2022年6月12日礼拝 説教要旨

洗礼の恵み(マルコ1:9~11)

松田聖一牧師

ヒューマンヒストリーという番組があります。その内容は、一人のゲストの両親、そしてその両親の、それぞれの家族に光を当てて、そのゲストの父親、母親が誰の両親のもとに生まれたか?そしてその両親の両親、その方にとっては、それぞれの祖父母、さらには曽祖父母、高祖父母にまでさかのぼって、どのようにそれぞれの家族の一人一人が生を受け、高祖父母、曾祖父母、祖父母、そして両親が、どこでどのようにして出会っていくかということをドキュメンタリ―的にまとめて、それを一人のゲストがじ~っと見ていくものです。そうしますと、これまで知らなかったことが次々と出てきますし、番組の担当者があれこれと調べつくしていく中で、親戚がだんだんと分かってきます。そしてその親戚の方々も、かの有名なゲストの親戚だったんだ~ということでまたびっくりされたり、喜びも悲しみもいろいろあったということを、改めて知ることになります。ある時の番組では、僕に妹がいたということが初めて分かり、そこで再会する場面などもありました。お互いにびっくりどころか、そんなことがあったんだ~とか、僕に妹がいたんだ~僕は今まで一人っ子だと思っていたのに、そうじゃなかったんだ~ということでうれし泣きをされる方もありました。そのように、一人の人には、その一人の人だけの人生があるのではなくて、その両親、祖父母といった方々にさかのぼる、いろいろな人の人生が様々に、あります。うれしいこと、悲しいこと、などいろいろです。名前を付けて、それを役所に届けるために出かけてくれた人が、どんな名前だったか忘れてしまったというような、今では考えられないようなことも分かってきます。そういういろいろなことがあっても、一人の人の人生には、両親を始め、家族のいろいろがあるということです。

 

そういう意味で、イエスさまとヨハネ、バプテスマ洗礼者ヨハネ、この二人の人生を見る時にも、波乱にとんだ、悲喜こもごもの人生があります。イエスさまには神さまによってみごもった母マリア、そして父ヨセフがいました。母マリアは13歳、14歳くらいと言われています。中学生でお母さんになる知らせを受けた時、父になるヨセフはマリアとひそかに離縁しようとするのです。イエスさまと、マリアやヨセフとは血のつながりはもちろんありませんが、イエスさまは、生まれる前に、父親から切り離されそうになるのです。父親がいるはずなのに、父親がいなくなりかけるのです。でも神さまがヨセフにマリアを迎え入れなさいと言われたことで、ヨセフはマリアを妻として受け入れ、イエスさまはベツレヘムという町で生まれますが、父親ヨセフは割合と短命であり、イエスさまは、ヨセフ亡き後、母と、弟たち兄弟たちを養うためにも、父親のしていた大工の仕事をしていくのです。

 

一方で、ヨハネはどうだったかというと、父ザカリア、母エリザベトに神さまが与えて下さったという知らせを受けた時、ザカリアは年をとりすぎているといったことから、ヨハネが生まれるということを、受け入れることができませんでした。そのために声が出なくなりましたが、この子の名はヨハネと表した時、再び声が出るようになりました。つまりヨハネもイエスさまと同じく、父親となるザカリアから、最初受け入れてもらえなかったという人生を背負っているのです。そしてすでに高齢になっていた両親と早くに別れます。ですから、荒れ野に現れたこの時、ヨハネには両親はもう召されていない状態であったということですし、生活や、仕事の面でも、町で何かしらの生計を立てられていたのではなくて、誰も近づかない場所、誰もが恐れる場所であった荒れ野に現れての生活です。食べる物も、いなごと野蜜を食べていたということですから、食べる物を得るために、何か仕事をしていたというスタイルではないと言えるでしょうし、ある意味では世間から隔離され、隔絶され、みんなと一緒のところで、生活するということはなかったということです。理由については具体的には分かりませんが、人々がたくさんいる中に、自分から出ていくという生き方とはなっていなかった、と言えます。

 

そんなそれぞれの背景を背負って、それぞれに生きていた二人が、再び出会うのが、ヨルダン川という川において、であり、しかもイエスさまがヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられたという出会いとなっているのです。

 

その時用いられるのが、水です。水が用いられて、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられます。ではなぜ水なのか?というと、水自身に何か特別な力があるかというと、確かに水はわたしたちの命にはなくてはならないものです。すべての生きものに、水は必要です。まさに命の水です。

 

山登りをされる方が、山登りをされる時のこととしてこんなことをおっしゃっていました。「山に登るときにはね~いろいろいるけれど、水をちゃんと確保できるようにしておかないといけないね~だから僕は、登山道で湧き水の場所を確認して、山を登りながら、湧き水をその時々に、飲みます。でも山頂近くなると湧き水もなくなるので、持参したボトルに、その湧き水を入れて、それで最後山頂に向かうんです~。」ふもとから水を持っていったら重たくて大変なので、そうしているんだということでしたが、そういう水の確保は、山登りだけのことではなくて、いつでも、どこであっても生きるためには、水が毎日必要です。そういういのちの水という面と、もう一つ、水には清めるという役割も持っているのです。というのは、荒れ野を旅していたイスラエルの民の中で、皮膚病にかかってしまう方々が出た時、その方々は一時期隔離されますが、その時にも水が用いられます。着ていた服を水洗いしたりしましたし、他にも荒れ野の旅の時だけではなくて、ナアマンという将軍が皮膚病にかかった時、ヨルダン川の水で7度洗いなさいと言われて、その通りに洗ったら、癒されたという出来事もあります。そういう意味で、水は命の水であり、同時に癒して、清めてくれるものです。

 

その水がここではヨルダン川の水ということになりますが、ヨルダン川という川の水質はどうかというと、一言で言えば、他の川の方がずっときれいです。それは丁度、木曽川と天竜川と比べることと似ていますね。天竜川も奇麗ですが、木曽川はもっと奇麗です。ですから、皮膚病になってしまわれた先ほどのナアマンは、ヨルダン川で7度洗えと言われたとき、ヨルダン川よりも、こっちの川の方が奇麗だからと言って、最初は嫌だと言うのです。

 

そのヨルダン川でイエスさまは「ヨハネから洗礼を受けられた」時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」イエスさまは、洗礼をヨハネから受け、水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにイエスさまに降ってくるのをご覧になり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」あなたに満足だ、あなたを好ましい、願わしいと思うという声が、聞こえたのです。この声が聞こえたという言葉を詳しく見ると、声があったという意味です。つまり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、この時初めてぼこっと出て来たというよりも、もともとその声があって、そのあった声が、この時あったということですから、「あなたはわたしの愛する子・・」という声は最初から存在していて、それが洗礼を受けたイエスさまにあったということですが、

 

この時の状況が具体的に、どうであったかはなかなか分かりにくいです。天が裂けたとか、霊が鳩のように降ってくるとか、想像しにくいです。それはヨルダン川の、その水に、そうさせる何かしら力があるということではなくて、ヨルダン川の水でなくても、どんな水であっても、その水と共に、もうすでにあった天が裂けての声、すなわち神さまの言葉、神さまからの命が与えられ、そしてその神さまの命の言葉、いのちそのものと共にある水を受け取るときに、神さまから、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だ、あなたに満足だ!が、神さまから与えられたということなのです。

 

そしてその声が聞こえた、ということから言えることは、その声を、私に語られた声として、受け取っていくことです。でも、私に語られた声だと、受け取らなかったら、あるいは受け取ろうとしなかったら、それは私に語られ、わたしに、聞こえた声にはなりません。

 

このことは人の話を聞くというときとも似ています。人が何かを自分にしゃべっている時、自分にとって都合のいい内容は聞こえても、自分にとって都合の悪い内容は聞こえないとか、あるいは自分に興味がない内容とか、自分のことしか考えていない時には、人の声がわたしに向かって、語られていても、聞こえてこないことがありますね。ですから、しゃべっているその人がその時思うのは、あの人は聞いていない!聞こうとしていない!となるわけです。

 

神さまがわたしを愛する子としてくださり、わたしの心に適う者としてくださったということを、わたしに語られた声として、聞こえたというのは、その声を受け取れて初めて、声が聞こえたということになるのではないでしょうか?そしてその時、もうすでに、あった、存在していた、わたしは神さまの愛する子どもだということが与えられるのです。神さまの愛する子どもになれた、わたしになれるのです。どんなに年齢を重ねても、神さまの愛する子どもになれるのです。子どもというと、小さな存在ですね。赤ちゃんが一人いたら、皆の注目を集めます。赤ちゃんの声が聞こえたら、そちらに耳を傾けます。その時可愛いと思うからでしょうし、赤ちゃんっていいなと思うからでしょう。その一方で、赤ちゃんは、かわいいだけではなくて、いろいろと手がかかるとも言えます。いつも笑っているだけではなくて、泣く時もあれば、ぐずるときもあります。そういう赤ちゃんの経験は、どなたもお持ちですね。誰もがおぎゃあと生まれ、誰もが笑ったり、泣いたり、ぐずったり、わめいたりということをしてこられたと思います。でもその時、抱っこしてくれた方があり、泣いて泣いてぐずっている時にも、必死で相手をしてくれた方がいました。

 

ということから「あなたはわたしの愛する子」だと言ってくださる神さまにとって、わたしたちは、ニコニコしているだけではなくて、泣いたり、怒ったり、ぐずったりと、本当にいろいろがあって、その時その時に、手をかけ続けるあなたです。そうしてくださる神さまとの関わりがあったんだということを、神さまは、神さまの言葉と結びついた洗礼を通して、与え始めてくださるのです。

 

たといどんな水であっても、誰から受けたかということであっても、神さまからのお恵み、いのちの水、洗い清め、癒す水と共にある、信じて洗礼を受ける者は皆救われるという神さまの約束の言葉と共に、その水があり、その水を通して洗礼を受け取るとき、神さまは本当に、わたしたちを愛する子どもとして、大切にし続けてくださることを受け取るのです。洗礼というのはそういう意味です。

 

その洗礼の恵みが、その洗礼の時、その瞬間だけで終わるのではなくて、そこから始まり、神さまから愛する子どもとされたこと、神さまがわたしを喜んでくださっていることが、ずっと続くのです。

 

ある方が、戦争でお父さんをなくされ、お父さんの顔も知らないでいました。自分にはお父さんがいない~そのことでずいぶんと辛く、悲しい思いをされました。私にはお父さんと呼べる人がいない!でも教会に導かれて、聖書の言葉を通して分かったことがありました。それはわたしには父親がいない、父の顔も覚えていない、けれども、わたしには、父親はいなかったけれども、その代わりに、天の父なるお父様を与えて下さった!お父さん!と呼べる神さまがいらっしゃるということに気づくことが出来たとき、この神さまを信じて、信頼したいと思われ、洗礼をお受けになられました。その時ひと言こうおっしゃられたのでした。「わたしは今までお父さんがいないことをずいぶんと悲しい思いをしました。でも私のお父さんとは会えなくても、わたしには天の父なるお父様と呼べるお父さんがいらっしゃる!私にお父さんができた!」と本当に喜んでおられました。

 

「あなたはわたしの愛する子」天の父なる神さまにとって、あなたはわたしの愛する子どもです。そして神さまの子どもとされた私たちに、神さまが実のお父さんではなくても、それ以上のお父さん、父なる神さまがおられるということを与えてくださるのです。それがイエスさまの洗礼によって、イエスさまにも、そして洗礼をイエスさまに授けたヨハネにも、現わされ、与えられるお恵みです。わたしたちは、神さまの愛する子どもとなることができました。

説教要旨(6月12日)