2022年3月6日 礼拝説教要旨
荒れ野から(マルコ1:12~15)
松田聖一牧師
ある方がこんなことをおっしゃいました。「教会に行かれている方って、偉いですね~毎週叱られるために行っておられるんですね~えらいですね~」それを聞かれた方は何のことやらさっぱり分かりませんでしたので、「えっどういうことですか?」「教会に行かれる方は本当に偉いですね。毎回説教されに行かれるんですから。説教されるということは毎回叱られに行かれているんですよね~」それでようやくわかりました。説教と言う意味が叱られるという意味で、受け取っておられたんですね。教えを説くということ、聖書に書かれていることがどういうことなのかを説かれるのを聞くために、ではなくて、説教されるために、叱られるために教会に行かれているんだ~と受け取っておられたことでした。いろいろ面白いですね。こちらでは当たり前と受け取っていることも、教会に行かれたことのない方にとっては、叱られるために行かれているんだ~というように、こちらがそうだと受け取っていることと、全く反対、真逆なこととして受け取っていることがありますね。しかし、改めてその「叱られるために教会に行っているんですね~」という表現を受け止めていく時、それは全くの見当違いであり、間違いと言い切れるのか?というと、外れてもいないと言えます。
というのは、聖書の言葉を通して、神さまは、私たち自身の姿が明らかにされます。そこには良いこともあればそうでないこともあります。時には厳しい内容も突き付けられることもあるでしょう。生きるか死ぬかという、ギリギリのことも突き付けられることもありますし、それは言葉だけではなくて、私たち自身に対しても、私たちの身の回りにおいても、厳しさを突き付けられ、厳しいところを通らされることもあるからです。
イエスさまが受けられたこととは、そういうギリギリのところです。具体的には「荒れ野」と言うところに、イエスさまが霊によって、送り出されたからです。霊によってというのは、何か得体のしれない存在によってということではなくて、神さまによって送り出されたということですし、送り出された荒れ野にイエスさまは40日間とどまられたということですが、そんな厳しい所である荒れ野は、命が支えられるかどうか、生きていられるかどうか、生きるか死ぬか、という瀬戸際の、ギリギリの所です。
2011年に東日本大震災の直後、原発事故が起こりました。その事故が起きた現場におられた方は多くいらっしゃいました。それは、直接の職員だけではなくて、地元の重機を扱う作業員の方もおられました。その作業員の方々は事故で通れなくなった原発周辺農道路を重機で平らにして、消防車や電源車が通れるようにするための作業を、水素爆発の只中でしていかれました。目の前でボ~ンと爆発した!とか、淡々とおっしゃっていましたが、その時のお気持ちは?と聞かれると、怖いということよりも、何とかしないと~という思いの方が強かったですと、おっしゃっていました。現場から離れたところにいると、爆発したとか、大変な状況だという情報がありますから、遠くから見ている者にとっては、より怖い、恐ろしい!そう感じます。でも現場のその只中にいると、怖いということよりも、目の前の事で必死になりがちです。情報が来ないからです。でもそれは命の危険がないという意味ではなくて、ものすごくあります。生きるか死ぬかという現場です。それが荒れ野というところでもあり、そこにサタン、悪魔からの誘惑を受け、その間野獣と一緒におられた、ということにも通じます。
ではイエスさまと一緒におられたという野獣とは何かというと、別の意味では危険な生き物、毒蛇などの危険な生き物と言う意味もあります。つまりイエスさまは荒れ野という、生きるか死ぬかという危機の只中で、さらには毒蛇などの危険な生き物と一緒におられたということになります。毒蛇が目の前にいて、ちょろちょろしていたら、これは怖いですよね。かまれたら死んでしまいます。ということは、イエスさまは、荒れ野という危険な中にあって、さらに危険な状態、限りなく危険な状態にあるということです。
しかしそういうところに、なぜイエスさまが、神さまによって、送り出されたのでしょうか?それは、イエスさまが神さまだからこそ、生きるか死ぬかという厳しい現実に向かわれるお方だからです。そして、イエスさまだからこそ、そこに行かれるのです。でもその中にあっても、なおも支えがあること、なおも支えられて、守られていることも、イエスさまは荒れ野にて、神さまとして、私たちに示されるだけでなくて、私たちにとっての荒れ野の中でも、たとい、いのちの瀬戸際にあっても、神さまが本当に支えて下さること、神さまがお守りくださっていることを、私たちにも与え、伝えるためです。
その通り、神さまは、助けてくださいます。瀬戸際に立たされたとしても。本当にぎりぎりのところで、本当に支えて下さり、そこからもう一度立ち上がらせてくださるのです。なぜならば、荒れ野に行かれたイエスさまは、確かに野獣と一緒におられたけれども、同時にそのイエスさまを、天使たちが仕えていたからです。
しかしそれで終わりません。(14)ヨハネが捕らえられた、という出来事が追い打ちをかけます。ヨハネが捕らえられたという出来事は、イエスさまにとって、大変なことです。イエスさまに洗礼を授け、イエスさまに先駆けて、イエスさまが救い主であることを人々に指し示してくれたヨハネ、イエスさまがマリアを通して生まれることを、誰よりもエリザベトのお腹の中で、喜び踊ってくれたヨハネが捕らえられたことは、イエスさまにとっては、大きな損失です。悪いことの上にさらに悪いことが起きているかのようです。やがてヨハネは殺されてしまいますから、イエスさまは大切な人を失うことにもなるのです。それは暗闇の上にさらに追い打ちをかけるように暗闇が襲うかのようです。
そんな出来事が続く中で、イエスさまは、「ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」イエスさまは、いのちの瀬戸際の中で、暗闇がますます暗闇となっているただ中で、神さまとしての働きを始めていくのです。
見方を変えれば、神さまの働きというのは、その働きのための準備が万端整えられて、喜びの中で始められ、前に向かって進むのではなくて、全くその反対のような、とてもじゃないけれどもとんでもない状況の中で、神さまの国の働きが始まっていくことでもあるのです。
暗闇がますます暗闇で満ちていく中で神さまの働きが始まるというのは、受け入れがたいことかもしれません。私たちにとっても、良い状態で、ああ準備をしているな~と充実感で満たされるようなことをどこかで期待しますし、そういうことでスタートしたいという願いもあります。でもイエスさまが神さまの福音、喜びの訪れを伝え始めたのは、そんな誰もが喜べる状態でではなくて、とんでもない!状態の中でこそ、イエスさまが福音、喜びのおとずれを伝えていかれるのです。
それは暗闇の中に輝く光と言ってもいいでしょう。暗闇の状態から光が輝くのです。例えば夜空に光る星も同じです。宇宙において、星が誕生するという場面があります。その時、星がどこから輝き始めるか?星はどこから誕生するのかというと、暗黒星雲という暗闇から星が光を放ち、輝き出すのです。輝いている星から、星が分かれて、新しい星が輝くのではなくて、星がその一生を終え、暗黒星雲となっているその状態、真っ暗な暗闇、光が全くない状態の中から、星は誕生していくのです。
それは草花もそうですね。先日スイセンが教会の前の道路際の土の中から芽を出していました。やがて暖かくなると、芽が伸びてきれいな花を咲かせます。昨年の春スイセンが本当に奇麗でした。上農の木々と併せて、スイセンは夜中もずっと咲き続けていました。そのスイセンは、最初から花を咲かせません。芽を出すまでは土の中にいました。土の中にあるということは、真っ暗な中にいます。土の中には光は届きません。真っ暗です。外からも見えません。けれどもその土の中から芽が出るということは、真っ暗な中から明るい陽の光の元に芽を出すということであり、暗闇の中からスイセンの芽が出、茎をのばし、花が咲くということではないでしょうか?
それがイエスさまのおっしゃられた「時は満ち」た時です。光り輝く、誰が見ても光が輝いている状態というよりも、暗闇に満ち、暗闇しかない瀬戸際の厳しさの只中から、神さまの時が満ちた、満たされた時、神さまの時が実現され、完成し、成就された時となっていくのです。その時「神の国は近づいた」近づくということが、完了し、完成しているのです。
つまり悪いことが積み重なっているようなとき、これ以上にもう暗闇はもういらないというほどの中にあってこそ、神さまの時が実現し、神さまが今真っ暗闇の中に、暗闇に暗闇を重ねているような、どうすることもできないような中にこそ、神さまは近くにいてくださり、その時にこそ、神さまのなさることが実現していくのです。
60代の方はとても仲良しだったご主人を病気で失いました。本当に大好きな人であり、その思いは34年間変わりませんでした。それだけにその死をなかなか受け入れることができず、亡くなられた後、ずっと家で泣き続ける生活でした。ご主人は病気のために最後の日々は混乱して、痴呆も進んでしっかりと話ができませんでした。奥さんに対するお別れの言葉もなく、言い残したい言葉や、これから残される妻への配慮を込めた指示もありませんでした。そんな状態で旅立たれたことで、奥さんは本当に心残りでした。頭ではもちろん十分に分かっていたつもりでした。きちんと話しができないことも分かっていたつもりでした。でも実際に亡くなられた後、失った悲しみと怒りで毎日をどうやって過ごしていたのか、覚えておられないほどでした。
そんなある時にふと思い立って、ご主人と一緒にかつて行った思い出の場所に一人で出かけました。あそこに行けば・・・という期待もあり、自然の好きだったご主人と一緒に行ったハイキングコースを一人で歩いてみました。すると忘れていた記憶が次々と甦ってきました。「あの日、主人はここで立ち止まって珍しい野の花を見つけた~」「あの日、主人はご機嫌でおもしろい話をたくさんしてくれた~」やがて一緒にお弁当を食べた大きな木の下に辿り着きました。作ってきたおにぎりをゆっくりと食べました。ふと「主人は最後に私に何を言いたかったのだろう?」そう思うと、あの日、横に座ってくれていた夫はもういないと思いました。涙が出てきました。そよ吹く風を受けながら、涙を流しながら、時間を過ごしました。でも涙は流れながらも、楽しかった思い出も甦って、思わずにっこりもしました。次第に穏やかな気持ちになってきました。そして夫は今も私と一緒にいてくれていると思えるようになりました。「楽しかった思い出をありがとう。あなたと一緒に生きることができて幸せでした。私の残された時間も見守っていて下さいね。元気を出します。」そんな思いを持って帰って来られた彼女は、それからご主人のものを整理し、これからの自分の生活のための準備を始められました。
思い出のこもった場所には、不思議な力がありますね。どうしたらいいか分からないほど辛い時、納得できない思いがあるとき、大切な時だと感じる時、これからの生き方を探している時、元気がほしいと思った時には、先に召された方を近くに感じられる場所に足を運べることも、また近くに感じることになるのではないでしょうか?
イエスさまが荒れ野に送り出され、荒れ野からガリラヤに行かれた意味と目的は、神さまが近くにおられるということ、神さまであるイエスさまが近くにいてくださることを、私たちにも与え伝えるためです。
イエスさまはいつも近くにいてくださいます。私にとって、どんなに荒れ野のような、暗闇に暗闇を重ねたような中にあったとしても、そこに近づいてきてくださり、近くにいて、そしていつまでも一緒にいてくださいます。
「神の国は近づいた」そのイエスさまに向かって、イエスさまと共に歩み出してください。