2023年1月1日礼拝 説教要旨

あなたの救いを見た(ルカ2:21~40)

松田聖一牧師

 

中学の頃だったと思います。鶏の1種のチャボという小型の鶏をいただきました。それを家で飼うことになりまして、毎日卵を産むようになりました。その時生みたての卵を初めて手に取ってみましたら、本当に温かでした。そして卵が半分透き通って輝くような色でした。そのうちに殻が冷えて透き通るような感じではなくなりましたが、有精卵でもありましたし、生みたてというのは、本当においしいでした。そのうちに、その卵をメスのチャボが温め始めました。しばらくすると卵から雛がかえりまして、本当にかわいらしいヒナがピヨピヨと鳴き始めました。そこで、ヒナ用の餌を買いに走ったり、いろいろと世話をすることになりましたが、ある時、親鳥が温めていた卵に穴が空いてしまいました。中を見るとヒナがほとんど育っている状態で、ピヨピヨと鳴いているんです。それで温めないとと思いまして、あれこれと卵が冷えないようにしましたが、次第にその鳴き声が小さくなり、聞こえなくなりました。結局そのヒナは生きることができませんでした。それで庭に埋めてチャボのお墓とした時、切ないと言いますか、悲しい気持ちで一杯になりました。さっきまでピヨピヨと鳴いて、生きていたのに、生きられなかった・・・命を感じさせる出来事でしたし、生きているということの意味とその重さを味わわされたことでした。と同時に生まれた卵も、全部が無事にヒナになって、成長していくわけではないということを、まざまざと見せつけられたことでした。

 

そういう意味で、そこに命があること、生きているということは、当たり前のことでは決してないですね。当たり前のように生きている日々は、その生きているという事実に、神さまの支えとお恵みと、お守りがあってこそあるということです。そういう意味で、イエスさまが、割礼という儀式を迎えるに当たり、「8日たって」と聖書は記していますが、生後8日目に行われる儀式であるということと同時に、生まれてから8日目ということは、それは赤ちゃんであるイエスさまが、その8日間をちゃんと生きているということでもあるのです。しかし、それは当たり前のことではありません。8日間を生きることができるというのは、大変なことです。というのは当時、生まれたばかりの赤ちゃんのなくなる確率というのは、今よりもはるかに高いものでした。イエスさまが誕生したこの時代、正確な数字というものは具体的には現わされてはいませんが、古代エジプトの記録によれば、1000人中、329人がなくなるということが記録されています。その時で、生まれた赤ちゃんの内、3割以上が何らかの事情でなくなってしまうということですから、それと同じようなことが、イエスさまの生まれたこの時も、十分に考えられるということです。それはそのご家族にとって、どんなに大きく、どんなに辛く、悲しいことだったか?ということと、見方を変えれば、赤ちゃんが無事に生まれるということは、その命がいつ失われるか分からないということと、絶えず向き合わされていたということでもあります。更には、そういう中で、イエスさまは、神さまによって、おとめマリアに身ごもり、そして生まれたという出来事は、神さまによって命が与えられたとは受け取れない方々にとっては、ヨセフとマリアが結婚をしていないのに、身ごもったということは神さまの決まりに背いたことであり、そして生まれた赤ちゃんは、ヨセフとマリアの子ではなく、別の誰かとの子どもという目で見られていくのです。そういう中での8日経って割礼の日を迎えられたということは、いのちの危機を乗り越えたということだけではなくて、ダビデ家に連なる家族、マリアの家族からも白眼視され続けていくということを、受けながらの8日間でもあるのです。でもそんな中でイエスさまは、8日間という日々を、精一杯生きているのです。その結果、この通過儀礼が無事に行われるということは、ヨセフ、マリアにとって、この赤ちゃんが生きていられた!という事実を、改めて受け取る時でもあるのです。

 

そしてその日、その赤ちゃんの名前を、イエスと名付けました。それは、この子が「胎内に宿る前」、すなわち影も形もなかった時から、神さまに示されていた名前を付けたということと同時に、神さまは影も形もなかったその時に、その名を呼び、その命の存在を神さまはもうすでに知っておられ、共におられ、受け入れておられるということ、でもあるのです。ということは、イエスさまに限らず、全ての人に、神さまは、まだ影も形もなかった、その誕生以前から、その子を覚えていて下さり、神さまから名前が与えられ、その名前で、神さまは呼んでいて下さったということではないでしょうか?私たちにも、名前がありますよね。ご両親を含めて、ご家族がいろいろな思いと願いを込めてつけられた名前を、生まれてこの方呼ばれ続けていますよね。○○ちゃん、○○くん、と呼ばれることで、自分が、そういう名前なんだということが分かりますし、その名前が、まさに自分自身となっていきます。つまり、神さまから名前が付けられているということは、確かにその子を、また私を神さまが覚えていてくださるということだけではなくて、その子が、その子となっていく中で、また私が私となっていく中で、神さまに愛されているわたしであるということが、わたしにも与えられていくことでもあるのです。

 

誕生日を覚えて礼拝の中で祈りをささげます。その祈りの時にいつも思い出されるのは、教会学校で良く歌った讃美歌です。「生まれる前から神さまに愛されてきた友達の誕生日です。おめでとう。」その讃美を讃美するたびに、誕生を迎えた一人のその方は、この世に誕生する以前から、まだ影も形もなかった時から、神さまに愛されてきたその人であるということ、生まれる前から、神さまは、その一人の人をもうすでに大切にされているということ、を感謝しながらお祝いする時でもあります。同時に、その背後にあることは、イエスさまの当時も含めて、無事に生まれるということがかなわなかった、その一人一人をも、その胎内に宿る前から、影も形もなかった時から、その存在が見える形では何もなかった時から、神さまは、もう既にちゃんと覚えていて下さること、そして神さまが名前を付けて、呼んで下さっているということ、まさに誰もが「生まれる前から神さまに愛されてきた!」という約束でもあるのです。

 

そこから「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」という約束に繋がるのです。つまり、ヨセフ、マリアにとっては、生まれた男の子イエスさまが、初めて生まれる男子であるだけではなくて、その子も含めて、皆、神さまが傍に呼び寄せてくださっているからです。聖別するというのは、他の男の子とは別に、何か特別扱いしようとしているというのではなくて、そもそもその子も含めて、神さまが招いて、神さまの側に呼び寄せて、招き入れて下さっているという事実が、生まれる前からもうすでにあるからです。だからこそ、招き入れ、名付けてくださった神さまのもとに連れて行くのです。

 

それは、イエスさまに出会えた、シメオンとアンナもそうです。シメオンも、アンナにも神さまは、生まれる前から、名前を呼んで下さり、呼び寄せて下さっていました。そしてそれぞれに年を重ねていました。シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」すなわち、救い主メシアに、生きている間に必ず出会うことが出来るという約束を、信じ続けていました。そしてその信頼は、神さまから与えられていた希望の約束と、そしてその約束を与えて下さる神さまのそばに、いつもいたということから来るものなのです。

 

それが礼拝そのものです。礼拝とは、私たちがささげる以前から、神さまがわたしたちを傍に招き、呼び寄せ、名前を付けて、名前を呼んで招いて下さったからこそ、その招きに、招かれて礼拝をお捧げ出来るのです。そして礼拝には、もう一つの意味があります。それは英語で礼拝のことをサービスと言いますが、これは、神さまがサービスしてくださる。神さまが仕え、神さまが支えて、神さまが強めてくださり、力を与えて下さるということなのです。

 

その中心におられるのが、救い主イエスさまです。シメオンはそのイエスさまに出会えた時、(25)幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」イエスさまをこの腕に抱くことが出来た時の喜び、イエスさまが私の救い主だと分かった時の喜びはいかばかりだったことでしょうか?もういつ召されてもいいという思いと、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」イエスさまを見たとあるのではなくて、あなたの救いを見たのです。イエスさまに出会った時、神さまの救いを見ることができたのです。

 

そしてイエスさまに出会えたシメオンが、その生涯の最後のところで、何を語り指し示していったのかというと、マリアに対する言葉にそれがあります。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」とあるこの言葉は、イエスさまがこれから、神さまとしての働きをする中で、神さまの言葉、神さまの真実を語り示していく中での人々の反応です。その反応には、倒したり、立ち上がらせたりするとのことですが、それは神さまの真実が語られ示された時、イスラエルの人々だけではなく、全ての人々が、その真実に倒れること、そして起き上がることが両方あるということなのです。なぜかというと、神さまの真実というのは、ただ単に優しいというだけではなくて、真実ですから、それに触れた時、自分自身の本当の姿、真実の姿もあらわにされるからです。真実の姿があらわされると、それを自分自身も見ることになるからです。その時私たち自身が、それとどう向き合うかと言うことにも繋がります。

 

ジャンコクトーという人がいました。彼がイエスさまを信じて、洗礼を受けようとした時、カトリックの洗礼でしたが、ある神父のところに出かけて行きました。そこでいろいろと、自分の欠点や、悪行の数々をいろいろと並べたてました。自分にはこんな欠点がある、こんな悪行がある、こんな悪いところがあると、いろいろと並びたてながら、こう尋ねました。「自分はこれからどうすればいいんだ?どうしていけばいいんだ?」するとその神父はにっこり笑ってこう答えました。「そのままでいいじゃないですか。あなたは神さまを問題にしていないかもしれないけど、神さまはあなたを問題にしています。問題にしているから、問題だから、そのままのあなたを放っておけないので、あなたを正しく導かれるのです。」その通り、神さまの真実に触れた時、そのままの私があらわにされます。じゃあそのままのあなたでいいのかというと、そのままであることは確かですが、同時にその、そのままを、神さまは問題にされているから、倒したり、壊していかれるのです。でもそれで終わりではなくて、そこから立ちあがらせてくださるのです。それがイエスさまの十字架の死と復活そのものが与えるものなのです。

 

それはシメオンが続けてマリアに語る「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」この内容もそうです。母親として、血のつながりはなくとも、その息子であるイエスさまが受けている苦しみを目の当たりにすること、母親として子供の苦しみに、どうすることもできずにいたこと、見守るしかなかった、手も足も出せなかった、そのことを語りますが、この時シメオンは、祝福しながら母親に語る時、確かに本当に起こること、真実ではあっても、大変なエネルギーがいったのではないでしょうか?真実を語るということは、生半可なことではできません。本当のことを語ること、真実を語ることは、語る側も大変なエネルギーがいります。そうであっても、シメオンが語ったのは、イエスさまに出会い、イエスさまを腕に抱き、イエスさまに出会えたことで、もういつ召されてもいいという思いが与えられたからこそ、遺されていく、これからの人に、神さまからの真実を語ろうとしたのではないでしょうか?

 

それはただイエスさまが、どんな苦しみを受けるか、それによってマリアがどんな苦しみを受けるかと言うことで終わりではなくて、イエスさまが十字架の上で苦しまれ、十字架の死で終わりではなくて、十字架の死と復活、主が生きておられるということに、この目で見、出会うことを通して、十字架の死と復活は、神さまの赦しそのものだということ、その赦しがあるからこそ、倒れてもまた立ち上がることができる、また起き上がることができるということを、シメオンは「御覧なさい」と語っていくのです。そしてその言葉、神さまの赦しそのものであるイエスさまに出会えることを、マリアだけではなく、共に神殿を離れず、祈り続けていた84歳のアンナにも与えられていくのです。そしてイエスさまに出会えたことを通して、イエスさまのことを語り示していくことへと導かれるのです。

 

ある教会の教会員である、一人の女性が天に召されました。その出来事がこう紹介されていました。

その方は79歳でした。彼女は、教会で黙々と奉仕をされる方でした。年連を感じさせないほど良く動き、近くに住むもっと年輩の教会員を車で送り迎えすることもされる方でした。そして牧師を支えてくれる人でした。しかし亡くなる4カ月ほど前、癌が発見され、病院に入院されました。すでに末期でした。私たちは彼女の癒しのために祈りました。教会でも祈りました。入院した彼女は、病状が刻一刻と悪化し、衰えていくというのに、弱音の一つもはきませんでした。そして年が明けて、亡くなる9日前に、私たち夫婦で彼女をお見舞いにいった時のことです。彼女は眠っていました。小さな声で呼びかけて起こすと、目を開けられました。そしてこのようにおっしゃったのです。‥‥「イエスさま、最高です!」「信じます!」「イエスさまの懐にいます」「感謝です」「イエスさま!イエスさま!」‥‥ということを繰り返しおっしゃったのです。私たちは、彼女がイエスさまのふところにいるのだと思いました。胸が熱くなりました。そして1週間後の1月17日の土曜日、昼食を食べた私は、なぜか急に「今彼女の所に行かなくては」との強い思いが与えられたのです。それで病院に行きました。すると、彼女のお嫁さんがうろたえている様子でした。何かと思ったら、たった今容態が急変したとのことでした。いよいよその時が来たようでした。私は驚いて、ベッドの脇に行きました。酸素マスクを付けておられました。私は彼女の手を握り、名前を呼びました。かすかに反応がありました。そして私たち夫婦は、讃美歌461番、「主われを愛す」という讃美歌を讃美しました。私たちが歌い始めると、彼女はかすかに唇を動かしました。いっしょに歌っているようでした。そしてこの讃美歌の3節目を歌っている時に、彼女は息を引き取ったのでした。その時一粒の涙が彼女の目から流れました。それは私たちに「さようなら」を告げたように思われました。その3節にある歌詞は「御国のかどを、開きて我を、招きたまえり、勇みてのぼらん」です。「イエスさまが、天国の門を開いて、招いてくださっている。喜び勇んで上って行こう」という歌詞です!彼女は、はっきりと、自分は天国のイエスさまの所に上っていくと、周りの家族に証しし、指し示していきました。・・・彼女の病は癒されませんでした。しかし彼女の究極の願い、イエスさまに出会えるという祈りはきかれたのでした。

 

シメオンもアンナも、イエスさまと出会えた時、ずっと信じて、願い、祈って来た約束がかなえられたのでした。人生の最後の最後のところで、神さまの赦しそのものであるイエスさまに出会えた時、これまでいろいろな場面で、倒されたり、起き上がらせられたりということを、繰り返してきたことでしょう。でもそういういろいろ辛かったことも含めて、イエスさまに出会えた時、それらのものが全て喜びと感謝、そして賛美に変えられていくのです。その生き方へと新しくしてくださるお方が、イエスさまです。

説教要旨(1月1日)