2023年8月27日礼拝 説教要旨

何をしたいのか(ルカ14:1~6)

松田聖一牧師

 

五十嵐一(はじめ)さんという方の書かれた本に、こんな本があります。「摩擦に立つ文明」この中で「すべて存在するものは摩擦を起こす」と書いてあることについて、次のような解説がありました。

 

人のことでムカッと来ない日はなく、人間関係でストレスを感じない日はないのではないか。そんな時、自分がなぜこのように人間的に小さいのだろうかと悩んでしまい、自己嫌悪に陥ることもある。しかし、そんなふうに自分を責めなくてもいいのだ。存在するものは、みんな摩擦を起こすのだから。。。

 

なるほどと思います。この世界、社会の中で、思いますね。なぜこんなに摩擦が起こるのか?と。でも考えて見れば、お互いに違う者同士が集まっているのですから、摩擦がないはずがないですね。摩擦はなくなりませんし、摩擦がなかったらこれまた大変なことになります。例えば、摩擦があるから、車は動くことができます。前に向かって進むことができます。摩擦があるから、ブレーキをかければ、止まります。飛行機もそうです。空気の抵抗という摩擦があるからこそ、浮き上がることができます。浮き上がれるから、前に向かって飛ぶことができます。そういう意味で、摩擦は必ずしも悪いことばかりではなくて、摩擦があるからこそ、前に向かって進むことができるという、新しい可能性、新しい世界が与えられ、広がっていくのではないでしょうか?人間関係の摩擦もそうです。摩擦によって、何か大切なものに、気づかされたり、新しい生き方のために必要なことを、教えられことがあるのではないでしょうか?そういう意味で、摩擦というのは、意味がありますし、必要なことです。

 

今日の箇所でも摩擦があります。それは食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになったイエスさまに対して、イエスさまの様子をうかがっていた人々もそうです。というのは、イエスさまが、食事のためにファリサイ派の議員の家に入った時、人々は、イエスさまの様子をうかがっていたとある中の、「うかがっていた」には、悪意をもって見守り、悪意をもって、イエスさまを見張っていたという意味であるからです。つまり人々は、イエスさまに対して、悪意を抱いていたんです。どんな悪意なのか?具体的にそれは、現れてはいませんが、イエスさまが安息日にどんなことをするのか?ということに対して、人々は、イエスさまに対して悪意をもっていたのです。

 

では、その悪意が、どうして悪意になるのか?というと、一般的に、最初から悪意なのか?というと、そうではないことが多いですね。最初は善意であり、最初は良かったのに、途中から何らかの理由、何かのきっかけで、善意や好意から悪意に変わるということがあるのではないでしょうか?そういう意味で、人々もイエスさまに対する悪意もそうです。最初から悪意をもっていたというよりも、納得できない、あるいは赦せないという気持ちが入って来ると、イエスさまを、またイエスさまがなさることが、どんなことでも赦せなくなって、イエスさまの行動をうかがうということになるのではないでしょうか?その結果が、彼らとイエスさまとの関係の中での摩擦なのです。

 

もちろん、イエスさまは、彼らが悪意をもっていたことに、気づかされていたと思います。しかし、イエスさまは、人々が、どんなに、ご自分に向かって悪意をもっていたとしても、具体的に安息日にこの水腫を患った方を癒されるということに対するイエスさまに対する悪意という摩擦であっても、それに振り回されないのです。その悪意に立ち向かっておられないのです。あるいは、その悪意を鎮めようとされるのでもないのです。むしろ、その悪意に関わろうとされるのではなくて、ただこの水腫を患っておられる方を、癒すということに向かっていかれるのです。

 

このイエスさまがされた、悪意に立ち向かわないこと、悪意に関わらないこと、それは大切なことを教えてくれます。確かに悪意というのは、悪意ですから、それに直面した時、嫌な思いをします。その時、嫌ですから、嫌なことがなくなるように、悪意を善意に変えようとすること、あるいは悪意の、その思いを、少しでも悪意でないようにしようとすることもあるかもしれません。そのために、相手に合わせようとしたり、あるいはその悪意と同じところに、自分自身も立ってしまうこともあるのではないでしょうか?そうなると同じ悪意に、自分も染まってしまいます。

 

たちの悪い、というのは、どんなことかということについて、こんな解説があります。

 

周りの人の欠点はよく目につきます。いつも人の悪いところばかり、あら探しをしているのです。どんなに長所が多い人であっても、たった一つの短所を見つけ出し、そこをずっと責め続ける傾向も。「あの人もダメ、この人もダメ」とダメ出しばかりしているため、周りにはダメな人しかいないように感じてしまい、ストレスとイライラを抱えがちでもあります。このような人の欠点探しをするたちの悪さは、コンプレックスや自信のなさが原因です。自分に自信が持てないため、周りの人を下げることで安心しようという心理が働いている可能性があります。

 

あらさがし、欠点探しということを、その人と同じようにすれば、その仲間内では悪意は起こらないかもしれません。そして同じように悪意をもっている者同士は、一見仲が良いように見えます。しかしそれはいっときのことであって、ずっと続くものではありません。何かのきっかけで、仲間内同士で、お互いに悪意が向く可能性があります。だからこそ、悪意という同じ土俵には立ってはいけないのです。むしろ、悪意から離れること、悪意に近づかないことです。むしろ悪意と言う摩擦を通して、そこから離れて、よいことの方に向かっていくということではないでしょうか?

 

イエスさまがされたのは、そういうことです。イエスさまは、人々の悪意に向き合うことよりも、水腫で苦しみ、思うように動かせない、思うように自分の体がならないという、苦しみという摩擦の中にあったこの人を癒すという、よいことのために、イエスさまは、ご自分の時間を割き、手を使い、病気を治すということに、関わろうとされるのです。

 

この時、この人は、水腫と言う病を患っていたことで、苦しんでいました。というのは、水腫という病は、ひざとか、腰とか、肺といった、体のどこかに、水が溜まってしまうことで、思うようにひざとか、腰といったところを動かせないでいるのです。肺に水がたまるということもあります。そうなると、息をすることが大変です。呼吸困難になります。それは大きな苦しみです。体も、心も思い通りにはいきません。そういう意味では、この人自身、自分の中で体にも、心にも、思い通りにはいかないという大きな、大きな矛盾、大きな摩擦を抱えていたとも言えるでしょう。

 

だからこそイエスさまは癒そうとされるのです。そして癒されるという時になって、癒される前に、この悪意をもっていた人に、大きな摩擦を感じさせるような問いかけをするのです。

 

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」許されているか、いないか。この問いは、彼らに安息日に病気を治すことについて、許されているか、いないかの、どちらかを選択できるような問いではなく、許されているか、いないか、は、許されているに決まっているじゃないか!安息日であろうとも、苦しみを抱えて、自分の中に大きな矛盾と、摩擦を抱えている、その病気を治すことは、当たり前だ!それが許されないという答えはないということを、イエスさまはこの問いを通して、彼らに突き付けているのです。当たり前だ!その当たり前のことについて、ごちゃごちゃ悪意をもってあれこれするということは、あってはならないことだ!神さまが安息日を覚えて、これを聖とせよ命じられたのは、神さまからの安息を与えるのは、当たり前だ、その人にとって、今必要な安息が何かということを、その人以上に知っておられる神さまは、安息日に病気を治したらダメだという、人が勝手に決めたそのことを、そんなことはない!とものすごい迫力でおっしゃられるのです。

 

そのイエスさまの前に、安息日には労働をしてはならない、それを守ることは当然だ、ということが当たり前の世界で生きてきた彼らにとって、ものすごい衝撃だったと思います。イエスさまから一体あなたたちは何をしているのか?何をしたいのか?ということが突き付けられた問いでもあるでしょう。

 

その結果「彼らは黙っていた。」その意味は、どちらの答えも答えることができないから、何も言わなかったという意味ではなくて、あるいはあまりの迫力で答えられなかったというよりも、この黙っていたというのは、静かにしていたとか、休息していたとか、安息していたという意味なのです。つまり彼らは、イエスさまから、許されているか、いないか、と尋ねられた時、何も答えられずに、ただ黙っていたということではなくて、彼らはイエスさまのこの言葉を受け、頂いた時、答えられない問いであっても、彼らの中には、神さまからの安息、神さまからの平安、平和が与えられていくのです。悪意をもっていた人々にとって、それまで破ってはいけないと受け止めていた、安息日に病を治すことは、神さまからの安息を得ることなんだということを、許されているか、いないか、というこの問いかけを通して、安息を得られ、イエスさまがこれからやろうとしている、病の癒しは、それはやって当然のことだという姿へと変えられていくんです。それが、「黙っていた」と言うことなのです。

 

見方を変えれば、それまで彼らは、人を助けるということにおいても、安息日には、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、というものに縛られていたのではないでしょうか?だからそういう意味で、安息がなかったし、ストレスを感じて、彼ら自身の中にも、摩擦が絶えずあったと言ってもいいでしょう。目の前で助けを今すぐ必要としているその人を、助けたらいけないと言われていたことで、助けられなかったことが、山のようにあったのではないでしょうか?それが彼らをも、どこかで苦しめていたのではなかったか?でもそんな彼らにイエスさまが、安息日であろうともそれは助けて当然である!と、問いかけられた時、『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら』とあるのは、息子も牛も同じ、大切な家族の一員であるということなのです。そのどちらもが、落ちたら、そのまま放っておいたら死んでしまうからこそ、死から命へと救い出すために、息子も牛も、「安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』そんなことは決してない!すぐに引き上げてやるのは当然だ、とイエスさまが言ってくださったからこそ、彼らの中に、安息、平安が与えられていくのです。

 

それほどにイエスさまの言葉には、命があるのです。真理があるのです。そしてどんなに摩擦を感じ、あるいはどんなに悪意を抱いていたとしても、その悪意に代わって、安息が与えられていくのです。それはイエスさまの言葉、いのちの言葉には、神さまの安息があるということを証明しているのではないでしょうか?そして悪意から安息へと変えて下さった中で、イエスさまは、「病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」のです。

 

この人は、この後、どこに帰ったのか?それはもうここにはありません。でもそれは、どこに行ったのか、分からなくても、それでいいのです。どこに帰ったのかということよりも、水腫という病によって苦しみ、思うように動くことができないでいたことをイエスさまは取り除いてくださった、それで安息が与えられたことでもう十分なのです。

 

先週は、少しお休みをいただいて三重の方に行く機会がありました。1つは小学校に勤めていた時の、当時の同僚の方々や、PTAの本部役員の方々と25年目に続いて、30年目に是非会いましょうということで、名張を訪ねました。たった2年という短い期間でしたが、本当によくしていただいたことを改めて思いました。その会に、当時小学校3年生だった男の子がいました。大学を出たての新任の時、初めて担任させていただいた子です。今はもう40歳になろうとしていますが、その子は、お父さんが本部役員でいらっしゃったことで、お父さんの代わりに参加されていました。久しぶりの会でしたから、それぞれに今の近況など、思い出も含めて、一人一人の挨拶がありました。そしてその男の子の番になりました。すっと立って、緊張しながら話し始めました。すると私の話題になりました。「僕は、先生が、小学校をやめるということを聞いた時、本当に寂しくて、悲しかったです。でも、ホタルを一緒に見に行ったこと・・・一緒にカレーを食べたこと・・本当にいい思い出です。今日また会うことができてうれしいです。」時々言葉に詰まりながら、感極まって泣きながら話してくれました。びっくりしました。もう30年にもなるのに、そんな思いだったんだ~と改めて思いながら、自分の中にもあった、たった2年・・・と言うことに対する、どこか十分にできなかった、わだかまりのような思いがあったということに気づかされながら、それぞれの中にあったいろんな思いを、再び会うということを通して、神さまが、その出会いを本当によいものとして与えて下さっていたことを改めて思いました。そして、PTAのお一人の方が、どすの利いた声で、こっち来い!と言われてそばに行った時、いろいろとお話しながら、この30年ずっと気にかけてくださっていたことを感じました。そしてひと言「ええ顔してるな~また名張に帰ってきてくれよ~」目に涙を浮かべながら、手をしっかりと握ってくださいました。そんな出会いが、今の働きに繋がっていること、その原点がここにあったということ、そのために神さまがかけがえのない出会いを与えて下さったことを改めて受け取りながら、大いに語り合い、他の先生方と一緒に良いひと時を持つことができました。そのことを通して、1つの御言葉を思い起こしました。

 

それは「折が良くても悪くても」という聖書の言葉です。これまで、自分にとって、良い時、悪い時とに、分けて、自分にとっての良い時、悪い時にも神さまは良くしてくださる、そう受け取っていた御言葉でしたが、それだけではないことに気づかされたのでした。それはどういうことかというと、神さまは、自分にとっての良い時、悪い時も、すべて良いものへと造り変えて下さるお方だということでした。すぐにそのようにしてくださるわけではないことも多いですが、時を経て、どんなに悪い時と感じることであっても、すべてを良いものへと変えて下さって、その良いものにしてくださったことを、もう一度お返しくださるお方だということに気づかされたことでした。その時、与えて下さったイエスさまに対して、何も言うことはなくなります。ああその通りです。イエスさま、あなたは本当にすべてのことを良いものへと造り変えてくださいました。それを受け取らせていただくだけです。ありがとうございますと感謝できることを与えて下さるお方だということなのです。

 

だから彼らは、「これに対して答えることができなかった」のです。異議を申し立てること、抗弁すること、反対して答えるということが、できなくなっていたのです。それは反対したいのに、反対するということ、あるいは反対するという気持ちがなくなったということではなくて、ただイエスさまは、いろんなことがあっても、すべてをよきにしてくださるお方ということなのです。

 

今それがピンとこないかもしれません。悪いこととしてしか、受け取れないでいるかもしれません。しかしそうであったとしても、神さまであるイエスさまの側では、私たちにとって、悪いとしか受け取れないようなことでさえも、良いものへと、造り変えてくださるお方です。

説教要旨(8月27日)