、その人自身にとって、言われた内容に、納得できていない時、その人には、答えではないんです。答えにはなっていないから、ますます分からなくなってしまうのではないでしょうか?
この夏に、一緒に勤めた小学校の先生に会う機会がありました。30年ぶりという方もいました。退職されたり、別の職場に勤めておられる方もいました。当時のPTAの役員の方々にもお目にかかることができ、お互いに再会を喜び、良いひと時でした。その時、いろんなことを思い出しました。その1つに算数の授業の時のこと、3年生の子どもたちと一緒に、分数を学んだ時でした。その時、3分の1がどういうものであるかということを、リンゴを譬えに、あのね~りんごが1つあるでしょう?そのリンゴを、同じ大きさに3つに切って、その1つ分だよ~同じ大きさに分けた、3つの内の1つを、3分の1と言うんだ~と言った時、1人の男の子が、「分からん~」それで何度も、いい?リンゴが1つあるでしょう?その1つのリンゴを同じ大きさに3つにした、その1つを3分の1って言うんだ~と言っても、分からん~の連発でした。そのうちに、分からないでいるその子は、自分が分からないことが悔しかったのか?半べそになりかけていました。その後授業が終わった後、その子と3分の1についていろいろああでもない、こうでもないとやり取りした記憶がありますが、今振り返れば、リンゴを3等分するということについて、より深く考えていたのではないかと思います。理屈ではそうかもしれないけれども、納得できなかったからこそ、分からん~と言い続けていたのかもしれません。そんな時には、どんなに正しい内容で、正しい理屈で説明しても、分からないものは、分からないんです。人の気持ちもそうですよね。いくら理路整然と、相手に説明しても、自分の内面のことは、どんなに説明しても相手には分からないものです。たとい、分かっているよ~という答えが返って来ても、本当のところは、相手には分からないものなんです。
イエスさまは、ニコデモが、分からないでいるということ、それで悩んで、苦しんでいるニコデモに、答え与えたものは、分からないものは分からなくてもいいんだということなんです。そして、わからないことは分からなくてもいいんだと、おっしゃってくださるお方に、委ねていくこと、委ねるしかないことへと、導かれていくのではないでしょうか?
でもそれは分からないままを放っておかれるということではないんです。分からないものは、分からないんだとおっしゃられるイエスさまは、私たちがどんなに考えても、分からないものは、分からないと判断できるお方です。ということは、イエスさまが、人がどこから来て、どこへ行くのかということを、分かっておられるということではないでしょうか?
そのために、ニコデモも含めて、私たちが知っているいろいろなことを用いてくださるんです。ニコデモにとっては、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇を見上げれば、生きる、救われると、神さまが約束された青銅の蛇が、十字架に上げられたイエスさまのことであること、そしてそのイエスさまが、神さまだということを説き明かしながら、その神さまだけが、人がどこから来て、どこへ行くかを知っているんだということを、分からないままでいいから、それを受け取ったらいいという道を、彼の目の前で、示していかれるんです。そしてイエスさまを受け取ること、信じてみようとすることを通して、人がどこから来て、どこへ行くのかという問いに、光を与えていくものとなるんです。
それが、独り子であるイエスさま、神さまであるイエスさまを「信じる人が1人も滅びないで、永遠の命を得る」イエスさまを信じる人が、一人も滅びないで、永遠の命、神さまと共にある命、神さまと共にあってずっと生き続ける命を得るんだということなんです。その神さまと共にあってずっと生き続ける命について、自分の頭でいくら考えても、分からないというのは、確かです。けれども、自分の理解をこえた答えを下さるということは、その答えを与えて下さるお方が、人をこえたお方である神さまだ、ということを証明しているのではないでしょうか?逆に言えば、人の頭の中に収まるような、人が自分で考えて理解できるような神さまであれば、それは人をこえたお方にはなりません。人が考えて分からないということは、そのことそのものが神さまであることを証明しているのではないでしょうか?そういう意味で、ニコデモが分からなくても、納得できていなくても、そうであるからこそ、人は、どこから来て、どこへ行くのかとイエスさまに尋ねた以上の答えを、イエスさまは与え、神さまと共にあってずっと生き続けている命を、どこ、という場所、空間を超えて与えて下さるお方だということを、イエスさまは、今目の前にいるニコデモに、与えていくんです。
それでも、ニコデモは、ハイ分かりました、信じますとは答えていません。信じますという反応はありません。しかし、そんなニコデモに、「信じない者は既に裁かれている」とイエスさまが語られるのは、信じない者は、既に「分けられ、認められ、良しとされ、選び出される」という意味で、裁かれているということなんです。
ということは、信じたとは答えていなくても、その信じない者であるということを、イエスさまは認めて、受け入れておられるということなんです。信じられないことはだめではないんです。信じられないからこそ、信じない者だからこそ、イエスさまの方から、既に、良しとされ、既に、認められ、選び出されているんです。神さまの恵みとはそういうことなんですね。私たちが、信じたから、その信じたそのことに対してのご褒美として、あなたを神さまのもとに選びだします、あなたを良しとし、あなたと認めますではなくて、信じない者だからこそ、分からないからこそ、分からないままのあなたを既に、認め、良しとし、選びだしているんだということなんです。
そうして導かれた方々が、今日特に覚えて、共に、礼拝をささげている、先に神さまのもとに召された方々でもあるんです。そのお一人お一人は、先に神さまのもとに召されました。そして神さまが約束してくださった通り、イエスさまを信じる者が一人も滅びないで、神さまと共にある永遠の命をいただいています。そしてイエスさまが約束くださった、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ということも、今、神さまのもとにあって、100%、本当にその通りだ!と、私たちは、本当に神さまに愛され、神さまが救ってくださったんだということを証ししながら、今共に礼拝を守り、讃美をささげています。その礼拝で、イエスさまが約束された、「絶えず祈りなさい」ということも、100%、信じて、今もずっと祈り続けておられます。
その祈りはどこに向けられているのでしょうか?それは、残された家族、今ここにいる者のための祈りではないでしょうか?1人も滅びないで、神さまと共にある命、神さまとずっと一緒にいるということが、どんなに素晴らしいことであるか?そのことを信じられなくても、信じられないでいる者であっても、だからこそ、神さまは、神さまの愛する者として、受け取って下さり、その通りに神さまと共にあるお一人お一人であるからこそ、今、残された方々にも、信じられない者だからこそ、イエスさまが共にいてくださるんだ!ということが分かるように、天国で必死になって祈っておられるのではないでしょうか?
永眠者記念礼拝というのは、先に天に召された方々を偲びながら、在りし日の信仰生活、その生き方を思い起こしながら、神さまからの恵みと慰めを確認するひと時です。しかし、それだけではありません。天国に行かれた方々はみんな神さまと共に、今も、ずっと幸せであるからこそ、残された私たちのために、祈り続けておられるということも、今、ここで改めて受け取らせていただくことではないでしょうか?そしてその祈りに対して、いつまでそのままにしておくのか?祈られているのに、その祈りに、どう答えていくのか?という問いかけが、私たちに与えられているのではないでしょうか?そういう意味で、この礼拝が、召された方々だけではなくて、残されたご家族、そして今、神さまによって生かされている私たちにも向けられているのです。
神さまは、イエスさまを与えるほどに、世を、世に生きる私たちを、召された方々を、本当に愛されました。それはイエスさまを信じる者が、一人も滅びないで、神さまと共にある永遠の命を得るためです。そのことが本当だということを、先に召された方々は、私たちは神さまと共にいるよ~ということを証ししています。そして、残された私たちのために、神さまと共に、祈り続けています。
祈りましょう。