2022年4月3日礼拝 説教要旨
将来を与えて(マルコ10:32~45)
松田聖一牧師
日本の港にはたくさんの船が入ってきます。小型船からタンカーのような大型船まで様々です。その船が港にはいる時、特にタンカーのような大型船が港まで安全にたどり着けるように、場所によっては必ず水先人という船を港まで導く案内人、パイロットと呼ばれていますが、そういう方の必ず必要なところがあります。大阪湾とか、東京湾、瀬戸内海など、狭い場所に船がひしめき合うところでは必ずこの水先人をつけないといけません。そのパイロットは何をするかというと、船に先立って船で導くことと共に、大型船に乗り込んで船長さんに、ここを通ればいいとか、あそこを通ればいいとか、指示するんです。というのは、ここは浅い海だからとか、深いところだとか、その港周辺がどんな海であるかということを、頭に入れている人だから、こっちにあっちにと指示できます。そうしないと船と船とが衝突したり、港にセンチ単位で接岸できなくなってしまう恐れがあるからです。ですから、この水先人の方々の仕事は、危険と隣り合わせです。緊張を強いられます。タンカーがどこかにぶつかったり、座礁したりすれば大変なことになるからです。ですから、パイロットは恐怖と危険との隣り合わせで必死で案内します。もちろん舵を操る船長さんも怖いし、恐ろしいです。そういう緊張の中、一連の案内が無事に終わり、港に辿り着いた時、パイロットも含めて皆さんが本当にほっとされます。緊張が解かれる時です。
そういう意味で、先頭に立って、行く先を導き、無事に安全にたどり着けるように導く働きというのは、単にこっちだ、あっちだと行く先を指し示せばそれでいいのではなくて、安全に導かなければなりませんから、恐れと怖さとが隣り合わせの働きでもあります。
ですからイエスさまが、エルサレムに向かって上っていく時、「先頭に立って進んで行かれた」と言う時、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたというのも、先頭に立って進んで行かれたイエスさまについて従って行く中で、本当に怖いこと、恐ろしいことがあるからです。何が起こるか分からないという恐れの中で、エルサレムに上っていくのです。
そんな恐れの中にある彼らに追い打ちをかけるようにイエスさまは、「再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』
と言う内容は、イエスさまが、これから権力者に引き渡され、死刑を宣告され、権力者の手から異邦人に引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるという、非人道的な扱いを受けること、人間扱いされない、人としての尊厳も何もかもが剥奪される非道な扱いを、受けるということです。非人道的な、人間扱いされない状態というのは、無法状態であり、何もかもが無茶苦茶です。
今ウクライナで起きていることは祈りに覚えることです。非人道的です。亡くなられた方が、そのままになっているとのことであり、壊された町の様子が報道されています。ただその報道でどうしても伝えられないものがあります。それは臭いです。焦げた臭いなど、すごいと思います。かつての日本でもそうでした。亡くなられた方を飛び越えて逃げなければならなかったという実体験を伺ったこともあります。焼夷弾が落ちてきた様子を昨日のように覚えておられる方からも伺ったことがありました。それは過去の日本のことだけではなくて、ミャンマーなどでも同じことがあります。非人道的です。人として扱われていないんです。むごくてひどいことです。それをイエスさまはこれから受けていかれること、これからイエスさまの身に起こるという、そのことを話された時、(35)ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」この言葉は、わたしたちがあなたに、これから願うこと、これから求めることを、あなたは私たちに必ずして下さいますという意味ですが、何をお願いするのかという、お願いする内容は出てきません。何をイエスさまに願っているのか?彼ら自身の願いの内容をイエスさまには言わないのです。それは彼らが、イエスさまに対して、遠慮しているのか?あるいは下手に出ているような感じもしますが、それに対してイエスさまは「何をしてほしいのか」と問い返されます。
その意味と目的は何かというと、「何をしてほしいのか」にある、あなたがたはあなたがたに、私に何をしてほしいのかと言うことを、彼らの言葉で出せるようにすることです。そのためにイエスさまは「何をしてほしいのか」と問い返され、彼らが願っていること、あなたがたが願っている内容を、黙ったままではなくて、あなたがたの中で、言葉にするために、あなたがたが願っていることを、彼ら自身から答えていくようにイエスさまは、持っていかれるんです。
わたしたちにも、自分の願いがありますよね。してほしいこと、必ず実現してほしいことがあります。それは自分の中の問題や課題が解決されることかもしれません。単純に、自分がなりたいこと、自分にしてほしいことであるかもしれません。そういう願いを持っています。ところが、願いはあるのに、それをオブラートに包んだような言い方、その願いを口に出さずにいれば、自分の言葉にはなっていないし、自分の責任で言っていないことでもあります。となると、自分の言葉に責任を持っていないということに繋がりますし、内容を言わないと何を願っているのかが分かりません。でも内容を言えば、こうしたい!と言う思いが伝わるのと、こうしたい!と願う自分自身のその言葉に、責任も持つことになるのではないでしょうか?そういうことも含めて、言葉にするとき、自分が出てくるのです。こうしたい!こうしてほしい!と願う自分を出せるのです。でもそれを言葉で言えないということになると、本当に自分の願いに言葉を添えていないことになります。
そこからもう一つの視点があります。それは、その願いを持ちながらも、こうしてほしいという願いを抱えながらも、それに言葉を与えて、言葉を添えて出すことができなければ、それは思いを抱えたままになってしまうのではないでしょうか?こうしたい!という願いを抱えながらも、言葉にできないままというのは、苦しいことかもしれません。自分自身が抱え込んでいますから、言葉にしないままだとしんどくなることもあるのではないでしょうか?
いろいろな教会の婦人会の集まりをした時の事でした。礼拝が終わり、それぞれに持ってこられたお弁当を広げて、各グループでおしゃべりしながら、お昼をいただくという時になって、何が起きたかというと、まあ~しゃべる、しゃべる~女性の方々は日常のいろいろなこと、ご家族のことなどいろんなことを思い思いにしゃべっておられました。すごい盛り上がりです。しゃべって、しゃべって、そしていろいろなプログラムが終わって、帰り際に皆さんが、こうおっしゃいました。「ああ~いっぱいしゃべれてよかった~心がすうっとなった~」喜んで帰っていかれました。おしゃべりだけのための会ではもちろんありません。礼拝のお恵み、講演の恵みがあったこともちろんです。それに加えて、お互いに思い思いに結論を出すのではなくて、ああでもない、こうでもないといろいろ言葉にしながら、言える時が与えられたことは何よりでした。
思いがあれば、願いがあれば、それに言葉を与えていくことは必要ですね。心の中で、気持ちの中で、言葉にできずになったままだとしんどいこともあります。
ヤコブとヨハネもそうです。だからこそ、イエスさまは、言葉にできない何かがあることをご存じの上で、「何をしてほしいのか」と問い返してくださるんです。「何をしてほしいのか」それでようやく、やっと自分たちの願い「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」すなわち、イエスさま、あなたの栄光、輝きの中に、わたしたちがイエスさまの右と左に座りましょう。という願いを出せるのです。ただその願いの内容がいいかどうか、その願いが願い通りになるかは別にして、願いがあるのだから、それを言葉にすればいいということです。
しかし内容からすれば、イエスさまがいらっしゃらなくなった後のことを、今まだイエスさまが先頭に立って導いて下さっている中で言う言葉としては、適当ではないかもしれません。でも彼らにとっては、イエスさまがいらっしゃらなくなった後、どうしよう?どうすればいいか?誰が弟子たちをまとめていくのか?という、将来について、を彼らなりに未来を描いて、じゃあどうするか?という具体的なことを考えた結果、私たちがイエスさまの右、左に座って、イエスさまに代わってやりますという願いをかなえてほしいと願うことは、自然なことです。
そして一人ではなくて二人というのも、一人だと心もとないという思いからだったことでしょう。二人いたら、イエスさまから託された働きも、何とかなっていくのではないかと思ったのではないでしょうか?
しかし実際にはどうなったのかというと、イエスさまが捕らえられ、十字架に付けられた時、ヤコブとヨハネはイエスさまの右と左にいることはできませんでした。イエスさまの代わりになることも、弟子たちの代表者となることもできませんでした。ヤコブは逃げてしまい、ヨハネはイエスさまの十字架の前で、イエスさまを見守るしかできませんでした。イエスさまに代わって立つことはできなかった、そういう事実しかありませんでした。では、イエスさまの右と左にいたのは、誰だったのかというと、強盗でした。それがイエスさまの十字架に付けられた時、栄光をお受けになられた時の事実でした。
ヤコブとヨハネは、イエスさまに代わってうちらでやろうと思ったのも事実です。けれども彼らにあった事実は、願ったこと、言ったこととは、全く真逆でした。言った通りには全くできませんでした。自分たちがイエスさまから逃げて、イエスさまの代わりになれなかったという事実しかありませんでした。それをイエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」とおっしゃりながらも、それでもなお彼らはまだ「できます」と言っていくのです。
将来について、自分たちの描いたこと、そのために願ったことができると思っていくのです。本当にできると思っていたと思います。しかし将来というのは未来のこと、あくまでも自分自身の予定です。予定というのは、未定です。自分で予定を立てていても、そうはならないことがあります。でもそうはならなかった事実、出来なかった事実を、その時は知らなかったし、分からなかったけれども、イエスさまは、そんな彼らができもしないことを願っていたにも関わらず、できないし、できなかった、その事実の結果が、十字架の上で神さまとして受けて下さったということなのです。右に左にといったその言葉の責任を、取ることができず、その言葉通りにできなかった、その責任を彼らに負わせる代わりに、イエスさまが受けて責任を取ってくださったのでした。
そんな彼らです。自分の言った言葉通りにできなかったのです。しかしそうであっても、イエスさまは彼らが、「皆に仕える者になり」「すべての人の僕に」なることを、どこまでも信じて下さっていたのでした。人を支配するのではない、権力をふるうのでもない、ただ仕える者になる!そういう弟子になると信じてくださっていた、そうなることを信じて待っていてくださったのです。
鶴瓶の家族に乾杯という番組があります。その中で、鶴瓶さんがあるラーメン屋さんをしておられるお宅を訪ねた時、店の奥におられた寝たきりのおばあさんを訪ねた場面がありました。お店のご主人にぜひおばあさんに会ってほしいと願われて、そのお部屋に訪ねました。90を超えていたおばあさん、もう大感激でうれしいうれしい!とうれしそうにずっと手を握っていました。お互いにはぐし合い、「また来てね~」「また来るわ~」と失礼されたわけですが、それからおばあさんは感激して、鶴さん鶴さんとずっと言っておられました。それから3年後、近くの町に来たのでぜひということで、再びそのラーメン屋さんを訪ねました。そうしたらそのおばあさんが同じ奥の部屋におられるということで、早速訪ねると、認知が進んでおられたとのことでしたが、このおばあさんは、すぐに鶴瓶さんだと分かって、手を握ってまた会えた!と本当に感激しておられました。良かった良かった~とお互いにハグし合い、そして去り際にもまたハグしながら「また来るよ~」に、おばあさんは、こうおっしゃっていました。「待ってるよ~」「待ってるよ~」それから3年後おばあさんは亡くなられましたが、会えたこと、たずねてくれたことを本当に感激され、うれしそうにしていたとのことでした。
「待っているよ~」
救い主は待っておられるという讃美歌があります。
救い主は待っておられる。お迎えしなさい。心を定め今すぐ、主にこたえなさい。今まで主は待たれた、今も主はあなたが、心の戸を開くのを、待っておられる。
その通り、イエスさまはわたしたちが願ったこと、言ったとおりに全然できなくても、これからに期待し、将来を与えて、信頼して待っていて下さいます。将来があること、将来を与えて下さっている意味と目的は、あなたはこれからイエスさまに応えてくれる!イエスさまが言われた通りにしてくれると信じて、その時を待っていて下さるのです。イエスさまはわたしたちを、どこまでも信頼して、信じて待っていてくださるのです。