2023年10月15日礼拝 説教要旨

今、ここにおられる(ルカ17:20~37)

松田聖一牧師

 

ある方について、こんな紹介がされていました。24歳女性。1年前から付き合っている恋人がおり、彼がいなくては何もできないと信じています。その日着ていく服は何がいいか、食事は何をとればいいか、休日は何をして過ごすかなど、何でもかんでも恋人の意見を聞いて、それに従います。自分は能力がないと信じており、とにかく一人でいることが不安で、仕事中も頻繁に彼にメールを送ります。その恋人が酒に酔って暴力的になっても離れようとせず、別れを切り出されるとしがみついて泣き出します。

 

そういうことってあります。自分のことなのに、自分だけでは決められないこと、1人でいるということに不安を抱えてしまうこと、どんなにひどいことをされても、離れられない、離れたくない、いつでも一緒にいたいという思いと行動は、彼女だけのことではありません。もちろんひどいことをするというのは、やってはいけないことですし、あってはならないことです。でもそういうことがなくても、誰かといつまでも一緒にいたい、離れたくない、というのは、誰もが持っているものです。例えば、小さな子どもさん、赤ちゃんもそうですね。1人になることをすごく嫌がりますし、身近な人の姿が少しでも見えないと、すぐに不安になりますね。泣き出すことと似ていますね。

 

そんな、1人ではなくて、誰かと一緒にいたいという姿は、ファリサイ派の人々の中にもあるのです。というのは、神の国、すなわち、王さまがその国を治め、そこに住む人々を守るために、その国を支配するように、神さまが人々を守るために、治め、支配するという、神の国はいつ来るのかと尋ねたとある言葉は、単数形で書かれているのに、そこには、尋ねたいその人だけではなくて、複数の人々がいるからです。そして「尋ねた」という言葉の意味は、優しく、どうなの?という聞き方ではなくて、尋問です。非常に強い言葉で、イエスさまに、神さまの国がいつ来るのか?と尋問し、要求し、その問いに、確実に答えさせようとしているのです。

 

でも実に、不思議です。尋ねたいファリサイ派の人と、他のファリサイ派の人たちが、一緒にならなくても、いいのではないでしょうか?尋ねたい人が、直接イエスさまに、尋ねたらそれでいいのです。ところが、そこには複数の人がいるというのは、1人の人の尋問に、複数のファリサイ派の人々同士が一緒になって、イエスさまをある意味では、追い込んでいこうとしているのではないでしょうか?そのための、その話し合いと言うか、打ち合わせをするために、イエスさまからは見えないところで、彼らは集まっていたと思います。それで彼らはまとまっていくと言いますか、群れていくのですが、それは、1人の人が、自分と同じファリサイ派の人たちを、巻き込んでいたのかもしれません。でも、そもそもどうして一人ではできないのでしょうか?どうして集団になるんでしょうか?それは、一人になることへの不安と、恐れが、彼らの中にもあったからではないでしょうか?

 

それに対してイエスさまは、「神の国は見える形では来ない」すなわち、1人の人が、観察できるようには来ないということです。それはこの観察する、という言葉も、先の尋問すると同じで、単数形で書かれているからです。つまり、神さまの支配、神さまが、守り、治めるという世界は、1人だけの世界では見える形にならないということなのです。であれば、ファリサイ派の人々は、集団でイエスさまのところに来ておられるのですから、1人ではなくて、集団だから見えるという意味でおっしゃっているのでしょうか?それで「あなたがたの間にあるのだ」と続くのでしょうか?

 

そのことについて、見える形では来ない、という言葉に、観察するという意味があるということに注目しましょう。この観察するという言葉は、星の観察や、病気の症状を診察するという意味で、使われる言葉として用いられています。実は、そのことから、見えて来るものがあるのです。

 

星を観察する時、相手は星ですから、真っ暗な夜に、夜空を見上げて観察しますね。この頃急に寒くなりましたが、これからの季節、特に冬になりますと空が澄んできます。この辺りですと、電灯など光が少ないので、星を眺めると、真っ暗な中に輝いている星が、だんだんと見えてきます。天の川も見えます。すばるという星が集まっている星団も良く見えます。それは夜空の暗闇が暗ければ暗いほど、暗闇を目を凝らして見れば見るほど、暗闇を観察すればするほど、ますますその暗闇に輝いている星が見えてきます。つまり、星の観察は、輝いている星だけを見るのではなくて、その星が輝いている暗闇を見て、暗闇を観察するということでもあります。それは、病気の症状の診察も同じです。今は、内視鏡とか、カメラなどを体の中に入れて、どのようになっているか、カメラにつけられた明かりをつけているので、見えるようになっていますが、そもそも体の中は、真っ暗です。光が一切ありません。光が全くない暗闇です。その暗闇の世界を、いろんなものを使って、目を凝らし、診察しているのです。

 

つまり、星の観察も、体の中の診察も、光を見るとか、観察するということではなくて、暗闇を観察し、暗闇の中にあるものを、診察するということなのです。つまり、神さまの国、神さまの支配、神さまが治めて下さるというのは、光の中で見えるものではなくて、真っ暗な暗闇の中に、何も見えない中で、その暗闇を見ることによって、見えて来るのです。

 

しかし、暗闇は暗闇ですから、どこに何があるか、どうなっているのか分かりません。見て、ああここにあると、あそこにあると気づいて、手に取ることもできません。そういう意味で、イエスさまが「見える形では来ない」ということも、「ここにある」「あそこにある」と言えるものではない、とおっしゃられる通りです。私たちの目で見て分かるものではないのです。

 

けれどもイエスさまは、1人の私には見える形では来ないとおっしゃりながらも、「あなたがたの間にあるのだ」すなわち、彼らの中に、彼らの心の中に、真ん中に、「あるのだ」とおっしゃられるのは、私という1人ではなくて、1人の人と、あなたがたの間の、お互いの関係の中に、神さまの支配、神さまの守りがあるということなのです。しかも、その神さまの支配、神さまの守りは、お互いの暗闇を観察するということによって、見えて来るものなのです。つまり、そこにあるのは、暗闇を持つ者同士の、お互いの関係だということであり、時にはお互いの中にある暗闇によって、ぶつかるという関係でもあるのではないでしょうか?

 

ぶつかる時というのは、わたしたちにもありますね。その時、お互いに赦せない、受け入れられないという何かがあります。具体的にはいろいろあるでしょう。辛かったこと、悲しかったこと、怒り、憎しみ、赦せないという思い、受け入れられないという思い、いや、思いだけではなくて、それが行動となっていくこともあると思います。その中には、誰にも見せられない姿、これだけは見せたくない自分自身の暗闇の姿もあるでしょう。それがお互いの中にあるのです。その私の暗闇とあなたの暗闇が、ぶつかり合うのです。その結果、お互いに、失うということも経験するのではないでしょうか?

 

得る、失う、恵みは失ってから知るというタイトルで、こんな言葉がありました。

 

わたしたちの人生は、「得る」ことと「失う」ことが織りなして展開してゆくようなものだと思う。人生を前半と後半に分けて考えてみても、50歳くらいまでは得るものが多く、50歳を過ぎると失うものが多いように思う。もちろん、50歳までにも失う経験は多く、50を過ぎてからも得るものもある。「得る」ことは喜びであるが、「失う」ことは悲しみである。若さや健康、仕事や地位、名声や信用、友達や恋人、どれもこれも「得る」時には心も体も燃え上がるが、失う時には、心にも体にも大きなダメージを受ける。「元気なだけが取り柄で、後は何もないさ」などと言っていても、病気になったりすると「元気が一番だ」というのである。友達なんかいて当たり前と思っていても、けんか別れしたりすると、仲直り出来た時に「本当によかった」と思うのである、意外なことに、普段なんとも思わないもののほうが、失った時にショックが大きく、自分の人生に大切なものであったのだと感じることが多いのだ。・・・そしてその言葉につづいて、神さまは与えるために奪い、癒すために打たれるお方だということに繋がっていくのですが、

 

そういうところに気づかされるまでには、失うということ、ぶつかるということが、どんなに失いたくない、ぶつかりたくないと思っていても、失うということを経験します。

 

数年前に、中学1年生からの友達のご家族から、その友が亡くなったという知らせをいただきました。10数年、入退院を繰り返していましたが、召されたという時には、自分の中から、大切なものが失われたような感覚に襲われたことでした。ぽっかりと穴が空いたような感じにもなりました。そんな中で、折々に会う時には、いつも「お前はな~天然だからな~」とチクリと釘を刺してくれました。そうしながらも、牧師としての働きをいつも気遣ってくれました。「お前の言葉はな~重いからな~」はっきりと言ってくれることしばしばでした。その彼との関係では、一緒に文化祭や、いろんなことをやろうとするときには、意見の食い違いもありましたし、時には、ぶつかることもありました。実際に、学校の登下校の時に、自転車同士でぶつかってしまったこともありました。その時、その友達の学生服が破れてしまったのですが、その時、怒りもしないで、赦してくれたこともありました。そんなお互いにぶつかいあいながらも、お互いに足りない所を受け容れ乍ら、過ごしてこれたように思います。友達であっても、あるいは友であるからこそ、ぶつかり合いました。でもいい友でした。

 

そんな失うということを私たちも経験します。もういないという思いが駆け巡ることもあるでしょう。しかし、神さまは、そこにこそおられるのです。光り輝くところではなくて、私たちの中にある真っ暗な、暗闇の中に、そしてお互いの関係の中に、時にはぶつかり合う中に、また失うという関係の中に、神さまが共にいてくださるのです。

 

それを1人でではなくて、あなたがたの間にあるとおっしゃれる時、あなたがたの中には、弟子たちもいます。ノアや、その家族も、またノアを取り巻く人々もそうです。ソドムという町に住んでいたロトとその家族も、ソドムの町にいる人々もそうです。それぞれにお互いの関係がありましたし、お互いに、してはいけないことをしてしまったこともありました。お互いの間、あなたがたの間には、暗闇がありました。

 

しかし神さまは、そんな中であっても、救いの手を差し伸べてくださるんです。弟子たちには、イエスさまを通して、十字架の赦しを与えられました。イエスさまの祈りがありました。「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と、イエスさまは弟子たちが、どんな姿であっても、弟子たちのために、また自分を排斥し、十字架につけていく、そんな暗闇を持つすべての人々のためにも、「父よ、彼らを赦してください」と祈られ、イエスさまは、十字架の上で、その命を失い、その命を神さまに委ねていかれ、救いを成し遂げてくださいました。ノアが箱舟を作る時にもそうです。あざけり、神さまの言われたことを信じようとしない、そんな人々の暗闇の中で、またソドムの町に住む人々が、神さまに従おうとせず、自らの欲望のままに生きていた人々の只中にも、神さまは、共にいてくださいました。そして、ノアとその家族も、ロトたちも救い出してくださいました。

 

しかし、そういう神さまが人々の暗闇、わたしたちの暗闇の中にあるのだと、あなたがたの間にあるのだ!と言って下さり、そこから助け、救い出して下さる時にも、その神さまを信頼できないでいる、信頼できなかった人もいるのです。それがソドムの人々であり、ロトの妻、奥さんでもあるんです。そして自分の欲望、家の中にある家財道具を取り出したい、畑から家に帰ってきたい、自分の家がどうなったか、見たい!と、せっかく逃げるように、救い出そうとしてくださったのに、後ろを振り返ってしまうことがあるのです。そして振り返って、過去にまた戻ってしまうこともあるのです。そういう、過去に戻るか、前に向かって進むかというところで、揺さぶられ、揺れ動くこともあるのです。1歩進んで、3歩下がるようなこともあるでしょう。そういう振り子のように揺れ動く中で、それがだんだん大きくなり、とうとう神さまとの関係を、自分から手を離してしまったり、あまりにも遠くにまでいきすぎてしまって、切れてしまうこともあるかもしれません。

 

それは先ほどの、教会学校でも触れました、輪ゴムの伸び縮みと似ています。わごむは伸びますね。伸ばすこともできます。その輪ゴムを、伸ばし続けていくうちに、とうとうその輪ゴムが切れてしまうことと同じことが、あるのではないでしょうか?でも神さまから与えられた輪ゴムは、決して切れないものです。切れそうになったり、その輪ゴムから手が離れてしまうのは、わたしたちが、神さまから与えられている無数の輪ゴムの中から、わたしたちが自分の目で見て、取捨選択して、それを自分の力で握りしめようとしているからなのかもしれません。

 

神さまを信頼して歩む時、そういうことがあるんですね。そう言う意味では、神さまが、あなたがたの間にいてくださって、そこから導き出してくださると約束くださったのに、それに抵抗し、それに聞き従おうとしない姿は、ファリサイ派の人々から、弟子たちの中から、ノアとその家族の周りの人々から、ソドムから、ロトの家族である奥さんの姿であり、その結果、自分の命を失うのです。失うということを経験するのです。

 

それでも神さまは、その失うということ、失うという関係を経験した、あなたがたの間にあるのだとおっしゃられる通り、暗闇の中で、そして失うということの中にも、「神の国は、あなたがたの間にあるのだ」今、ここに神さまがいてくださる、神さまがいつもそこにおられる、ということが分かるように、信頼できるように、暗闇の中で、失うということの中で、神さまがそこにおられるということへ、導いて下さいます。

説教要旨(10月15日)