2023年2月26日礼拝 説教要旨

聖書の言葉によって(ルカ4:1~13)

松田聖一牧師

 

冬の日本海はよく荒れます。強い風が吹きつけますので、波も非常に高くて荒いです。その波が、海岸に打ち寄せる時には、ド~ンとすごい音がすることもありますし、波の力は本当に強いですから、場所によっては、海岸がどんどん削られていくこともあります。そうすると、砂浜がどんどん消えていきます。砂が波で沖に流されていくからです。それだけではありません。住宅地の近くまで海が迫って来て、波しぶきが降りかかるくらいにもなります。本当に激しい波です。そんな厳しい冬が過ぎると、波は穏やかになっていくのですが、それでも、毎年冬になると、激しい波が繰り返し繰り返し打ち寄せるのです。

 

イエスさまが悪魔から受けた、誘惑、試練とも訳されますが、それは繰り返し繰り返し、です。イエスさまは、誘惑、試練を何度も何度も受けていかれるんです。それはイエスさまにとって、厳しくて、苦しいことです。逃げ出したくなるような出来事です。そしてその誘惑のところに、イエスさまは自ら進んで行かれたのではなくて、「引きまわされた」別の意味では、導かれたのです。ということは、イエスさまは自分の思いとは違う方向に、神さまによって、荒れ野に、そして誘惑、試練に導かれたということです。それは思いもよらない、思いがけない方向へと向かわせられたとも言えるでしょう。

 

そういうことは、私たちも経験させられることではないでしょうか?自分の思いに反して、思いがけないことに巻き込まれ、思いがけない方向へと引き回されていく時、自分ではどうにもできないことが多いです。それは辛くて、苦しいことです。そしてそれがある時点で、終わるということが分かっていれば、そこまで何とか持ちこたえよう、何とかしようとするでしょうが、でもそれが、いつまで続くのか分からない時、いつこのトンネルから抜けられるか分からない時には、もっとつらくて、苦しいです。

 

イエスさまは、そういう誘惑、試練を、受けるために、神さまから引き回され、導かれるんです。それが40日間と言う言葉に表されているのです。その40日という意味は、ただ単に、ひと月に10日プラスした日数(ひかず)ということだけではなくて、40という数字は、十分な期間ということです。ただ十分な期間というと、具体的にいつまで、とか、ここまでとははっきり言えないですね。いつ終わるのか、分からないとも言えます。

 

例えば、ケガなどされた時、診断として出て来るのは、全治、完全に治るまでには、何日間とか、何週間とか、何カ月間というのが出てきますね。全治何とか・・・という診断が出ます。ただそれはあくまでも目安であって、具体的に、いつ、治りましたと判断できるかは、その時になってみないと分からないことです。はっきりとは言えないものです。まして、いつ治るかどうかわからないものであれば、もっとわからなくなります。いつ治るのか?いつ元通りになるのか?十分な期間が、どう当てはまるのか?そして、いつ治るのかどうか、分からないということになれば、それはケガといったことだけではなくて、気持ちも含めて、十分な期間、時間を取れば、ああよかった~と言った、ことにはなれないのではないでしょうか?むしろ、これが、いつまで続くのか?いつまででも続くのか?いろいろと思ってしまいます。

 

そういう意味で、人の体、心も含めて、それらにとって十分な期間というのは、ある一定のここまでという時間なのか、あるいはエンドレスに続くものなのか?それは場合によって、内容によって、人によっても、違うものです。逆に言えば、何をもって十分な期間と判断できるのか?自分でもうこれで十分と感じたら十分なのか?誰が、十分と判断できるのか?そういう尺度もあるようでないと言ってもいいでしょう。ですから、周りからは、もう十分でしょと思われても、ご本人にとって、辛くて、苦しいことが継続中であれば、終わっていないのです。終わってくれないのです。

 

よく一生懸命にされた方に、周りから、よくされたね~よくがんばったね~と言われても、本人が、本当によくやったとか、よくできた~と思えなければ、いくらよくされたね~と言われても、そのまま受け取れないことと同じことです。その人にとって、十分にはできなかった、あれもしてあげたらよかった、これもできていたらよかった、のに、できなかったという思いでいる時には、よくされたねとか、よく頑張ったねと言う言葉は、どんなに励ましの言葉であっても、傷つけてしまう言葉になります。あるいは反対に、ご本人にとっては、本当に十分にされたと思っていても、周りからは十分でないと評価されたら、それは周りの方々から、よくされたね~にはならないですね。

 

誘惑、試練というのもそうです。つまり、ひと口で誘惑とか、試練と言っても、その内容を、どう受け止めているかによって、本人だけではなくて、周りにとっても、実に様々であるということが言えるのではないでしょうか?

 

イエスさまが受けられた誘惑、試練というのは、そういうものです。そしてこの十分な期間である40日に受けた、試練には、試練と、同時に神さまのお恵みの期間ということも指し示しされているのです。

 

つまり、イエスさまが荒れ野で悪魔からの誘惑、試練を受けられた40日は、辛くてしんどくて、出来れば避けたいという出来事なのに、また空腹を覚えられた、飢餓状態であったのに、それが神さまからのお恵みの時でもあったということが示されているんです。

 

不思議です。辛くて苦しい時が、ずっと続いているかのように、永遠に続くかのように思う時に、十分な期間というのが、どれくらいなのか具体的でないのに、それがお恵みだということがどうして言えるのでしょうか?そもそも試練や誘惑は、避けたいことです。あってほしくない、二度と味わいたくないことでもあります。それなのにそれでもなお神さまからのお恵みが、その試練の中にも十分にあったということが、どうして言えるのでしょうか?

 

それはイエスさまが、神さまによって導かれた荒れ野の中で、神さまとして、その荒れ野を切り開くためです。荒れ野という大変なところであっても、その荒れ野から、神さまからのお恵みを切り開いて下さるためなのです。

 

そのために、悪魔からの誘惑、試練を受けるところにイエスさまは立って下さり、その悪との対峙と、対話を通して、イエスさまが神さまであること、神さまの言葉である聖書の言葉には、こう書いてあるという真実へと、イエスさまは、語り示されるのです。それが、悪の手にイエスさまを引きずり込ませようとする、その悪との対峙の中で、結果として明らかにされるのです。

 

ただすぐにそうなるかというと、当座は、悪魔からの誘惑、試練ということが立ちはだかります。それに直面します。その立ちはだかる中で、悪が用いるのは、実は、聖書の言葉であるということと、しかもその聖書の言葉を、自分の都合の良いように聖書を切り取って、自分の都合の良いように使おうとすることなのです。

 

具体的には、イエスさまが空腹を覚えられた時、「この石にパンになるように命じたらどうだ」ということや、神殿の屋根の端、屋根の端にある突端のその先の先という、後は落ちるしかないというところに立たせたとき、イエスさまに神さまの子なのだから、ここから飛び降りたらどうだということを言う根拠として、言っている「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」とか「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という言葉も、その言葉には、前後にそれぞれ言葉があるのに、それだけを切り取って、切り貼りしたようなことをしているのです。つまり、都合の良いように聖書の言葉を、神さまの言葉を、切り貼りしていくと、真理からどんどん離れていってしまうのです。そのことをイエスさまに語り、イエスさまを動かそうとするのは、悪魔、悪が、イエスさまが神さまであることを知っているからこそ、イエスさまを、その真理から離れさせようとするためなのです。

 

ある学生の方が、テストを受けられるという時、神さまにお祈りをされました。「神さま、今度テストがあります。ちゃんとできるようにお守りください!」でも彼は、テスト勉強していなかったのです。勉強していなかったので、不安になったのでしょうね。それでお祈りをしたのですが、その時に、彼に、神さまから言われたような気がしたということが、ありました。それは、勉強していないのに、ちゃんとできるようにお守りくださいはあかん!勉強していないのに、テストが出来るはずがない!と言われたような気がしたというエピソードがあります。

 

それはそうです。勉強していないのに、できるようにお守りくださいというのは、ご都合です。神さまは確かにお守りくださいます。それは本当です。でも、それは自分の都合の良いような形でお守りくださるというのではなくて、神さまにとっても、私たちにとっても、最善のかたちでお守りくださるということです。

 

だからこそ、イエスさまは、聖書には何が書かれているか、聖書の言葉を通して、神さまが何を語っているかと語られるのです。その時、イエスさまは、大変辛くて苦しい中にあります。けれども、その辛いところを通らされていく意味と目的は、その試練、誘惑を、神さまであるイエスさまが、神さまとして、乗り越えるためであり、乗り越えながら、乗り越えたそのところで、乗り越えながら、神さまからのお恵みを切り開かれ、与えて下さるためなのです。

 

玉川聖学院という学校があります。その学校の中学、高等部の皆さんへということで1つのメッセージが紹介されていました。それは2020年新型コロナということで、不安になり、大騒ぎしていた時でした。

 

新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章13節

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

この苦しみ、このトンネル、この試練に、私は耐えられるのだろうか…。そう思うとき、「大丈夫。あなたは耐えられる。必ずそこを抜けることができる」と確証してくれる神が、ここにいます。この神は真実な方で、ひねくれたりきまぐれだったりはしないので、私たちの人生を壊そうとして何かを起こすようなことはしません。むしろ、そこを通ることによってより人生が確かになり、出会いを豊かに経験できるようにと、深い意図をもって試練としか呼べないようなものを、時折私たちの前に置きます。

このような試練に会っているのはあなただけではありません。多くの人がそこを通りました。そして、この試練を過去のものとし、さらに人生の糧とし、その先に進んでいきました。ここは、通り抜けるべきところであって、うずくまるべきところではありません。ここであなたの人生が止まってしまうことはありません。この試練にあなたが気づき始める前から、すでに脱出の道は用意されています。出口があるのです。ゴールがあるのだと思うと、今感じている重苦しさの中でも、空気が動くような気がしませんか。

 

今年は、社会全体が新型コロナウィルスの不安が続いている一方で、それぞれの家庭や生活の中で、重い課題や悲しみを抱えている人が多いのではないかと思います。わかってくれる人、助けてくれる人はすぐには見つからないかもしれません。しかし、ここに真実な神がいます。あなたにも脱出の道が備えられているのです。

 

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

この言葉は本当です。試練は確かにあります。けれども、耐えられないような試練に神さまは合わせることは決してなさいません。試練も確かにありますし、なくなることはありませんが、しかしその試練と共に、試練に耐えられるように、試練からの脱出の道も、神さまは確かに備えてくださいます。

 

そのためにイエスさまは、神さまでありながらも、荒れ野に導かれ、誘惑と試練と対峙し、それらを乗り越え、それらを通して、神さまのお恵みを切り開かれるのです。今、私たちには、それぞれに置かれた状況があります。辛いこと、苦しいこともあります。それが今、自分の心を占めてしまっているかもしれません。でもイエスさまは、それも知って分かって下さり、そこから前を向けるように、今心を占めていることに、助けを必ず与えてくださいます。そして神さまは、生きておられる真実なお方であることを、私たちの心に教えてくださいます。

 

そのために、聖書の言葉、神さまの命の言葉を、イエスさまは語られるのです。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と語られるのです。その言葉を通して、人を立ち上がらせ、人を導き、神さまの真理へといざなうのです。そんな試練を通して、試練と共にあった試練からの脱出の道が、どれほどに素晴らしい道であったかということ、神さまがどれほどに真実なお方でいらっしゃるかということ、どれほどに私たちを大切にしてくださっていたかということが、その時には分からなくても、後からでも、ああそうだったんだ~ということを、分からせて下さるのです。

説教要旨(2月26日)