2022年8月21日礼拝 説教要旨
どこに連れて行くのか(マルコ10:13~16)
松田聖一牧師
生まれた赤ちゃんを、神さまの前に献げるという献児式というものがあります。それは生まれたばかりの、小さな赤ちゃんを、そのご両親、あるいはその子供を両親に代わって育てられる方が、その子が、神さまに守られて、成長できるようにと祈りながら、神さまの子どもとして、神さまにその子を、委ね、神さまの恵みに触れ、祝福を受ける式です。でもそれはそのご両親といった方々の、子どもでなくなるという意味ではなくて、その子供は、神さまから両親に、その家族に与えられた子どもであるということを、改めて受け取る機会となります。これまで一回だけですが、してほしいということで、その機会が与えられた時のことです。ご両親から、赤ちゃんが、手渡され、その赤ちゃんを抱っこさせていただいた時、この赤ちゃんから伝わるぬくもりを感じながら、この子も、神さまから与えられた子どもだ!神さまから両親を通して、与えられた命だと思いました。そしてこの子が神さまに愛され、守られるようにということを、そこに集われた皆さんと共に、祈りました。その祝福の祈りの後、またご家族に、その赤ちゃんをお返ししたことでした。
それは、イエスさまにふれていただくために、人々が連れて来たという行為もそうです。その行為はイエスさまに「触れていただくために」ということですが、触れていただくためにと言う意味には、触る、つかむということと共に、命を生みだす、命を支えるということに繋がる意味も、この言葉にはあります。つまり、連れて来た人々は、この子どもが、神さまであるイエスさまの命に触れ、神さまによって、命が生み出され、命が支えられ、生きる者とされるために、連れてきたということなのです。イエスさまに触れることで、生きる者とされること、それは聖書の御言葉に触れるということにも通じると思います。聖書の言葉、イエスさまの言葉に触れた時、心が不思議と、す~と落ち着くということや、心が温かくなるということも、そういうことかもしれません。
そういう意味で、人々は、この子どもに、イエスさまの命に触れてほしい!恵みを受けてほしい!そして幸せに、豊かに生きていってほしいから、イエスさまのもとに連れて来たのではないでしょうか?
その人々を、弟子たちは「叱った」すなわち、厳しく叱り、どなりつけたのです。どういうことでしょうか?イエスさまが叱ったわけでは全くないのに、どうして、イエスさまの弟子たちが、人々を叱ったのでしょうか?イエスさまのところに連れて来たことが、どうして、イエスさまの弟子に、叱られることになるのでしょうか?
そもそもイエスさまのところに連れて来たのは、イエスさまに触れていただくためと、祝福を受けるためです。祝福を受けるためですから、それ自体、叱られる対象ではないです。でも弟子たちがこの人々を叱ったというのは、どういうことかというと、叱った弟子たちの中に、人々を叱らなければという理由があるからです。
というのは、当時、子どもを祝福するために、連れて行くところは、祭司のところでした。それが習慣であり、伝統となっていました。弟子たちにも、子どもを連れて行く、行く先は、イエスさまではなくて、祭司のところだという意識がありました。それは弟子たち自身がそう思っていたということと、そうなるのは、弟子たちだけでなく、周り全体もそうだったからです。そうなると、祭司のところに連れて行くことに倣えで、周りと同じようにしないと・・という同調圧力とも言いますが、そういう意識になっていきます。それから、はみ出すような行為はなかなかできませんし、その行為を目の当たりにしても、何も言わなかったら、自分たちも、周りとは違う行為を認めていると見なされていきます。
戦後77年を経て、戦争の経験をされた方々が、どんどんいらっしゃらなくなっている中で、もう10年以上前ですが、カトリック教会の方で、戦前からずっと信仰を守っておられた方との出会いがありました。ご家族が皆さん教会に行っておられ、カトリックの神父先生を支える教会員でいらっしゃいました。ある時、教会生活の中で、戦時中のことをお話くださったことがありました。
「その頃は、キリスト教に対して敵の宗教とも言われていましたから、こう言われたことがあったのですよ~国賊の娘!ひどいことを言われました。国賊の娘ですよ~本当に傷つきました。でも戦後になって、私にそのことを言った方が、ぱったり道で会った時、何て言われたと思います?お嬢さまって言ったんですよ~信じられます~かたや国賊の娘と呼ばれのが、戦後になって、ガラッと変わると、お嬢さまになる、一体どういうことなんでしょうね~どう思われます?」道端でそんなやり取りがありました。
国賊云々と言うということは、そう言わなければならない周りからの圧力がありましたし、それとは違う行動はできなかったと言えます。だから周りと合わせるしかなかったのでしょう。でもそういう周りを押さえつけていたものが、なくなった途端、お嬢さまに変わるのです。そういう意味で、人と言うのは、時と場合によって、本当に変わります。その変わり方は、周りに倣えの変わり方が多いのではないでしょうか?むしろ、反対に周りはどうあっても、周りに流されずにいくというのは、なかなか難しいです。なぜなら、周りと同じにならないといけないのではないか?周りとは違うことは、なかなかできない、と感じることが、しばしばあるからです。それが弟子たちや、イエスさまのところに、子供たちを連れて来た人々の置かれたところであったでしょう。
だからこそ、人々が、祭司ではなく、イエスさまのところに連れて行くという行為を目の当たりにしたとき、弟子たちは、人々を、イエスさまではなく、祭司たちのところに向かうように、正そうとしたのではないでしょうか?そのために人々を叱り、祭司の所に行くということから、変えようとすることを妨げようとするのではないでしょうか?
イエスさまは、「これを」見て、憤られ、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」「子供たちを、わたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と、叱って当たり前を、変えるように、イエスさまは弟子たちに憤られながら、また非常に悲しみながら祭司のところではなくて、イエスさまのところに来させなさいと、導かれるのです。
そのために「子供のように、神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃられるのです。この、受け入れるという意味は、迎えいれるということと、「忍耐する」とか、「我慢する」と言う意味もあります。つまり、受け入れようとする時、自分の気持ち、自分の意に反することであっても、受け入れようとすることに向かって、一歩踏み出さなければ、受け入れるということにはつながらないからではないでしょうか?見方を変えれば、受け入れようとすればするほど、そこに忍耐や、我慢というものが生じてくるとも言えるでしょう。
その通り、弟子たちにとっては、この子どもを、祭司に祝福してもらうのではなくて、イエスさまに祝福していただく、ということを受け入れることは、忍耐であり、我慢になります。
それでも、イエスさまは、時には、自分の思いではない方向へと向かわせられ、変えたくないことを、変えようとされることで、弟子たちに、また私たちにも、忍耐と、我慢することを与えられることがあるのです。でもそれは、我慢ですから、思うようにすすまないと感じることですし、その内容によっては、我慢は大変です。
それはスポーツも含めての、基礎練習と似ています。テニス、卓球などでしたら、始めた最初は、ボールを打たせてくれません。じゃあ何をするかというと、素振りです。ボールを実際に打つのではなくて、ひたすら、素振りをし続けます。野球もそうですね。バットを振り続けます。それは、打つときに、正しいフォームで打てるようになるためです。打つときの姿勢が、固まるまで、体が覚えるまで、ひたすら素振りです。でも素振りをし続けることは、大変です。楽な練習ではありません。我慢が必要です。でもそれが嫌だからといって、楽な練習に変えたいから、楽な練習ばかりしていたら、正しいフォームにはなっていきません。その正しいフォームを体が覚えていないと、打ちたい方向にボールを飛ばすことが、なかなかできません。でも、それは分かっているつもりでも、楽をしたいというのも、一方にありますね。だからひたすらに基礎練習に向かうということを、受け入れようとすることには、我慢ということもついてきます。
そういう意味で、イエスさまがおっしゃられたことを、受け入れようとするとき、我慢も伴ってきます。その我慢を受け入れられないこともあります。しかし、受け入れること、変えることが必要だとイエスさまが、判断され、それを与えられる時、我慢だけ、大変という事だけで終わりません。我慢と感じることでも、それを受け入れようとすること、そして、自分にとっての当然、当たり前を、変えるということが必要な時には、変えるということを、受け入れられる勇気、そして受け入れることへと一歩踏み出す勇気も、イエスさまはちゃんと与えてくださいます。それが「子供を抱き上げ、手を置いて祝福された」という、祝福の場に共にあずかる出会いに繋がるのです。
アメリカの神学者である、ラインホルト・ニーバーという方に、こんな祈りがあります。
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
私たちにとって、変えることができることと、変えることができないことがあります。変えようとしても、どうにもならないこともあります。変えようか、どうしようかという迷いもあります。イエスさまは、何もかもを全部変えなさいとか、変えられないものがあるのは、ダメだとか、そういうあれか、これかをおっしゃっている以上に、変えることが必要な時には、変えることが出来るように、変える勇気を与えてくださり、変えることが出来ない時には、それを受け容れられるように、冷静さと、それらを見分ける知恵を与えてくださいます。
今日の説教題は「どこに連れて行くのか」です。その意味は、連れて行くところが、祭司か、イエスさまか、ということだけではなくて、人々も、弟子たちも、これまで当然とされてきたことを、変えた方がいいかどうかを、見分ける知恵と、変える勇気を与えて下さるということが、与えられている中で、「どこへ連れて行くのか」という問いかけがあります。
その問いかけの中で、素直になれることもあるし、そうでないこともあります。迷うこともあります。それは大人も、子どもも変わりません。そういうなかなか素直にはなれないことが多くても、そういう私だということを、受け入れていけるように、イエスさまは、わたしのところに来させなさいと導いてくださいます。その中で、イエスさまは「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」という、祝福の場面に、共に居合わせることの祝福へと繋がっていくのです。