2022年6月19日礼拝 説教要旨
(※当日は講壇交換で喬木教会での説教原稿です)
癒すために(マルコ1:29~39)
松田聖一牧師
入院された方のところに良くお訪ねする機会がありました。今は、入院されても、そこにいくことが、なかなか叶いませんが、よくお訪ねしたところは、ICUという集中治療室でした。入院しましたという知らせは突然来ますから、取るものもとりあえずという感じになります。その時、予定していたことを後回しにして、とにかく病院に向かいます。でも訪ねていく病院は、行ったことがない病院がほとんどです。ある時には夜、うかがいました。丁度イースターの前、聖金曜日というイエスさまが十字架にかかられたその苦しみを覚える礼拝の後のことです。初めてのところでしたから、道を間違えながらも、ようやくたどり着きますと、夜9時を過ぎていたと思います。とっくに面会時間が過ぎてしまっていました。そうなりますと病室に入れるかどうか分かりません。行けるかどうか~という思いもありましたが、どういうわけかするする~と中に入れていただいて、守衛さんからも何も言われずに病室に辿り着きました。不思議な感覚がありました。次から次へと門が開かれていく・・・障害があっても、それが次々となくなっていくという感覚でした。病室におられたその方も、急に訪ねてきた私にびっくりされた様子でしたが、時間も時間でしたから、教会学校で用いた聖書の御言葉が記された豆カードを置いてさっと失礼しました。後から伺うと、わたしが来たということが分からなかったそうですが、時間にして5秒くらいだったと思います。
病気になられ、病の床におられる方のところにお訪ねする時は、急にやってきます。その時、たどり着けるかとか、中に入れてもらえるかどうかといったことを考えるよりも、どうなるかは分からなくても、ダメもとでも、とにかく行ってみることだと受け止めています。開かれる時には、必ず、開かれます。ちゃんとたどり着けます。
イエスさま、と弟子たち一行が、シモンとアンデレの家に行ったという出来事も、それとよく似ています。行こうとした家は、もちろん病院ではありませんが、家の中に入れてもらえるかどうかが大変微妙だからです。というのは、シモンとアンデレの家に行ったのは、シモンのしゅうとめが「熱を出して寝ていた」すなわちシモンの奥さんのお母さんが、火のような熱を出して、床にあり、命の危険すらあった、そのことをイエスさまに人々が知らせてくれたので、イエスさまは、すぐに会堂を出てシモンたちも含めて、一行を連れてその家に出かけていきます。しかしこの時、シモンは、イエスさまに従うと決めて、漁師の仕事も、結婚していた、奥さんも、そしてそのお母さんも捨ててイエスさまに従っているのです。他の弟子たちも含めて、何もかもを捨てて、イエスさまに従うというのは、本当に大きな出来事ですし、捨てられた側の、シモンの奥さんも、お母さんも、そしてアンデレや、ヤコブ、ヨハネの父親も含めた家族、また雇い人たちも、大変な出来事の中で、大きく揺さぶられています。そんな捨てた、捨てられたという関係の中に、イエスさまは、もう一度出かけて行くのです。
捨てた、捨てられた、という出来事。それは、埋めようのない大変な出来事だと思います。
新聞の連載記事で、「語りつぐ戦争」と題して、いろいろな方のことが紹介されていましたが、お一人の方の投稿として、生前、母から聞いた話としてこんなことをおっしゃっていました。
1946(昭和21)年6月13日、私は旧満州(中国東北部)で産声をあげました。日本人は戦争に負けたため、引き揚げねばなりませんでした。母が入院していた病院におふれが出ました。「生まれた赤ちゃんは皆、前の川に捨てなさい」と。他の赤ちゃんは風呂敷にくるまれて川に捨てられていたそうです。
母もずいぶん悩んでいたとき、ソ連の捕虜になった父が夢枕に現れ「その子はオレの形見として日本に連れて帰ってくれ」と言ったそうです。母の決心はその時に決まりました。9歳、6歳、そして生後40日の私を連れての引き揚げです。船の中で、私が泣くので、他の人たちから「うるさい!! 海に捨ててしまえ!!」とののしられたといいます。その時、1人の男性が母をかばってくれました。その人の名前の一文字をとって、「弘子」と名付けたと言っていました。
着の身着のままで引き揚げた母の苦労は、5年後に栄養失調で帰ってきた父を見るまで続きました。舞鶴港に迎えに行った母に、父は「その黒い小さい子供は誰の子か?」と言ったそうです。母が妊娠しているのを知らないまま捕虜になったからでした。笑い話として伝わっています。
捨てた出来事だけを見れば、捨てた、捨てられたということです。でもそうせざるを得なかった、そうさせた、いろいろなことが背後にはあります。それはシモンもそうですし、シモンの奥さんや、そのお母さんも、捨てた、捨てられたという渦中にいます。彼女たちにとって、自分たちを捨てて出て行ったこと、仕事も何もかも放り出していったことは、確かにその通りです。そういうことの中で、自分が捨てた家族のところにもう一度行くということは、大変なことではないでしょうか?お互いに、何も思わないはずはありません。
そういうことであっても、イエスさまはそこに、すぐに、シモンも、アンデレも、そしてヤコブもヨハネも一緒に会堂から出かけていくのです。そして(31)「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去」っただけでなくて、シモンのしゅうとめは「一同をもてなした」彼女はイエスさまにも、シモンにも、アンデレにも、ヤコブにも、ヨハネにも、世話をし給仕し、もてなしたのは、シモンのしゅうとめが、イエスさまも、シモンたち一行も受け入れ、赦すことができたからこそ、もてなすことができたのではないでしょうか?彼らを赦せなかったら、もてなすどころか、顔も合わせなくないし、目も合わせたくないと言えるでしょう。一緒に食べようなんて考えもしません。でもイエスさまが彼女のところに、シモンたちと一緒にすぐに出掛けていき、彼女を癒された時、彼女を癒されただけでなく、赦せなかった彼女を赦せるようにと、癒して下さったのです。
その癒しはシモンのしゅうとめだけではなくて、病人や、悪霊に取りつかれた者たち、町中の人々もそうです。なぜならば、彼らも、病気になったことで、悪霊に取りつかれたことで、家族から捨てられ、それまであった関係から捨てられ、切り離されてしまったからです。そしてその捨てられ、捨てた、切られ、切ったその彼らをも、ただ単に病気を癒すといったことだけではなくて、壊れた関係をも、イエスさまは、癒して下さるのです。そのために、人々を受け入れていく、その場所として、癒されたシモンのしゅうとめの家が用いられていくのです。だからシモンのしゅうとめの家の戸口に、町中の人々が集まり、その家で、イエスさまは、もてなしを受けながら、同時に人々を癒していかれるのです。
そういう意味で、赦すことができた、赦せるようになったというのは、関係の回復だけではなく、今度は、病気などで苦しんでいる人々、関係を切られ、失った周りの人々も、もてなす人へと変えられていくということです。それはシモンのしゅうとめだけではありません。イエスさまに癒された人たちは、今度は自分たちが、周りの人のために出かけていく人へと変えられていくのです。
それが弟子たちから離れて出ていき、祈っておられたイエスさまに向かって、(36)シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
今度はシモンとその仲間たちが、人々のために動き出すのです。シモンの家から出かけていき、人々みんながあなたを捜していますと、イエスさまを追い求めていく人になり、人々の求めを、自分のこととして受け取り、自分の事として行動に移していくのです。
人にやらせてはいないです。イエスさまに癒していただき、赦しをいただいた彼らは、イエスさまを捜している人々に、イエスさまのところに行けというのではなくて、彼らの代わりに、手足となって、イエスさまに向かって動き出した、その時、(38)イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
それはイエスさまを捜しているみんなを、放っておこうということではなくて、癒され、赦しをいただいた人々が、イエスさまを捜している、みんなのために出かけていくことを、イエスさまは信じておられるのではないでしょうか?それは、シモンのしゅうとめの家に集まった人々を、イエスさまが直接一人一人に関わって癒すということから、イエスさまに癒され、赦された人々をして、イエスさまの働きをやってくれる!と信じているからこそ、まだ行けていない「近くのほかの町や村」に向かおうとするのです。その時イエスさまは、イエスさまお一人ではなくて、わたしたちは一緒に行こうじゃないか!と声をかけ、そこでもわたしは宣教する、そのためにわたしは出て来たのだと、次々と出かけていくということを、イエスさまは、弟子たちにやらせるのではなくて、一緒に行こうじゃないかと出かけようとされるのです。その時イエスさまは先頭に立ってくださるんです。弟子たちの前に、弟子たちに先立って、そして私たちの先に立って、「近くのほかの町や村へ行こう」一緒にいこうじゃないか!と、あなたの近くにいるでしょう?癒される必要がある方が。赦しを必要としている方が!遠くに、ではなくて、近くにいるでしょう?そこに一緒にいこうじゃないか!と導いてくださるのです。
一人のご婦人の方がおられました。彼女は生まれて間もない子どもさんを、1週間の間に、お2人もなくされました。悲しみと失意のどん底にあったとき、道の傍でなされていたキリスト教の伝道集会、当時は天幕伝道と言っていましたが、そこに導かれました。昭和8年のことです。子どもを失った彼女は、ひたすら寄りすがるものを求めていました。藁をもすがる思いで、その集会に行かれた時、出会った御言葉がありました。「凡て重荷を負うて、苦労している者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」イエスさまのもとに来なさい!わたしがあなたがたを休ませ、憩わせ、癒して下さるというその聖書の言葉に出会った時、このお方しかない!ここしかない!とイエスさまを信じていかれました。信じてというよりも、しがみつくようなことでした。そんな彼女が同じ町に建てられた教会で、いろいろな働きをされていきました。ある時、一人の女の子と一緒に、教会の草取りに出かけることがありました。しばしばその女の子を連れて、草取りです。その時に、いつもやかんにお水を入れ、そのお水に砂糖を入れて持っていきました。そして二人はそのやかんから砂糖水をいただくことでしたが、この方が、その女の子に言っていた言葉がありました。「ご奉仕にいくで~」夏の暑い日も、「ご奉仕にいくで~」と教会に一緒に出掛けました。また良くおっしゃっていた言葉がもう一つありました。それは「愛は出かけて行く」でした。イエスさまに赦され、癒されたことを通して、じっとはしていられなくなりました。何かをさせていただきたい!人の為にも何か必要なことがあれば・・と出かけて行く姿がありました。
「愛は出かけて行く」イエスさまに出会い、イエスさまに癒され、赦された時、理屈を越えて、人は何かのために、誰かのために、出かけて行く人となっていきます。無理やりにそうするのではなくて、また、させられるのではなくて、そうせずにはおれない生き方となっていきます。
それはイエスさまが癒して、赦してくださったからです。このお方の癒し、赦しは人を変えていきます。その時、この町にわたしの民は大勢いるということ、この町には神さまから命を与えられた、神さまの民が大勢いるということに気づかされていくのです。