2022年11月6日 永眠者記念礼拝 説教要旨

山あり谷あり(ルカ3:1~14)

松田聖一牧師

時々、新聞広告などに、「自分史を書いてみませんか?」というタイトルを目にすることがあります。自分史というのは、自分の歴史ですね。その歴史の中には、幼稚園に入った時のこと、小学校、中学校、高校など、そして社会人になってからのこと、そしてどんな家庭環境にあったか?どんな出会いがあったか・・・その出会いの中で、大きく影響を与えた出会いなど、自分自身のこれまでを振り返りながら、自分なりにまとめていくものです。いろんな編集方法がありますが、凝った方は、写真を散りばめながら、レイアウトも本当に奇麗にされ、本になっていくこともあります。そういう本にまとめるかどうかは別にして、私たちにも自分の歴史がありますね。それは見方を変えれば、生きて来た年数分の人生を背負ってきたとも言えます。例えば、7歳であれば、7年の人生を背負っています。置かれた家庭環境の中で、その子なりにいろいろな関係の中で生きて来たし、うれしかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、傷ついたことなど、その7年の中で、いろいろ受けてきています。そういう意味で、どなたの人生にも、いろいろなことが詰まっていますし、その人生という歴史の中で、刻まれ、紡いでこられた出来事が詰まっています。そこには長短はありません。その人自身母の胎内に生を受けたその時からの、その人にしかない歴史があります。その人生の歴史の中で、先に召された方々も含めて、神さまの言葉である聖書に出会い、神さまに出会っています。具体的には、その方が教会に導かれ、そこで讃美歌に触れ、聖書の言葉に触れて行くという出来事が、その歴史の中で起こるのです。それはおぎゃあと生まれてからだけではなくて、母の胎に命が与えられた、その時からもう始まっています。なぜでしょうか?それは、一人のその人に、神さまが命を与えて下さっているからです。言い換えれば、神さまは命が与えられたその人に、もうすでに神さまの方から出会ってくださっているからです。そういう神さまだから、その神さまに、人生のどこかで気づき、出会っていくのです。

 

そういう出会いは、3章1節2節に書かれています皇帝ティベリウスにも、総督ピラトにも、ヘロデにも、フィリポ、リサニア、アンナス、カイアファ、ザカリア、ヨハネにおいても同じです。皇帝になってからとか、総督になってからとか、領主、大祭司になってから、初めて出会ってくださっているのではなくて、そういう役職、立場になる前から、命が母の胎に与えられた時にはもう既に、神さまの方から出会ってくださっているのです。そういう意味で、皇帝の治世の15年とか、名前に続いて「であったとき」といった、その歴史が記されているその意味は、それぞれの、その人に出会ってくださっていた神さまが歴史という時と、その人の人生という歴史の中で、語り掛けられるということでもあるんです。

 

では、その人生という歴史の中で、いつも平穏無事であったかという、そんなことはないです。ピラトも然り、ヘロデも然り、フィリポ、そしてヨハネといった人々の、それぞれの人生の中で、本当にいろいろがありました。揺さぶられる時、権力と権力とがぶつかり合う中で翻弄され、迷い、悩み、時には打ちひしがれる時がありました。荒れ野と言う厳しさを味わったことも含めて、権力の側であれ、その逆の立場であれ、歩んでこられたその道は、その人にとっては決してまっすぐであったのではないです。曲がっている道、山があり、谷があった、でこぼこしていた、別の意味では道が悪く、岩場のような道でした。

 

その道を、その人の目的とするところとの関係から見れば、行こうとしていた目的、こうありたいと願った目的に向かっていく道は、紆余曲折、遠回りの道であったとも言えるでしょう。最短の道じゃないです。

 

でも本音は、最短で、スムーズに目的地に向かうことができたら、無駄と思うことはないですよね。しかし現実には、自分から見て目的地に向かって、まっすぐに伸びた道ではなくて、山がそこにあります。山があれば、その山を登らなければなりません。その登山道は、ふもとから頂上にまっすぐ伸びた道ではありませんね。登山道は、出来るだけ歩きやすいように整備されてはいますが、場所によっては、馬の背と呼ばれる、道の両側が崖になっているような非常に危ない道もありますね。どちらも崖下ですから、落ちたらとんでもないことになる道もあります。そういう道を通る時には、時間もかかるし、体力も使いますし、大変です。でも、そういう道を上りながら、頂上を目指していきます。谷に繋がる道も、下りの道ですから、これもまた大変ですね。登りも大変ですが、下りも大変です。岩場といったでこぼこの道であれば、その岩を乗り越えて行かなければなりません。山登りの途中で岩場に出くわした時には、その岩を乗り越えるために、本当に何時間もかかる場合もあります。まっすぐじゃないということは、そういうことです。そんな曲がりくねって、山があり、谷があり、でこぼこの道がありというところを、通りたいと思ったわけではないけれども、通らざるを得なかった、その道を、私たちも辿ってきています。

 

それはヨハネのもとにやってきた群衆も、徴税人も、そして兵士も、同じです。彼らも、いろんなところを通らされてきたのではないでしょうか?ではなぜ、その方々がヨハネのもとにやって来たのかというと、「悔い改めに相応しい実を結べ」という言葉に、反応したからです。具体的には、自分たち自身が、どんな実を結んできたか?どんな結果を残したのか?ということに向き合わされたからではないでしょうか?

 

どんな実を結んだのか?どんな結果を残したのか?と問われたら、私たちも何か答えようとしますね。これをやってきました、こんな業績があります。貢献もしました~こんなことを学び、技術を取得してきました~といった、実績と評価できるものであれば、あれこれと言えますが、そういうことばかりかというと、言えないこと、言うということに躊躇することもあります。なぜならば、結果を残せなかったこともありますし、とんでもない実、うまくいかなかったという実、うまくいかなかったという結果が、その実、結果の中にあるからではないでしょうか?

 

窓際のトットちゃんという本があります。黒柳徹子さんがかつて通っていたトモエ学園という小学校でのことなどが、紹介されています。校長先生との出会いは印象的です。何でも話してごらん!何でもいいよ~とトットちゃんに言われた時、トットちゃんは、本当に話すことがなくなるほどに、聞いて下さったこと、お弁当も、海のものと山のものを入れてくるようにというアドバイス、思い思いに絵を床に書いていい、と言われて、子どもたちがのびのびと床に、絵を描く場面と、それを奇麗に消していく大変さなどなど、いろんな思い出が詰まった学校が、東京大空襲で、次々と落ちて来る焼夷弾で、燃えて学校を見ながら、校長先生は、「今度はどんな学校を作ろうか…」と言われたことでした。私財も含めて、人生そのものをそこに投じて行った学校がなくなっていく・・・それはどんなにか辛いことだったのではないかと思います。しかし、「今度はどんな学校を作ろうか…」と願った校長先生も、再建できないままに亡くなられたのでした。

 

せっかく建てた学校がなくなっていく、心血を注いだものの結果が、そこにあったのに、その結果が何もかもなくなってしまうこと、それはその方だけのことではありません。人生の悲哀を味わいし尽くしたという出来事が、私たちにも少なからずあります。そういう結果を残せなかった、実を結べなかったということは、群集にとっては、一枚も下着を持たないものに分けてやれなかったこと、徴税人にとっては、規定以上のものを取り立ててしまったこと、兵士にとっては、人々から「金をゆすり取ったり、だまし取ったり」といったことがあったということではないでしょうか?そんな中で、この兵士たちに言われた「金をゆすりとったり、だまし取ったり」というのは、詳しく見れば、人々を恐喝し、人々から奪うということです。それは何事もない、平時というよりも、戦場で、あるいは占領したその場所で、兵士という立場であったために、そういう行為をしてしまったということがあるのではないでしょうか?兵士たちにとっては、上層部の命令に絶対服従です。自分自身を出すことは許されません。自分の考えは封殺され、自分の意見を持つことも、許されません。そんなことをしたら反逆の罪に問われます。しかし、そうであったからと言って、人々から金をゆすり取るということは、ゆるされる行為ではありません。上官から、奪い取れと言われたから、その通りに、その住民から奪い取らなければならなかったとは言え、あるいは命令系統が瓦解した時でも、欲望の赴くままに、略奪行為をしていったことは、正当化できるものではありません。どんなに生きるために、理性を失った状態であったとしても、こんな行為は許されません。しかし兵士になってしまったら、そういう理性が奪われ、自分を失った状態になり、何も考えられず、そういう行動に走ってしまったということも、彼ら自身が背負ってきたことだったのではないでしょうか?だから彼らの「このわたしたちはどうすればよいのですか」には、私たちが何をすればよいかと言う問いと、さらには、私たちは何者であるかという問いが1つになって、どうすればよいのですかという問いになっているのです。私たちは何者であるかと言う問いは、つまりは、自分自身を見失っていたのです。何をしていいのか、何をしているのかが、分からなくなっていたのです。

 

そういう兵士たちも含めて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉は、痛い言葉です。過去のことについて、もうどうすることもできないことであっても、背負ってきたことに対して、いろいろな思いになります。それが神さまの怒りを受けることとして、彼らが感じ受け取っていたために、「神の怒りを免れる」ということを、願っていたし、そのために、責め続けていた自分自身に、怒りを免れることを、誰かから言ってほしいという思いもあったと言えます。けれども、神さまの怒りを免れるということを、「だれが教えたのか」言い換えれば「だれが証明し、誰がその指示を与えたのか」という意味から言えることは、誰かから、免れるよと言ってほしかったということはその通りでも、神さまの怒りを免れるということは、人が決められることではありませんし、人が言えることでもありません。だからヨハネは「だれが教えたのか」誰もそんなことはできないということを、悔い改めにふさわしい実を結べと併せて、語ったことを通して、

 

「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いが出て来るのです。結果を残せなかった、実を結べなかった、できなかった・・どうすることもできなかった・・という悔いを残しながらも、それでもどうすればよいのですかという、問いがあり続けるのではないでしょうか?どうすればよいのですか?という問いは、答えが出せないからこそ出て来る問いです。神さまは、そういうことを、ご存じでいらっしゃるのです。どうすればよいのですか?と問いながら、自分では答えが出せない、答えを持ち得ないことを、知っていて下さり、答えを出せないでいる問いを、問いのまま受け取って下さるお方でもあるのです。そして、答えを出せず、どうすればよいのですかと、悩み続けている私たちに向けても、一つの約束を与えてくださるのです。

 

それが「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」いろいろなこと、山あり谷ありの歩みであったとしても、そこから、神さまに向かう時、目の前には山が立ちはだかっていても、谷があっても、山も丘も、でこぼこの道も、確かに山であり、丘であり、谷であるけれども、それらのことが低くされ、平らにされていくということなのです。ではそのためには、どうしたらすればよいのでしょうか?

 

それは与えられた山であれば、その山に登ること、谷であれば、その谷を下ることです。丘であれば、その丘に向かっていくことを通して、与えられた山、谷、丘などに向かって辿った道を、登り、あるいは下ったそのところから見ることを通して、見えて来るものがあるからです。

 

日本百名山という番組があります。その山に、登山家の方が登っていくわけですが、登山道を登るその時も、カメラは追っていきます。いろいろな道があります。急な坂道もあれば、岩がごつごつしているところもあります。危険なところもあります。そこを登られる方は、は~は~と息を切らしながら、登っていきます。そうして登って行くうちに、やっと頂上に辿り着いて、やれやれとその頂上から、周りを見渡すと、眼下に見える山々や、雄大な景色が目に飛び込んできます。それまで登って来た道が、どんなに険しい道でも、その険しい道の具体的な険しさは、見えなくなっていて、頂上から眺めるふもとの様子、周りの山々が奇麗に見えます。山に登る前、ふもとにいる時には、見えなかった、山の向こう側が見え、視野がぱっと広がります。もちろん山あり谷ありの道は確かにありました。そこを登り降りしてきました。でも山の上に立った時、山あり谷ありは、確かに、その通りにあったけれども、それらをはるかに臨むとき、山あり谷あり、丘、でこぼこの道といった、自分にとって大きな障害だったものが見えなくなり、それ以上に、もっと素晴らしい景色が目に入ってくるのではないでしょうか?

 

私たちに与えられた人生は、本当に山あり谷ありです。でこぼこの人生、であったかもしれませんし、それのみしか見ることがなかったかもしれません。けれども、その人生のその時々に与えられたことに向かって、登り、あるいは下っていくその道を通らされていく時、その道は、決して平らではなかったし、岩場でごつごつとして、本当に苦労の連続、悲しみにくれるばかりの道であったかもしれません。けれども、その道をたどり、神さまが与えて下さる人生の山に登った時、そこから見る、これまでの道は、あんなに激しく、厳しかったのに、それは実際に、その通りなのに、登った山から見た時、それらはまっすぐになっています。谷は確かに谷だけども、その谷も、谷を下っていた時とは、また全く別の景色となっています。

 

神さまの救いを仰ぎ見る、この約束は、山あり谷ありの、いろいろな障害が確かに大きく立ちはだかっていても、それらに向かっていくとき、その先に、その山や谷、丘、でこぼこの道、といった大きな障害が確かにあっても、それを越えた神さまの救いがあるということを、見えるようにしてくださる約束です。今はそれが見えないかもしれません。しかし、神さまが与えて下さっている、その道に向かって歩んでいく時、山あり谷ありの歩みの中に、神さまの救いがあったということを見ることができるように、その時を与えてくださいます。

説教要旨(11月6日)