2022年6月5日礼拝説教要旨

わたしたちの言葉で(使徒言行録2:1~11)

 

麦秋と呼ばれる季節があります。麦が色づいて、収穫の季節を迎える季節のことですが、この時期は、大麦の収穫の時期とのことです。その時期について、石川県羽咋郡の営農推進協議会というところからの、ある年のお知らせには、こうありました。大麦収穫作業について、6月1日から6月6日頃となり、平年よりやや早くなる見込みです~そして適期、適した時期に刈り取れるように天候に十分留意しましょうという内容でした。ということは、大麦の収穫の季節、刈り入れの時を、そのお知らせの内容をそのまま当てはめると、丁度今頃ということになります。その大麦の収穫について、またその収穫をお祝いする祭りが、聖書にもちゃんと書いてあります。それが7週の祭りと呼ばれるもので、大麦の収穫を神さまに感謝し、その収穫の初穂、最初に取れた、それも普通の大麦ではなくて、最高の大麦を神さまにささげるのです。その大麦の収穫を感謝する7週の祭りと重なるのが、五旬祭という祭りであり、その祭りを祝い、神さまに感謝するために、地中海世界全体、当時の世界全体から、エルサレムに人々が集まってくるのです。その祭りの日が満了しようとしていた、すなわち祭りの日が終わろうとしていた頃、「(2)突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らの座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」のです。

 

この出来事というのは、超自然現象的なことを言っているのかというと、確かに不思議な出来事です。激しい風が吹いてくるような音が、天から聞こえたとか、イエスさまのご家族と弟子たちが一堂に集まっていた家中に響いたとか、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったというのも、具体的にどんな光景だったのかと尋ねたら、いろいろな答えが返ってくるかと思いますが、今日ここで、どんな目に見える、あるいは感じ取れる現象なのかということを確かめていくということよりも、彼ら一人一人の上に与えられ、とどまった「炎のような舌が分かれ分かれに現れた」とは、何がとどまったのかということから、少しずつその意味を探っていくとき、だんだんに見えてくるものがあります。

 

というのは、舌と訳されたこの言葉のもともとの意味は、言葉です。確かにそうですね。舌というのは、体の器官の一つで、口の中にありますね。舌というのは、いろんな働きがありますが、その1つに、しゃべるという時に、大切な機能を持っています。舌の動かし方一つで、口の動きとも連動しますが、言葉が発せられ、その言葉を伝えていきます。そのとき、舌はその言葉をしゃべるために、極めて複雑な動きをしながらも、それでいて、自然に、自由自在に動いています。だからよくしゃべる表現として、舌が回ると言いますね。そういう意味で、その舌が分かれ分かれに現れという意味も、舌がばらばらになって、分かれ分かれに現れたという意味ではなくて、言葉が分配され、言葉が分け与えられているということなのです。では、その言葉というのは、誰のことばなのかというと、天からの言葉、すなわち神さまの言葉のことです。神さまの言葉がそこに集まっていた一人一人の上に、分け与えられ、分配されるのです。

 

さらに言えば、分かれ分かれに、の意味である分け与える、分配するという言葉は、聖餐式の時に、パン、葡萄酒、ぶどうジュースが分け与えられていただく時の、分け与えるという時に使われる言葉と、同じ言葉が使われているんです。その時イエスさまがこれはわたしの体である・・・と言われる言葉が、それぞれに聖餐を受ける時に共にありますから、それが分け与えられて、受け取るというとき、あなたの罪は赦されています!あなたはもう赦されています!という赦しの宣言と、神さまからの赦しそのものを分け与えられた聖餐を通して、いただくのです。その赦しが、ここにいるイエスさまの家族、弟子たちにも分配され、分け与えられているというのは、イエスさまの家族と弟子たちとの関係にも、赦しが必要であったからです。

 

というのは、この箇所の前のところで、イエスさまの家族とイエスさまの弟子たちが、お互いに赦すことができ、一緒に祈れるようになったことが記されています。イエスさまが十字架に付けられたとき、イエスさまの弟子たちはイエスさまを助けることができませんでしたし、逃げました。復活され、生きておられるというその時にも、固く扉を閉ざしていました。その弟子たちに対して、血のつながりはないけれども、母マリアや、イエスさまには血のつながりはありませんが、兄弟たち、家族にとっての思いは、言葉では言い表すことができないほどのものではなかったでしょうか?なぜならば、イエスさまが十字架に付けられたことは、弟子たちとはまた別の意味で、家族として本当に大変な目に遭ったからです。十字架刑というのは、極悪人が受ける刑罰です。その刑罰を受けたイエスさまの家族に対して、世間の風当たりは、想像をはるかに越えます。そういう中に置かれた家族にとって、弟子たちに対する思いは、イエスさまを守ると言っておきながら、守らなかったことへのいろんな思いであったでしょう。なぜ守ってくれなかったのか?なぜ逃げたのか?なぜ助けようとしなかったのか?家族として、自分の息子を守れなかったことへの怒りと悲しみと、弟子たちへの憤りなどなど、いろんなことがあったことでしょう。生身の人間として、家族として、弟子たちを赦せたのかというと、弟子たちは、赦されるようなことをしていませんから、大変難しいことです。そんな赦せないでいる相手と一緒に祈るなんて、なかなかできません。でも、イエスさまが甦られ、生きておられるという出来事の後、一緒になって祈れる関係になったのは、互いにいろいろあったけれども、赦しが与えられたからこそ、初めて、祈り合えるようになったのではないでしょうか?つまり、聖霊降臨と呼ばれる出来事には、何か超自然的な出来事として、大きくとらえられがちですが、それ以上に、神さまの赦しの言葉、赦しそのものが、彼ら一人一人の上に与えられ、分け与えられたからこそ、4節に繋がるのです。

 

「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」この時、彼らが、何を語ったのかというと、神さまの赦しの言葉です。赦されています、もうあなたの罪は十字架によって赦されましたという赦しです。それが彼らをして、世界中から集まっていた人々に語られたとき、語った彼らにとっては、「ほかの国々の言葉で」詳しく言うと、自分たちの故郷であるガリラヤの言葉と、もう一つの言葉で話し出した時、聞いていた人々は、「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞」いたのです。不思議ですよね。同じこの口から、故郷の言葉と、もう一つの言葉で話し出した時、聞いていた人々は、それぞれ故郷の言葉で、神さまの赦しを聞くことができたのです。

 

故郷の言葉というのはいいですよね。私にとって故郷の言葉というと、三重県の津の言葉です。津の言葉で特徴は、何でも語尾に「に」がつきます。行こうという時、行こに~食べようは、たべよに~いいね~いいに~おいしいは、おいしいに~他にもいろいろありますが、電柱にこう書いてありました。「ほっとするに~一身田」なんにでもに~が付く、そんなふるさとの言葉でしゃべることが出来る時というのは、同じふるさとの言葉でしゃべってくれる相手がいて初めて、しゃべれるように思います。ですから、同じ三重県でも、名張というところでは、言葉が通じませんでした。なおすという意味が分かりませんでした。先生、机をなおすねんて~と子どもたちが言った時に、わたしは机をじろじろと眺めまして、どこが壊れているか・・・と探しておりましたら、壊れたものを修理するという意味ではなくて、片づけるという意味だということを、その時初めて知りました。なおしといて~という時には、片づけておいて~という意味だということでした。それが関西の言葉との出会いであり、方言っていうのはそういうことなんだと、それまで故郷の言葉が、標準語だと信じ切っていた私にとっては、大変大きな出来事でした。そういう意味で、故郷の言葉は、わたしの言葉となっていますし、人生、アイデンティティそのものになっています。そういう私の言葉で、自分の故郷の言葉で、神さまの赦しの言葉を聞くことが出来た時、世界中から集まって来ていた人々はうれしかったのではないでしょうか?わたしたちの言葉、わたしの言葉で、神さまの赦しを聞けたのです。

 

鹿児島弁しか分からないおばあさんが教会に来ておられました。ところが、そこに赴任した牧師は、鹿児島弁がしゃべれませんし、わかりませんでした。そのおばあさんは、鹿児島弁しかしゃべれないし、鹿児島弁しか、分かりませんでした。でも教会に来て、イエスさまを信じたいということで、聖書の学びを始めることになったのですが、標準語を鹿児島弁に通訳してくださる家族の方、娘さんでしたが、その娘さんの通訳で、一緒に聖書の学びを始められるようになりました。牧師先生が神さまはこうだ~とおっしゃられると、娘さんが、それを鹿児島弁に、全部通訳されます。そのおばあさんが、何かを鹿児島弁でおっしゃられると、その鹿児島弁を通訳して、そして牧師先生もようやくわかるという、そんなひと時でした。そういう学びを続けていくうちに、そのおばあさんはイエスさまのこと、イエスさまが赦してくださったことが分かったのです。牧師は標準語しかしゃべれませんでした。通訳が必要でした。一方は標準語、もう一方は鹿児島弁という、まるで通じない言葉のやり取りを通して、神さまの赦し、イエスさまが、わたしの罪のために十字架にかかって下さり、わたしを赦して下さっんだ~ということが、わたしの言葉となって与えられ、わたしは赦されているんだということが、わたしの言葉で分かったのでした。

 

教会に導かれて、神さまの赦しが分かるというのは、神さまの赦しの言葉が分け与えられて、それを私たちは、わたしの言葉として、わたしたちの言葉として与えられ、それを聞いて、受け取っていけるからです。

 

その時、神さまの赦しの言葉で1つになれるんです。同じ趣味とか、同じ主義とか、で1つにまとまるところではなくて、神さまの赦しの言葉で1つになれるのです。そこしかないんですね。

 

インドネシアの教会のことです。お国柄もあるのでしょうか?集まってこられた方々同士、仲がいいばかりじゃなくて、よくケンカもされたとのことでした。喧嘩をしている方々同士は、教会に来る時には、道のこちらとあちらを歩かれるのです。一緒に歩こうとはしないのです。でも教会で礼拝を守り、同じ神さまから赦しの言葉をいただいて、神さまに向かって、讃美し、祈る時には、そこに一緒におれるのです。でも礼拝が終わってから、玄関を一歩出た瞬間から、道のあっちとこっちに分かれる。これは極端なことかもしれませんが、教会というのは、何で1つになれるかというと、神さまの赦しの言葉、それだけです。神さまの言葉です。だから極端なことかもしれないけれども、一歩外にでた瞬間から、道のあっちとこっちであっても、それはそれで、一つの形です。それを無理やりに一つにする必要はありません。もちろんお互いに、助け合ったり、いろいろできることが何よりですが、それが目的ではなくて、神さまの赦しの言葉、神さまの赦しにおいて、1つとなれることなのです。

 

だから、世界中からの人々が、ここで一つになれたのです。この時、集まって来た人々の出身地などが書いてあります。本当にいろいろなところからやって来た方々であり、言葉がありました。同時に、お互いの関係を見る時、仲良くなれるはずがない方々同士でもあります。けれども、神さまの赦しの言葉を、わたしたちの言葉、わたしの言葉で聞いた時、同じ神さまに向かって、神さまの赦しにおいて、1つになれたのです。そしてエルサレムから、それぞれの故郷にまた遣わされていくのです。

 

教会というのは、そういうところでもあるんですね。ここから遣わされていきます。神さまの赦しのもとに、集められて、そして遣わされていきます。出かけていきます。出かけることで、また遣わされたそのところで、神さまの赦しの言葉が、わたしたちの言葉で、分け与えられていきます。わたしたちの言葉を通して、神さまの赦しが広がっていくのです。

説教要旨(6月5日)