2022年10月23日礼拝 説教要旨

思い悩むな(ルカ12:13~31)

松田聖一牧師

 

遺産の意味は何かというと、次のように定義がなされています。亡くなった後に残した、土地、家屋とか預貯金といった財産と、亡くなられた当時、持っていた所有権、例えばゴルフやホテルといった、どこかの会員権と言ったもの、他にもいろいろな権利がそれにあたります。そしてもう一つあります。それは、債権債務も含む全財産です。つまり、借金、返さなければならないお金も、遺産に含まれるということになります。ということから1つのトピックとして、今空き家対策と言ったことが言われていますが、なぜ空き家のままに放置されるかというと、その家は確かに財産であり、土地も不動産、動かない財産ではあっても、価値が下がってしまい、買い手がつかず、住む人もなくということで、困っている現状が含まれます。家はそこに人が住まなくなると、荒れていきます。壊れていきます。そういうどうすることもできなくなった家も含めた不動産を、不動産とは言わずに、負動産、マイナスの財産と評されることもあります。でもそういったものも、それを持っておられたどなたかがなくなられた時には、遺産になるんです。そういう遺産の類になりますと、それを受け継ぐ人は、大変になります。後始末をしなければなりません。それこそ空き家対策を、受け継いだ人がすることになりますので、今は、遺産の相続を放棄するということも選択肢としてあるわけです。そうなると家であれば、ほったらかしにされ、ますます荒れてしまいます。マンションでもそういう出来事が起きています。マンションになると複合住宅ですから、これまたいろいろややこしいことが出てきます。

 

つまり遺産というのは、いいことばかりでは必ずしもないということ、遺産があることで、それをめぐるいろいろなこともありますし、実際に遺産を受け継いだ方が、大変な思いをされるということもあります。もちろんいいこともありますが、そういういろいろなことを、遺産自身が持っているのかというと、遺産は何も思っていません。財産はうんともすんとも言いませんし、思いません。言ったり、いろいろ思ったりするのは、遺産をめぐる人にあります。そういう遺産を巡って、群集の1人の人には、自分の兄弟と内輪争いがあったのです。というのは、イエスさまに「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言われた中にある「分けてくれるように」とは、ただ単になにがしかの遺産があって、それを単純に分けるという意味だけではなくて、この分けるように、の分けるには、分裂するとか、内輪争いをするという意味もあるからです。ということは、この人は、自分の兄弟と内輪争いがあり、自分の取り分が配分されないといったことがあったのです。

 

そこでイエスさまに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と願うのですが、それに対するイエスさまの答えは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と、この人の願いには応えようとせずに、だれがあなたがたの裁判官や調停人にしたのかと問い返されるのです。そして「一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」とおっしゃられる意味は、遺産という財産を分けるということを、判断する裁判官や、遺産をほしい、いやお前には遺産はやらない、やりたくないという、兄弟間の問題の中に入って、調停する調停人のやられることと同じことはしない、という意思表示以上に、遺産をめぐる内輪争いの、根っこにあるものを、イエスさまは、この人にも気づかせようとしているのです。それは何かというと、貪欲であり、欲望、です。そしてその貪欲は、遺産そのものにあるというよりも、それをめぐっての人の思いに、欲望、貪欲があるということと、それをめぐって、人が誤解してしまうことがあるということ、具体的には、財産があれば、命がどうにでもなるということ、命を延ばすことも、命を支えることもできるという錯覚に陥ってしまうことを、イエスさまは指摘されるのです。

 

そのことを、イエスさまは、話された譬えで、ある金持ちが、自分の畑が豊作だったことで、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思いめぐらしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きなものを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」金持ちは、倉を壊して、もっと大きなものを建てること、そこに穀物や財産をみなしまおうと、自分に言ってやるのだと、自分に向かって言う言葉が続きますが、ある金持ちがもっと大きなものを建てようとしたのは、豊作だったからです。豊作だったから、もっと大きなものを建てようと思い、それを言うのですが、そもそも豊作になったのは、この人が金持ちだったからではないです。豊作になること、豊かに実り、収穫を得られたのは、この人が多くの財産を持っていたからではなくて、その年、天候にも恵まれたか、環境が良かったといった、いろいろな好条件があって、豊かに収穫が得られたわけです。だから、豊作とは、与えられたものです。ところが、この金持ちは、作物をしまっておく場所がないと思いめぐらしている時、その作物を、「私の作物」私の、私の、と受け取って、私の作物をしまっておく場所がないと言い、豊作だった作物を、私の作物として、かき集める場所を作ろうとし、そこに寄せ、かき集めようとしているんです。見方を変えれば、彼の思いが向かうところは、しまっておくその場所がない、どこにかき集めたらいいかということに、です。そして自分の思いの中で、いろいろ描いていくのです。しかし、思いめぐらしている時、まだ作物をしまっておく場所ができたわけではありません。建てたわけではないのに、「倉を壊して、もっと大きいものをたてて、そこに穀物や財産をみなしま」うことを、思いの中で描いているだけです。そのために何か動き始めているわけではありません。でもこの金持ちの頭の中では、わたしの作物をかき集めることも、倉を壊して、もっと大きいのをたてることもできたということも、もう出来上がっているのです。そして「さあ、これから先何年も生きて行くだけのたくわえができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、こう自分に言ってやるのだ、と言う時、まだ言った通りには、何もできていないのに、頭の中で描いているだけなのに、もうすでに彼にとっては、与えられた豊かに収穫できる作物は、私の作物となり、それらをかき集めようとする欲望は、まだ何も実現できていないのに、自分の命がこれから先何年も生きて行くだけのたくわえ、保証ができたと思い込ませてしまうということになるのです。それをイエスさまは、「お前が用意した物」とおっしゃられ、欲望によって、自分の命が保証できたと思い込むことも、それは「取り上げられる」ものだということ、言い換えれば、自分で保証できるものではなくて、それは神さまのものであり、神さまから与えられるものだということに、気づかせようとしておられるのです。

 

しかし、取り上げられることにのみ目が行ってしまうことがあるのではないでしょうか?神さまが与え、神さまから与えられるものだということに、気づけない時、取り上げられるということに目が行きます。そうなると、取られないようにしようとして、これはわたしのものという思いが強くなっていくのではないでしょうか?

 

一人暮らしの方がおられました。体調の変化と年齢と共に、自分がどこにいるか、何をしているかが分からなくなっていきました。その中でいつもおっしゃっていたことは、お金がない!ということでした。お金が取られた!誰かが取っていった!ということを繰り返されるようになりました。ある時、お金がないと言われるので、複数でお尋ねした時、寒かったのではんてんを羽織っておられましたが、そのポケットに、小さく、小さく、折りたたみすぎるほどに畳んでいたお金がいろいろありました。でもご本は、お金がない、お金がない!と言い続けておられて、結局は一人で家で召されたのでした。でも一人暮らしをしなくてもどこかの施設に入ることもできるものを持っておられました。でもご本人はお金がない、ないない!と言い続けて、そのあったお金は、そのために使われることがありませんでした。その時、お金って、何のためにあるのだろう?と思ったことでした。人の生活を豊かにし、生活が支えられて、環境も良くなるためにあるのに、手放すことが出来なかったときには、そのお金はいくらあっても、何の役にもたたないということを思いました。その事柄を通して、その方がどうこうではなくて、人間の本当の姿を見る思いでした。

 

わたしの作物、わたしの財産と、自分の手に握りしめ続けて行くと、せっかくある財産も何の役にもたたないのです。命を支えるものにならないのです。それでも、私たちは、自分たちの生活設計、これからのこと、将来設計をたてていこうとしていますし、現実にはそういうことが必要になります。物をどうしたらいいか?財産をどうするか?誰のものになるか?とか、維持管理をどうするか?とか、いろいろ考えています。そういうことを、考えてはいけないとか、ただぼーとしていたらそれでいいんだ、ということをイエスさまはおっしゃっているのではないのです。そういうことよりも、むしろ、豊かに収穫できた作物は、私のものであり、私の命も、私のもので、私の思い通りになれると思っていること、それにつなげて、財産があることイコール、寿命を延ばせるということとを一緒にしてしまっていることに、イエスさまは、それらのものは、「いったいだれのものになるのか」と問われるのです。だれのものになるのでしょう?財産も、作物も、壊そうと思っている倉も、もっと大きなものも、自分に言ってやるのだという、これから先何年の生きて行くだけのたくわえも、食べたり飲んだりできる食料も、楽しむことも、一体だれのものになるのか?と問いながら、あなたの命は、あなたのものでありながらも、あなたのものじゃないということ、取り上げられるものであるということを、イエスさまはおっしゃられるのです。

 

では取り上げられるだけなのかというと、そうじゃないです。与えて下さるお方、与え続けてくださる神さまから、与えられるものです。そのことをイエスさまは、「烏のことを考えてみなさい。」すなわち、烏のことを注意深く観察しなさい、真剣に注意し、集中して見なさい、とおっしゃられるのです。丁度バードウオッチングで注意深く鳥を観察することと似ています。では烏はどんな生活スタイルでしょうか?「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉ももたない。」です。

 

そういうスタイルは、食べる物を得るために、農夫が畑に種を蒔くような仕方で、種も蒔かないし、収穫のためにも刈り入れもしないし、刈り入れた収穫を納める納屋も、貯蔵する倉も持たないということです。それはそうですね。烏(カラス)はあちこち飛び回っています。教会の周りにもやってきます。時々十字架の上にチョンと腰を掛けて、いろいろと十字架の上に落っことしていきます。十字架が時々汚れますが、屋根に上るわけにもいきません。ところがカラスは、そんなことは全く気にせずに、本当に自由にやっています。食べることも、本当に賢いと言いますか、収穫の時期を本当によく見ていますね。トウモロコシなど、いよいよ収穫できると思っていた矢先に、きれいに食べてしまいますね。ナンテンの実もそうです。ああ~あともう少しで食べられる、後1日2日で収穫できる~と思っていた矢先、見事に食べられています。先を越されてしまって、もうそこにはないです。見事です。烏はちゃんと見ていますね。いつが一番いいかということを分かっています。そういう意味で、烏は何もしていないようであっても、飛び回りながら、ちゃんと見ています。でもとられた方は、あともう少しで収穫だったのに~と少々悔しい思いもいたしますが、そういう烏のことを、イエスさまは、考えて見なさいとおっしゃられるのは、何もしないで、ぼーっとするのではなくて、与えられた命を以て、飛び回りながら、その日、その日に必要な食べる物を得るために、動き回っている姿を注意深く観察しながら、その姿を考えることを通して、命を支えるものを、神さまは与えて下さっているということへと目を向けさせようとしておられるのです。そしてその姿は、与えられた命を使い、翼を使って、その日その日必要なものを、与えて下さる神さまからの食べ物を、受け取る姿でもあります。

 

だから「神は烏を養って下さる」ということですし、それは烏だけではなくて、野原の花もそうです。その花も生きるために、いろんなことをしています。でもいろんなことをしていながらも、季節の移り変わりと、気温の変化などに、自らを任せて、種を落とし、来年に向かって、新しい命を紡ぎ、つないでいきます。

 

そんな烏のことや、野原の花をどのように育つかを考えてみなさいとおっしゃりながら、あなたがたは鳥(とり)よりもどれほど価値があるか!どれほどに価値があり、どれほどに素晴らしいかを、認めて下さっている神さまが、烏や野原の花に与えて下さっていること以上に、良くしてくださるはずだということなのです。

 

なぜならば、命は神さまのものであり、命を与えるのも、取り上げられるのも、神さまです。わたしが握りしめるものではないです。神さまがその決定権をもっておられるのだから、こちらがどうこうし、どう計画しても、それ以上のことを、与えてくださる神さまは、与えられたこの命を、神さまのご計画の中で、使おうとしておられるのです。

 

そのために毎日、必要なものを与え続けてくださっています。命を支え、保証するために、そしてその命を使うことができるように、与え続けてくださっています。

 

だからこそ「思い悩むな」なんです。思い悩むな!必要なものはちゃんと与えるから、思い悩むなとイエスさまは、いつも語り続けてくださっています。そしてそれは言葉だけではなくて、本当に必要なものを、その通りに与え続けてくださっています。しかしそのことを、疑ってしまうこと、考えすぎてしまうこと、思いめぐらしすぎてしまって、そこから抜け出せなくなってしまうこともあるでしょう。それでますます他のこと、余計なことまで、あるいは、未来のことまであれこれ詮索して、疑ってかかって、それで思い悩んでしまうこともあるかもしれません。しかし、そうであっても、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じ」だからこそ、必要なものを、与えてくださいます。

 

ジョン・ベイリーという方の書かれた「朝の祈り 夜の祈り」という祈りの本があります。朝、夜の祈りが日ごとに書かれています。

 

その中にこんな祈りの言葉がありました。「造り主また贖い主なる神よ、あなたの祝福がともなわなければ、わたしは今日歩み出すことができません。朝の活気と新鮮さや、健康な肉体や、現在の仕事の好調なことにあざむかれて、自分の力により頼むあやまちに陥ることがありませんように、これらの良い賜物は、すべてあなたから与えられたものです。それらを与えるのも、取り去るのも、あなたの自由です。わたしが手の中に握っているべきものではなく、ただ信頼をもってとらえるものです。これらの賜物は、ただそれを与えてくださるあなたに絶えずより頼むときにのみ、ただしく受けるにふさわしいのです。」

 

神さまは必要なものをちゃんと与えてくださいます。それは手の中に握っているべきものではなくて、信頼をもってとらえ、受け取るものです。思い悩むなも、そうです。信頼をもって神さまから受け取るものです。

説教要旨(10月23日)