2023年8月13日礼拝 説教要旨

その日、その時を(ルカ12:35~48)

松田聖一牧師

 

ボーイスカウトという団体がありますね。そのボーイスカウトには入ったことはありませんでしたが、教会を会場にしてボーイスカウトの活動がされていたことと、父親や教会の方々もそれに関わっていたこともあったのか、よくボーイスカウトのお兄さんたちに連れられて、キャンプなどに行ったことがありました。そんな、ある夏休みでのことです。山奥の河原でキャンプをすることになり、河原にテントを張って、煮炊きをしたり、水の確保などお手伝いはあまりできませんでしたが、小学生の私は、一緒に何日間か過ごしていた時のことです。ある晩、大雨になり、テントで寝ていたのですが、夜中頃に、「避難避難!」という大きな声でたたき起こされて、河原から安全なところに避難することになりました。どうやら川が増水して、テントを張っていたところまで水が迫っていたようでした。それで慌てて土砂降りの中、合羽を着て、テントをたたんで、いろいろな道具をお兄さんたちが持って、河原から避難するのです。私は幼かったので、あまり状況は掴めませんでしたが、とにかく緊張感みなぎる中で、みんなが慌てていました。それで安全なところについて、しばらくじっとしていましたが、やがて雨が止み、辺りが静かになった頃、一人の隊員のお兄さんの言われた言葉が、耳に残っています。「隊長!東の空に星が見えました!」それで安心したのか、寝てしまったのか、その後のことはあまり覚えていませんが、避難というのは、突然、思いがけない時にあるものだということを身に染みて感じた出来事でした。

 

なぜならば、避難するとは思っていないからです。そういうことというのは、どこか別の世界、自分にはそういうことは来ないと、どこかで思っていたからなのかもしれません。だから慌てたのでしょう。

 

私たちにとっても、思いがけないことというのは、思いがけないことですので、想定していないことです。そんな思いがけないこと、全く想定していなかったことが、

イエスさまのおっしゃられる「腰に帯を締め」というこの言葉にも現わされているのです。というのは、この腰に帯を締めというのは、出エジプトという、イスラエルの民が、神さまに導かれてエジプトを脱出するという時に、過越しの食事を食べる時の服装でした。その時民は、奴隷として自由が奪われていましたが、そこから、神さまの約束の地に導くために、出発しなさいと言われた、そのタイミングは、予想できない、突然の出来事でした。その突然の、思いがけない時の中で、慌てて、バタバタとかきこむような、まだ準備ができていない中で、出発した時の食事が、過越しの食事なのです。そして荒れ野を旅する時も、不安とこれから一体どうなるのだろうかという中での旅でしたし、神さまが次のところに行けと言われるのも、突然のこともありましたから、落ち着かないわけです。それが、約束の地に入った時に初めて、ようやく落ち着つくことができたので、その食事も、やっと横になってできるようになるのです。つまり、横になって落ち着いて食事ができたというのは、自由の身になり、解放されて、落ち着けたということの1つの証拠でもあるのです。

 

そういう出来事を思い起こし、記念し、守りなさいという過越しのこの食事が、礼拝で守られ続けている聖餐式、すなわちイエスさまが与えて下さった赦しの食事、イエスさまが共におられる食事に繋がっていきますが、その食事を落ち着いてできるかどうかわからないことが、起こり得るからこそ、イエスさまは、いつでも出発できるように準備しておきなさいという意味で、腰に帯を締めていなさいとおっしゃられるのです。

 

さらには「ともし火をともしていなさい」ということは、具体的に、ともし火が過越しの食事の席に必要であること、またともし火は、神さまからの希望の光ですから、その光である神さまを感じながら、食事を受け取れるようにということです。また別の意味では、ともし火は、世の光として、私たちに希望を与え、照らしてくださるために私たちのところに来てくださった、イエスさまのことでもあります。そのともし火であるイエスさまを、「ともしていなさい」は、火をつけてほのかなともし火をつける、ということだけではなくて、焼きつくすという意味もあるのです。つまり、イエスさまがともし火をともしていなさいということは、イエスさまご自身のことを指して、神さまへの焼き尽くすささげもの、すなわち贖罪のささげものを、神さまの前に、神さまに向かって、ささげなさいということなのです。

 

ではこのことをイエスさまは誰に向かって言っているのか?というと、弟子たちに言っています。弟子たちに帯を締め、ともし火をともしていなさいと命令しています。同時に、過越しの食事に繋がる、腰には帯を締め、ともし火をともすということは、弟子たちにそうしなさいとおっしゃりながら、このことをイエスさまご自身が、神さまの赦しを与えるために、自分自身を十字架の上で赦しのためのささげものであるということを、イエスさまご自身に向けて、命じていることでもあるのです。

 

そこから主人、すなわち神さまが、戸を叩くとき、既に開けようと待っている人のように、神さまを受け入れる人のようにしていなさいとおっしゃられるのは、イエスさまが、赦しの神さまであることを、是非受けとってほしいと心から願っておられるからです。

 

たとい受け取ってほしい相手である、弟子たちが、目を覚ましているのを見られる状態ではなかったとしても、目を覚ましていたわけではなくても、赦しを分かっていないこともあるし、いろいろあるけれども、イエスさまはそれでも、赦しを与えるために、「幸いだ」と来てくださるのです。

 

そのために、「この僕たち」すなわち、私たちを赦しの食事の席に着かせてくださり、そばに来て給仕してくださる、そういう主人がそばにいてくれるのです。過越しの食事を神さまが、神さまであるイエスさまを、私たちに与えるために、出して下さり、給仕をしてくださるのです。

 

それが主の祈りのこの祈りに繋がるのです。「我らに日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを、我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」この祈りは、毎日の必要を与えてくださいという祈りと、毎日の罪を赦して下さいという祈りですが、これは2つに分かれているのではなくて、日ごとの糧と、罪の赦しは、1つなのです。つまり毎日毎日必要なものは、食べるものだけではない!毎日毎日、神さまの赦しが必要なんだということを、イエスさまはこの祈りを通して教えてくださり、この祈りを祈ることを通して、毎日毎日、赦して下さい!食べるものを毎日頂く必要があることと同じく、毎日、毎日、赦されていることを、この祈りを祈ることで、ああそうなんだ!ということを受け取らせていただけるのです。

 

主の祈りを一日3回祈りなさいとおっしゃっていただいたことがありました。一日3回ということは、ご飯もほぼ1日3回、朝昼晩と頂くことと同じですね。それで一日元気に過ごすことができますが、それと同じ、赦しも、ご飯を毎日頂くことを同じだということに繋がってきます。

 

ではその赦しをイエスさまが、与えて下さる時について、イエスさまは、真夜中に帰っても、夜明けに帰ってもとおっしゃいますが、その真夜中と、夜明けという時、というのは、真夜中と言う言葉の意味と、夜明けと言う言葉の意味から、見えてきます。真夜中というのは、過越しの食事から数えて2番目の夜であり、

夜明けというのは、3番目の夜が明けたと言う意味があります。つまりこの真夜中と言う時と、夜明けと言う時は、イエスさまの十字架の死と復活の、その時ことを指し示しているのです。言い換えれば、イエスさまが、日ごとに与えて下さる、毎日毎日与えて下さる赦しは、イエスさまが十字架の上で、すべての罪をご自身が受け取り、背負い、十字架の死と共に滅ぼし、赦して下さり、そして三日目に甦られ、生きておられるイエスさまから与えられた、赦しであること、それが、この真夜中と、夜明けの言葉に込められているのです。その赦しを、イエスさまは、たとい私たちが、「目を覚ます」ことができなくても、出来なかったとしても、分からなかったとしても、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ!」と、目を覚ましていたからではなくて、目を覚ましていなかったとしても、目を覚ましているとみなして下さっているからこそ、与えて下さっているので、幸いだ!と宣言下さるのです。

 

イエスさまは、このことをわきまえていなさい、あなたがたは知りなさい、知るようになり、認め、承認しなさい、そして、知り合いになりなさいとおっしゃっておられるのです。

 

認めること、と知り合いになるということは、人との関係でもそうですね。知り合いから、友達になり、親友にもなるという出会いに繋がります。先日の教会学校のデイキャンプは無事に守られました。お祈りを心から感謝申し上げます。そのキャンプで、初めて出会った子どもたちがいました。この教会の中に入るのも初めてですから、最初は少々緊張気味でした。お互いに名前を言って、初めましてからスタートしたわけですが、少しまだ始まる迄時間がありましたので、ジェンガというゲームを一緒にしました。ジェンガというのは、積み木が崩れないように、その積み木の1つ1つのブロックを、そう~っと抜いて、その積み木の上に、載せていくものです。途中で、崩れたらまたもう一度というものですが、これがなかなかスリリングです。それを5人でしたわけですが、子どもたち同士は、すぐに仲良くなって、一緒にわいわいと、そして助け合いながら、一緒にすることができました。子ども同士というのは、不思議ですね。ものの5分も経たないうちに、あっという間に打ち解けて、仲良くなっていきました。そして縄文パンを作り、バーベキューをし、礼拝をささげ、花火をしながら、ますます和気あいあいとなっていきました。別れ際には、次はいつやるの?もう次の話になっていくんです。今度また来る!と言いながら、それぞれ帰っていかれました。知り合いになるというのは、何もしないで知り合いになれるのではなくて、何かを一緒にするということで、知り合いになりますね。何かを一緒にすることで、お互いに知り合えるのです。それはその時に、お互いを知って、お互いを受け入れて、認めていくということで知り合いになります。友達になります。時には、それが生涯続く友情になることもあります。

 

神さまと私たちの関係、神さまであるイエスさまと私たちの関係も同じです。イエスさまと一緒に歩む時、一緒に導かれて、イエスさまからの言葉を聞いて、それを自分のこととして受け止めて、受け入れられるようになるのは、いつもいつも赦して下さっているイエスさま、たとい、泥棒という、赦しを奪う者が来て、赦しを盗んで取っていかれてしまうような時があっても、家に押し入らせないように、守って下さるイエスさまと、仲良くなるということでもあります。

 

それでも、なお私たちには、守って下さっているイエスさまの赦しを受け入れられないこと、イエスさまをお迎えできないことがあります。それはイエスさまに対してだけではありません。人を受け入れ、認め合うということにおいても、それとは、反対のことをしてしまうことにもあるのではないでしょうか?それが「下男や女中を殴る」と言う姿に出ています。それは実際に殴るということではなくて、自分が相手よりも上に立とうとしてしまうこと、自分と人とを比較して、自分の中で、勝手に、相手を自分よりも下のように見てしまうこと、そういう関係を、自分から作り出してしまうこともあるのではないでしょうか?

 

それは主人である神さまの思いを知りながら、「何も準備」しなかったことであり、神さまの思い通りにしなかったということです。それはどういう結果になるかというと、「彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」ことと、「ひどく鞭打たれる」ことなのです。でもそういう結果になるということを、はっきりと神さまはおっしゃりながら、厳しく罰すること、不忠実な者たちと同じ目に遭わせること、ひどく鞭打たれることを、神さまは、誰に向かってされたのかというと、「彼」なんです。

 

ではこの彼とは誰のことでしょうか?それはイエスさまのことです。イエスさまは、神さまでありながら、何にも悪いことをしていないのに、人が人に対してしてしまう姿、やってはいけないことをしてしまうこと、を知らずにしてしまったとしても、それがどんなにやってはいけないことかを知らずにしてしまったとしても、「打たれても少しで済む」とおっしゃられる意味は、本当ならば、私たちが、十字架につけられなければならなかったのに、本当ならば、鞭打たれ、殴られ、厳しく罰せられなければならなかったのに、それをイエスさまが身代わりに受けてくださったからこそ、「打たれても少しで済む」と、赦しを与えて下さっているのです。それは、何にも打たれることがないということではなくて、

打たれることはあるのです。打たれて、傷ついて、苦しむことは、ないのではなくて、あるのです。でもイエスさまは、それでもイエスさまの十字架によって、赦してくださっているその意味は、イエスさまが、身代わりにすべての罪を全部背負って下さったのだから、私たちが苦労もなく、打たれることもなく、全くなく過ごせるという意味ではなくて、苦労することもありますし、打たれることもあります。傷つくこともあります。殴られるようなこと、ノックアウトされるようなこともあるかもしれません。でもそれはイエスさまが十字架の上で、私たちの身代わりに罪を全部背負ってくださっているから、そういう苦しみがあったとしても、その渦中にあっても、それは十字架の赦しの中で、傷ついたことも含めて、赦され、それはもうすでに、いやされた苦しみ、癒された傷、赦されてある傷となっているのです。

 

ある方が、大変な苦しみに陥れられました。深く傷ついて、どうすることもできないほどに、ノックアウト状態でした。その同じ日の夜、夢を見たのでした。こんな夢でした。それは自分自身が、落ちるところまで落ち続けていました。どこまでも下に、下に落ちていくのです。そんな落ちるところまで落ちていく途中で、ピタッと落ちるのが止まりました。見ると、自分の下に、神さまの手がありました。その神さまの大きな手の中で、横たわっていた自分自身を見た時、傷だらけでボロボロになっていました。でも神さまの手の中で、傷だらけの自分自身が、癒されていったのでした。その時、気づいたことがありました。それはイエスさまの十字架の赦しは、上にあるのではなくて、私の下にあった!イエスさまの十字架の赦しは、落ちるところまで落ちた私の、その下にあって、私を支えて下さり、癒してくださっていたことに気づかされたのでした。

 

罪がないように見なして下さること、赦して下さること、その時を、神さまは私たちにも与えてくださいます。そのことを認め、受け入れることができた時、赦されていることを知る時となるのです。そのことを見ることができる時を、神さまは与えてくださいます。そしてあなたは「幸いだ」と認めて受け入れて下さる神さまが、いつもそこにいます。

説教要旨(8月13日)