2023年10月22日礼拝 説教要旨

与えられた時の中で(ルカ19:11~27)

松田聖一牧師

 

ある時の信徒の友に、1つの特集が組まれました。そのタイトルは、「旅をしよう」旅は人の心を透明にし、真理に対して心を開かせる~そして続く言葉は、「旅は未知の人との出会いをもたらし、また新しい自己の発見を促す。イエスさまもまた、旅の中でいろいろな人たちと出会い、その出会いの中から多くの言葉を遺された」とあります。その通りですね。旅は、普段の生活から、新しい、これまで出かけたことがなかったところに出かけて行くことを通して、初めて見る景色に心動かされ、旅先での出会いなどを通して、新しい自分を発見する素晴らしい機会ともなります。そういう意味で、旅というのは、ただ単にどこかに出かけて行くだけではなくて、旅をするその人自身にも、新しい何かを与えてくれるものではないでしょうか?それは、イエスさまが、旅の中で人と出会うことも、語られた言葉もそうです。その言葉と語られたイエスさまとの出会いを通して、人は多くの発見と、新しい何かに導かれました。それはもうすでに与えられていた神さまからのお恵みに繋がる出会いであったとも言えるでしょう。それはまた、イエスさまが、人々に語られた譬えに出てきます、王の位を受けて帰るために、遠く国へ旅立つことになった、ある立派な家柄の人にも、そしてこの人を通して語られたその言葉を聞いた僕を始め、周りの人々にも、与えられたものではなかったでしょうか?

 

そのことが語られているこの譬えで、ある立派な家柄の人が、「遠い国へ旅立つことになった」とありますが、この遠い国へ旅立つということには、ものすごい時間と手間とお金もかかった旅ではないでしょうか?というのは、当時の旅というのは、今とはまるで違って、乗り物を使うというものではなくて、足を使って歩く、徒歩の旅であるからです。そして宿屋に泊まりながら、時には、野宿もあったかもしれません。旅で行き会った人のところへ泊めてもらうということもあったことでしょう。

 

いずれにしても、大変な時間と労力を使いながら、この人が、王の位を受けて帰るという大変名誉な目的で、旅立ったということに始まる譬えを、イエスさまは、人々に語るのです。この時、人々は神さまの国は、すぐにも現れるものだと思っているのです。すぐに、ということは、待ってはいられなかったということですし、時間をかけ、手間をかけといったことを、受け入れてはいないということなんのです。とにかく、すぐに、ということしかないのです。それに対して、イエスさまは、旅に出て行った、この人が、「10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し」すなわち、1人に1ムナを10人に渡して、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と言われるのは、その遠い国に着くまでにもものすごい時間がかかるのに、その遠い国から、また帰ってくるのにも行きと帰り合わせて2倍かかるその時間の中で、すぐにではなくて、その長い時間を使っていいから、その1ムナを使って、商売、営業すること、生業を興しなさいということなのです。

 

そんな時間をかけることと、商売をすること、営業をすること、生業を興すということとは、繋がっています。あるNPO法人を立ち上げた方が、こんなことをおっしゃっておられました。「最初はね~全然仕事が来なかった・・・でもその間に、いろんなところに顔を出して、こんな仕事をやっていると出会った方に話していきました。でもなかなかそれですぐに仕事になるかというと、なかなかでした。でもその中でぼつぼつと仕事が入ってきましたが、ようやく、仕事らしい仕事になって来たな~と言えるようになるまでは、3年かかりました・・・」しみじみとおっしゃっていました。でもその中で、いろんなところに営業にいかれるんです。そしていろんな方との出会いと、繋がりを付けていくのです。そのように、商売になるまでは、時間がかかりますし、時間が必要です。いろんな方とのつながりと、応援、助けも必要です。3年はかかると言われている通りかもしれません。つまり、イエスさまが、これで商売をしなさいと言われて、遠い国に、行って帰るまでの、長い時間をある意味与えて下さった意味は、そういうことではないでしょうか?だからこそ「わたしが帰ってくるまで」という中には、「すぐに」がないのです。

 

そんな時間をかけるということを、すべての人が受け入れていたのかというと、(14)しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた。この使者、使いの者が、いただきたくないと思っていたのではなくて、王となる人を憎んでいた、嫌悪し、憎悪していた国民が思っているのです。でもそれを直接言わずに、誰かも具体的には現わすことなく、表に出ることなく、この使いの者に言わせていくのです。ですから、王となる人を憎んでいた国民は、誰だか分かりません。王となるこの人を憎んでいた理由も、具体的ではありません。1ムナというお金が商売を興すのに、足りないお金ではないのに、1ムナでは少ないとか、足りないと受け取っていた人たちがいて、これでどうやって商売をすればいいんだ、1ムナでどうしろ?というのか、これで何ができるんだ?という声は、国民の中で出ていたのかもしれません。しかし、商売をするようにと言われたのは、10人の僕ですから、国民が商売をするわけではありませんから、国民は、商売をするということに、直接関係はないのです。では、何に対して憎んでいたのか?それは、王となる人が、遠い国に旅立ち、時間と手間をかけて帰って来るということ、そのものに対してではなかったでしょうか?国民は、長い時間ではなくて、すぐがいい!早く帰って来てほしい!と願っているのです。でも、王となる人が長い時間をかけて帰って来るのです。だからこそ、その人を受け入れられなかったのではないでしょうか?

 

それは国民のことだけではありません。すぐじゃなくて、長い時間をかけることに対して、私たち自身を見る時、この国民が取った態度は、どこかで、わたしたちにもつながるものではないでしょうか?それは、速さのみを求めて、ゆっくりと時間をかけることに、我慢ができなくなることでもあると思います。

 

大阪も含めて、都市部の信号には特徴があります。それは歩行者の信号なのですが、その信号が、青になっても、赤になっても、1つの表示がなされます。それは、あとどれくらいで、青が赤になるか?赤があとどれくらいで青に変わるか?ということが、目盛りで表示されています。そうしますと横断歩道で待っている人たちは、どこを見ているかというと、例えば赤信号の時、青に変わる瞬間ではなくて、あとどれくらいで青に変わるかという、その目盛りを見ているんです。すると後何秒で変わるという、赤は後わずかだという時になると、もう赤でも横断歩道を歩き始めていくんです。そういう現象がいつもあるんです。つまり、人には、待てないところがあるということです。そんな時間をかけること、手間暇をかけるということが、できないことがあるのです。そういう意味で、国民が、彼を憎んでいたというのは、その王になる人の性格が嫌いとか、その人自身の人格に対することというよりも、王位を受けて帰って来るまでの時間が待てなかったからです。別の見方をすれば、国民にとっての王は、自分たちの願う通りになる王を求めていたのです。他のいろんな願いも含めて、国民に従ってくれる王になってほしいのです。だから、自分たちの思い通りではない、王となるその人を、「いただきたくない」という思いになっていたのではないでしょうか?

 

けれども、王となるこの人は、これから自分が治めることになる国民から、どう思われようが、その国民の言わせた、いただきたくないという言葉には振り回されていないのです。無視したという意味ではありません。確かに、「我々はこの人を王にいただきたくない」ということを、この人はちゃんと聞いているのです。でもその国民の言うなりにはならずに、遠い国に旅立ち、10人の僕たちに、10ムナを委ねていかれるのです。ではそれで完結なのかというと、僕たちの中には、王となって帰って来た時に、言われた通りにしようとした人と、言われた通りにしようとしなかった人がいたということです。

 

まずは、10ムナをもうけた人と、5ムナ稼ぎましたという、それぞれの言葉をよく見ると、10ムナもうけた人は、あなたの1ムナで、労働や商売をして更に働いて、10ムナもうけました、です。また5ムナ稼ぎましたと言われた言葉は、あなたの1ムナで、5ムナ作りました、5ムナを行い、実施しましたという意味です。つまり、10であろうが、5であろうが、もうけ、あるいは稼いだ人は、与えられた「あなたの1ムナ」で、できることを精一杯したということなのです。この2人の僕は、1ムナを使うということを遠慮するとか、1ムナから減ってしまったら、どうしようとか、そういうことを考えことよりも、ひたすらに精一杯働いていくのです。そういう時には、当然忙しくて、ゆっくりできる暇がないくらいですから、あれこれ心配する余裕すらもなかったのかもしれません。

 

しかし、それとは対照的に、1ムナのままであった人は、(20)「御主人さま、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。」と、あなたの1ムナを、布に包んで、襟首の日よけとして、頭に結び付けている布に包んで、肌身離さず、手放さなかったのです。ということは、これで商売をしなさいと言われた、そのことを信頼できなかったということなのです。理由はいろいろあるかもしれません。1ムナで商売をしても、儲からなかったらどうしよう?とか、儲からないまま、1ムナを使い果たしてしまったらどうしようとか、使う前から結果がどうなるかを、あれこれ心配して、不安になっていたのかもしれません。そして、この人がただ1ムナで精一杯商売をしなさいと言っているだけなのに、受け手である、この、ほかの人は、「あなたは預けないものも取りたて、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので」と受け取っているのです。でもこれは、事実とは違います。それなのに、預けないものも取り立てるとか、蒔かないものも刈り取られるということとか、厳しいとか、そんなこと何も言っていないのに、この、ほかの人は、「恐ろしかったのです」と答えているのには、1ムナを手放せなかった、この、ほかの人の中に、恐れがあったからです。その恐れは、ただ1ムナを手放せないだけではなくて、自分自身にある恐れも手離せなくなっている恐れでもあるのです。つまり、しがみついて、手離せないのは、1ムナだけではなくて、恐れも、です。

 

それに対して、主人は「ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。」と言われるのは、預けたら利息が付くじゃないかということを教えるためというよりも、このほかの者が、1ムナも、恐れも、自分の手に握りしめ続けて、結局は手放すことができなかった、委ねることができなかったところから、何とかして解放しようとしているのです。そのために、商売をすることも、銀行に預けることも、自分の手から、その1ムナを手離すことと同じだということを示し、気づかせてくださるのです。そして銀行に預けたらよかったのに、手離せず、委ねることができなかったことに対して、主人はその1ムナを取り上げていくのです。その結果、その1ムナは、その人の手から、なくなっていくのです。

 

でもそれは見方を変えれば、確かに手離せなかったし、委ねることができなかったことですけれども、取り上げられるということによって、やっと、自分の手から離れて行った、自分の手からようやく手放すことができたということでもあるのではないでしょうか?

 

さて、この1ムナは、3カ月分の給料と同じくらいの価値です。そしてこの1ムナで買うことのできるものの1つに、1匹の羊があります。その羊を買うことができる価値の1ムナを失った、なくなった、ようやく手放すことができたということから、言えることは、この、ほかの人は、羊を失ったということも言えるのではないでしょうか?つまり手に入るはずの、羊を失ったのです。本当ならば、羊を持つことができたのです。でもそれがもうない、彼らの中から、羊が失われたのです。

 

それに対して、その1ムナを、10ムナ持っている者に与えよという意味は、これで商売をしなさいと言われた王となったこの人に信頼しなかったら、信頼していた人に、その1ムナが全部吸い上げられて、持っている者には、もっと与えられ、信頼を持っていない人は、持っている1ムナ迄取り上げられるということを示していますが、そんな与えられて持つことができた時と、持っているものまでも取り上げられ、失ってしまうということは、10ムナを持っている人だけではなく、また1ムナのままだった人だけではなくて、1人の人に繰り返されることではないでしょうか?そういう繰り返しの中で、ただ10持っている、5持っている、いや1ムナがなくなったという、ムナ、お金のことだけではなくて、本来持つことができた羊を、持てなくなった、失った者であるということに、気づかせてくださるのではないでしょうか?

 

そういう意味では、誰もが、失われた羊であるのではないでしょうか?それは、私たちの生き方とも重なります。私たちにとっても、得る時、持っている時もあれば、取られて失う時、手元になくなってしまう時があります。その間を行ったり来たりします。けれども、そこで失ってしまい、手元になくなってしまったとしても、その時、失われた羊となった時にこそ、失った羊を捜し求めておられるイエスさまがおられるということに、気づくことができ、私を見つけるまで捜し求めてくださっていたことに、出会うことができるのではないでしょうか?

 

それは、自分が持っている時には、しがみついている時には、なかなか気づけないのかもしれません。失ってこそ、初めて、自分自身も失われた羊の1人であることに気づけるのではないでしょうか?その気づきを与えるために、王である神さまは、長い時間をかけて下さるのです。そして、神さまを信頼できるようにと、時間をかけて、ゆっくりであっても、絶えず導き続けてくださるんです。

 

今から35年前、教会では当時の先生の手で、伊那谷通信というものが毎月出されていました。その中に、教会の方々の証しがお一人お一人紹介されています。その中で、1988年5月のペンテコステに信仰告白、また洗礼を受けられた3人の方々の紹介がありました。それぞれの方の証しを順に紹介させていただきます。

 

この度のペンテコステに私の信仰告白式を行っていただき感謝でいっぱいでございます。クリスチャンホームに育ちながら、毎月の忙しさにことよせて、時々教会の礼拝に伺っては、皆様方の信仰の深さに教えられ、聖霊のお導き、皆様方の祈りにより信仰告白を与えられましたことを感謝いたします。またこの機会を与えられましたのも、家族の深い理解のあったことも感謝でございます。これからは皆さまと共に教会を守り、信仰に励みたいと思っております。これからも皆さまの祈りのはしに加えてよろしくお導きください。

 

私は今、年老いてやって洗礼を受けました。しかしキリストさまを意識し、神に仕える素晴らしさを知ったのは、今から数十年前、私がこの家に嫁いで来た時から始まりました。それは生活に決して恵まれていたとは思えない舅(しゅうと)が、慈愛深く、心暖かき人で、心から尊敬できる舅だったのです。この舅はとても熱心なキリスト教の信者で、誰にも思いやりの心で接していたのです。私はこの舅からたくさんの教えを受け、私自身の心の支えにもしておりました。そんな中で、キリスト教の素晴らしさは身に沁みで感じておりましたが、私もやはり日々の生活に追われ、神のもとへと足を運ぶことはありませんでした。しかし、昨年12月に主人が倒れ、不自由な姿を見るにつけ、神と共に主人を守りたく、洗礼を受けた次第です。これからは一日でも多く祈り、主のお恵みにあずかりながら、お導きをいただきたいと思います。

 

仏教しか知らなかった私が嫁いだ家は、父母も主人もクリスチャンで義母はとても信仰の厚い人でした。戦時中迫害を受け、人目をさけて礼拝を守って来たとよく話して下さった義母は、私をとてもかわいがってくれました。私も義母を尊敬していました。その頃時々礼拝に連れていかれ、キリスト教の全く知らない私でしたが、厳粛と敬虔さに心が洗われる思いでした。又礼拝に集まる方々がとても崇高に見え、近寄り難く感じました。義母の祈っている姿がとても印象に残っています。思えば遠い遠い道のりでしたが、ペンテコステに洗礼を賜り、皆様からも祝福されて、感涙に咽びました。主イエス・キリストを信じ、神の御言葉の聖書を読み、礼拝にできる限り出たいと決意を致しました。

 

この3人の方々に共通することは、神さまのもとに導かれるまでには、長い長い道のりと、時間があったということです。でもその長い長い年月であっても、その時を与えて下さった神さまは、それぞれに必要な1ムナを与え、預け、そしてそれを精一杯に用いながらの日々の中で、神さまの備えて下さったその時に、1ムナを与えて下さっていた神さまに出会うことができました。そして失われた羊であっても、失われた羊だからこそ、捜しまわって見つけてくださったイエスさまに出会うことができました。今、この3人の方々は、天に召され、今神さまと共に素晴らしいひと時を過ごしておられます。

 

私たちにもそうです。たとい時間が長くかかっても、それを良しとし、赦してくださっている神さまがおられます。そしてこれで商売をしなさいと、それぞれに同じ1ムナを与えて、それを使いながら、商売をしながら、あるいは時にそれにしがみつきながらも、そこから1ムナを与えて下さった神さまに出会えるようにしてくださいます。その日、その時を、神さまは知っていて下さいます。

説教要旨(10月22日)