2022年4月24日礼拝 説教要旨

信頼(ヨハネ20:19~31)

松田聖一牧師

心に壁が出来てしまう事、あるいは壁を作ってしまうことがあります。その壁は、最初は薄くて、低いものであるかもしれません。しかしそれがだんだんと、いろいろな事情で分厚く、そして高くなってしまうこと、分厚く、高くしてしまうことがあるのではないでしょうか?

 

それが具体的には拒絶することかもしれません。相手を拒絶しているというのは、その相手が自分に壁を作っているというよりも、自分自身の中に、拒絶の壁を作っているからとも言えるでしょう。そしてそれは自分自身に対しても、壁を作ることになり、自分自身を、自分自身の全てではなくても、それは気持ちの上で、あるいは言葉や行動の中でか、様々ですが、どこかで拒絶してしまう何かがあるのではないでしょうか?

 

その理由の1つにあるものが、「恐れ」です。恐れと聞くと、怖いといった、何かに対して抱く感情のように思いますが、そういったことだけではなくて、自分の気持ち、言葉、行動において、これを思ってはいけないのではないか?こんなことを言ってはいけないのではないか?言ってもいいのだろうか?こんなことをしてもいいのだろうか?叱られるんじゃないか?自分が自分でなくなるのではないか?という、自分の気持ちや、言動に対する、自分自身への恐れであるということです。その恐れが、自信をなくしてしまい、思うこと、思ったことを口にすること、こうしたいと思うことを行動に移すということをできなくさせてしまうのです。そのために壁を作ってしまい、その壁の内側に鍵をかけ、壁の向こうの世界との接触を断とうとしてしまうのではないでしょうか?

 

イエスさまの弟子たちは、そういう中にありました。だから「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。そこには理由がありました。「ユダヤ人を恐れて」いたからです。この「ユダヤ人を恐れていた」というのは、弟子たちがユダヤ人を恐れていたということです。自分たちがイエスさまの亡き後、首謀者とされ、捕らえられてしまうのではないか?イエスさまと同じように、処刑されてしまうのではないか?といった恐れです。

 

しかしこの「ユダヤ人を恐れて」という言葉をよく見ると、ユダヤ人を恐れた弟子たちに対して、ユダヤ人は、僕たちは恐ろしいぞといった、言葉はありません。しかも「ユダヤ人を恐れて」とあるこの言葉のもともとの意味は、ユダヤ人たちの恐れの故に、とか、ユダヤ人たちの恐れの為を思ってという意味でもあります。つまり単に弟子たちがユダヤ人たちを恐れていたことは、確かにそうですが、そういう恐れとなる要因には、ユダヤ人たちの、弟子たちへの恐れもあるということです。それはイエスさまを十字架にかけて殺したことに対する弟子たちの、自分たちへの報復を恐れていたのかもしれませんし、あれほどの群衆がイエスさまに従ってきていましたから、その群衆が、今度は弟子たちを立てて、自分たちに手のひらを返して向かってきたら・・・という恐れがあるのではないでしょうか?でもそれは、そういうことになりかねないほどのことを、自分たちがしてしまったからです。弟子たちにとって大切なイエスさまを捕らえ、十字架に付けていくという、極悪非道なことをしたからです。

 

そういう意味では、恐れというのは、どちらか一方にあるのではなくて、それぞれの中にあるということです。どちらかが、その相手に対して恐れているのではなくて、自分も恐れているし、相手の中にも恐れがあるのです。そういう中で、弟子たちは、その相手であるユダヤ人たちの恐れのために、ユダヤ人を恐れて、鍵をかけ、壁を作っていたのです。そこにしがみつくしかない状態だったのかもしれません。鍵をかけずに済む方法が分からず、なすすべがなかったからこそ、鍵をかけていたところから、出ることができずに、その場所に閉じこもることしかなかったのでしょう。

 

3世紀から4世紀にかけてカタコンベと呼ばれる、亡くなられた方を葬るために作られた洞窟があります。それが地下の洞窟を指す場所ともなっていきましたが、そのカタコンベで、激しい迫害の中で、イエスさまを信じておられた方々が、礼拝を守り続けていました。激しい迫害の中で、いつ捕らえられ、殺されるかもしれない、いのちの危険と隣り合わせの中で、やっとのことで辿り着いた洞窟で、外との接触を断ち、外から見つからないようにして、礼拝を守り続けていた方々は、真っ暗な中で、お互いに顔が分からないようにしていました。お互いに誰が、ここにきているのか分かりません。それは密告を防ぐためとも言われていますが、でもそんな中で、一緒に神さまを礼拝し続けていた、いやその礼拝にしがみつくしかなかった、そんな礼拝の中で、語られた挨拶の1つに、「あなたがたに平和、平安があるように」というものでした。神さまの平和、平安があるように。それは命がけの挨拶でしたし、場合によっては遺言のようになっていたと思います。というのは、この挨拶を交わしたお互いが、次の礼拝でまた会えるかどうかは分からないからです。明日何かが起こるかもしれない、朝を無事に迎えられるかどうかわからない、今晩、命が失われるかもしれない、今日、あなたがたに平和があるようにと挨拶した、その人はもう二度と会えないかもしれないという緊迫した状況が、迫害そのものにあったからです。

 

それがイエスさまの「あなたがたに平和があるように」から来ているのです。何事もない、平和な時代に与えられた挨拶ではないのです。明日どうなるかわからないような中での挨拶なのです。

 

だからこそ、そこにイエスさまが来てくださり、「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように」と言われたのは、壁を作り、拒絶し、誰とも関わりたくない、巻き込まれたくない、誰とも会いたくない、その壁を壊すためではなくて、いつどうなるかわからない恐れを抱えながら、そうせざるを得なかった弟子たちのために、イエスさまはその壁を乗り越えて、来てくださるのです。そして恐れに満ちていた弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」平和、そして、平安を与えようとされるのです。

 

イエスさまが与えて下さるもの、それは恐れではなく、平和です。平安です。どんなに恐れていても、相手の恐れによって、恐れていたとしても、その恐れをぬぐえないほどの、激しく、厳しい出来事が周囲にあったとしても、そのために壁を作り、そこに隠れ、閉じこもっていたとしても、そうせざるを得なかったとしても、イエスさまは、そこに、来てくださり、恐れではなく、平和を与えようとされるのです。

 

その時、イエスさまが見せたものは、「手と脇腹」です。手と脇腹を見せるということは、その手と脇腹にある、残されている傷を見せたということです。その傷は十字架の上で、人々から受けた傷であり、弟子たちを恐れていたユダヤ人たちが、そして、弟子たち自身が負わせた傷でもあります。その傷を、なぜイエスさまは見せたのでしょうか?それは、こんなに深い傷を、あなたのために、受けたんだとか、傷を負わせたことを責めるためにではありません。こんなに深い傷を受けても、その傷は、傷跡を残しながらも、もう既に、癒された傷となっていることを、イエスさまは見せるためです。十字架の上で、深い、深い傷を負いながら、傷跡を持ちながらも、イエスさまが生きて、閉ざしていた彼らの中に来てくださったのは、誰もが傷を負いながら、その傷跡を残しながら、それでも、癒された傷跡をもちながら、生きているということを示しているのではないでしょうか?

 

つまり、生きているということそのものには、傷があるし、傷跡があるし、癒された傷があるということです。人生いろいろです。そこには喜びもあれば、悲しみもある、傷つけられたこともあり、傷つけたこともあります。その傷跡を残しながら、生きているということなのです。傷跡が痛々しいものもあるでしょう。それが全くない人は誰もいません。傷を負い、傷跡を残しながらも、それでもそれらの傷を背負いながら、残しながら生きている私たちの所に、イエスさまが来て下さるのです。そしてイエスさまは、その主を見て喜ぶ喜びを、癒された傷跡を見せて、与えてくださるのです。

 

イエスさまが甦られ、生きておられるという意味は、傷のない状態ではなくて、受けた傷跡を持ちながら、ということです。しかしその主を見る時、傷跡を見て、その傷跡からいろんなことを振り返るのではなくて、恐れがあっても、閉じこもっていたとしても、そこから主を見て喜ぶ喜びへと変えられていくのです。

 

そしてイエスさまは、その傷跡を見せただけではありません。今度はトマスにはその傷跡に触れるように、脇腹の傷には、「わたしのわき腹に入れなさい」とまでおっしゃられるのです。この時トマスも、他の弟子たちと同じように壁を作っていました。それは同じ弟子たちに対してと、イエスさまに対しても、です。というのは、あなたがたに平和があるようにと言われ、手と脇腹を見せた時、トマスはそこにはいませんでしたから、他の弟子たちからは「私たちは主を見た」と言われても、自分だけは違うところにいると感じたことでしょうし、同じ弟子でありながらも、疎外感を持ったのではないでしょうか?それゆえに壁を作り、イエスさまに対してかたくなに「あの方の手にくぎの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とまで言っていくのです。この内容はトマスが単にかたくなになっていたということ以上に、トマスは、本当に生きておられるということを、見ただけでは納得していないし、本当に生きておられることを、彼は彼なりに確かめ、証明しようとしているのではないでしょうか?それが見るだけではなくて、釘跡に手を入れること、この手を脇腹に入れることです。わがままで言っているのではなくて、トマスは、トマスなりに、確かめようとしているのです。でも同時に壁があるし、壁を作っているのです。だから信じない、決して信じないとまで言っているのです。

 

そんなトマスにもイエスさまは出会ってくださるのです。そして「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とおっしゃってくださる、その内容を見る時、トマスの指をイエスさまの手の傷に当てて、わたしの手を見なさいということは、右手が左手かいずれかに手を当てて、手を見ることになりますし、そうしながら、トマスのもう一つの手を、イエスさまのわき腹の傷跡、槍で刺し貫かれたその傷跡に手を入れるということになります。このことは2つの意味を持ちます。1つは、トマスがそうしなければ、決して私は信じないと言った、その言葉をイエスさまはしっかりと受け取って下さり、トマスを受け入れて下さり、彼の言った通りに、イエスさまが、そうしなさい、とおっしゃってくださっているということと、もう一つは、決して信じないと言っていたトマスが、イエスさまに抱きしめられていく格好になるのです。

 

信じない、決して信じないと言っていたトマスを、信じられないでいたトマスを、イエスさまは、抱きしめようとされたのでした。イエスさまは、信じないと言っていたトマスを、しっかりと抱きしめてくださる、そのことをイエスさまは与えてくださっていたのでした。

 

そこにあるものはなにか?イエスさまのトマスへの信頼です。トマスがイエスさまを信頼していたからではない、信頼できなかったのです。でもそんなトマスを、信頼できなかったときから、信頼してくださっていたのです。

 

ある教会では礼拝後に食事会が毎週行われていました。その食事会にいつもやってくる青年がいました。やってくる時間は、礼拝が終わった後です。終わった後に、ご飯だけ食べにくるんです。それを繰り返していました。でもそうすることで、周りからは、あの子はなんだ~という声、気持ちが挙がりました。でもそんな中で、一人のおばあさんは、この青年のために、いつもそのご飯を取り分けて用意していました。いつもそうしていました。それはこの青年は、今は、ご飯を食べに来るだけかもしれないけれども、それでも教会にやってくるだけでもいい、いつかどこかでイエスさまを信じてくれたらいいと思って、毎回毎回そうしていました。

 

後に、彼はイエスさまを信じて受洗の恵みが与えられました。その時彼は、かつて礼拝後に来てご飯だけ食べに来ていたことに触れ、あの時、礼拝にも出ないでいつもご飯を用意してくれていた、そのことがうれしかった。僕を受け入れてくれていた~それがうれしかったとおっしゃっていました。

 

イエスさまの信頼は、そういうことです。こちらが信頼できないとき、決して信じないと言ってしまうことがあっても、じゃあ、信頼できないから、もうあなたのことを信頼しないと言っているのではなくて、信頼できなくても、信頼できないからこそ、イエスさまの方から信じて、信頼してくださっているのです。そしてその信頼を、何度も何度も繰り返し与えてくださり、何度も何度も信じて、信じて下さるのです。その信頼があるから、イエスさまを信頼できるようになっていくのです。

 

イエスさまを信じるというのは、そういうことです。信頼とは、信頼してくれたから、信頼するのではなくて、相手が信頼していなくても、こちらから信頼し続けていくこと、それをイエスさまは、私たちがこのお方を信頼する前からずっと、何度も何度も、私たちを信頼し続けて下さっているのです。それに対して、その信頼にすぐに応えられないこともあります。決して信じないと言ってしまうこともあります。しかし、そうであっても、イエスさまはわたしたちを、どなたに対しても、信頼し続けておられます。

説教要旨(4月24日)