2022年2月13日礼拝説教要旨

ほかの種は(マルコ4:1~9)

松田聖一牧師

イエスさまのそばに、あるいはイエスさまに向かって、大勢の群衆が集まってきたので、イエスさまは「舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた」とあります。この意味をもっと詳しく見ると、イエスさまは、足を舟に踏み入れて、湖の中で、じっと静かに座っておられた、ということです。湖の中というのは、岸から見て距離的に湖の中と言う意味ではなくて、湖の内部、湖の水の中という意味で、湖の中ということです。その湖の中でじっと座っておられたということになると、水中にじっとして座っておられたということになりますが、物理的に湖にドボンと入って、水中に座っておられたということではなくて、ただ単に、舟に乗り込んだイエスさまが、ああやれやれ、よっこいしょ、ということで座ったということでもなくて、そこに、イエスさまは王座に着いたという意味でもあるのです。つまり、イエスさまがこの世界、自然を支配される王として、すべてをおさめられるお方として、そこにおられるということです。

 

そういうお方ですから、おびただしい群衆が、イエスさまのそばに集まっては来たけれども、イエスさまのそばに行けたのではなくて、「群衆は皆、湖畔にいた」のです。ということは、イエスさまが神さまであるということを、ここで群衆に顕しておられるので、群衆は、イエスさまのそばにではなくて、湖のほとり、湖畔にいたということです。

 

ただ単に舟に乗り切れなかったからとか、ここがいいということで湖畔にいたということではないのです。イエスさまが神さまであるということを、群衆なりに受け止めていたのではないでしょうか?もちろん湖畔にいたことで、これから語られるイエスさまの譬えも、湖の湖面に声が反射して、響いて良く聞こえてきたと思います。だから聞き取りやすいところに、群衆はいたという側面もあります。

 

そういう中でイエスさまは「たとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。よく聞きなさい。」あなたがたは聞きなさい!あなたたちは聞くんだ!という非常に強い言葉に続いて、(3)種を蒔く人は種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。

 

という譬えです。ここで、そもそも種を蒔くという時、どういうやり方で種を蒔くかと言いますと、種の入った袋を持ち運びながら、その袋に空いた穴から、自然に出ていくまま、風に吹かれるままです。私たちにとって畑をする時にするような、土地を耕して、土作りをして、肥料をやって、耕されたちゃんとした土地にして、畝を作って、畝の真ん中に、1粒1粒蒔くといった蒔き方ではないのです。

 

風に吹かれるまま。種が袋から出るまま。袋から自然に出るままです。もちろん畑として作ったところに、種も落ちていきますが、蒔く人は、種が、どこに落ちるか、どこに飛んで行くか?道端か、土の少ないところか、茨の中にか、あるいは良い土地かは、種を蒔く人は知らないのです。種を蒔く人の手の中にはないし、種を蒔く人が、蒔かれた種がどうなったか、どこにいったか?ということを後追いすることは、ありません。

 

この譬えにある種の蒔き方は、実際に畑を作り、種を蒔くということと対照的だなと改めて思いました。というのは、昨年春先に、ブロッコリーの苗が安く手に入りました。ブロッコリーの苗50円と書いてありました。50円は安いと思いましたので、早速売店でブロッコリーの苗を買いました。一鉢が50円です。店頭を見ますと、段ボールに10くらいの苗がありまして、それを見るなり、この10くらいの苗が50円なんだと思い、早速それを買おうとしましたら、段ボールごとが50円ではなくて、10くらいある苗の一鉢一鉢がそれぞれ50円だということに気づきましたが、それでも10くらいのものを買いましたら、お店の方がえらく喜んでくださり、いいんですか~こんなに~という感じでした。後から考えましたらもう苗を植える時期も過ぎていたかもしれませんし、なかなか売れなかったのがあっという間に10も売れたということで、やれやれという感じだったかもしれません。知らぬが何とかで、全くの素人。しかもブロッコリーということで、このお客さん大丈夫かしら~と思われたようです。いずれにしても、畑にブロッコリーをお手伝いいただきながら、植えて、苗から育てるということになったとき、いろいろな方から大変心配をいただきました。それはブロッコリーが育つかどうか?というご心配でした。後から気づかされたのですが、全くの素人で、ブロッコリーということは、あまりやらないとのことでした。それででしょうか?教会に来られた方の中で、ブロッコリーが気になられる方は、真っ先にブロッコリーを見に行ってくださったようでした。有難いことでした。ある時には、ご近所の方からも、ブロッコリーを植えました~とお話しすると、ブロッコリー???ということでえっという感じでした。お陰様でご心配いただいて出来上がったブロッコリーでしたが、実際にやってみますと、ブロッコリーの成長と共に、毎日の世話がいろいろあることを教わりました。最初は小さな葉っぱですが、大きくなっていくと、葉っぱのところには、毎日毎日アオムシが見つかります。葉っぱの表だけでなく、裏にも見つかります。それでアオムシを取り除いたり、他にも水やりなどいろいろです。初めてのことでしたが、野菜を育てるには、手間暇かかること、植える場所をどうするかとか、芽が出て、葉っぱが大きくなるにつれ、何をしたらいいか?葉っぱを食べるアオムシをどうするか?など、放っておくなんてどころか、毎日あれやこれやといった感じでした。そのように、野菜を育てるのは、放っておいたらいいのではなくて、毎日いろいろなお世話が必要だということを、改めて実感しました。

 

そういう蒔き方、育て方ではないわけです。この譬えの種まきでは。蒔かれた種は自然に任せて、いろいろなところにいき、いろいろなところに落ちていくのです。これは蒔く人が無責任なのか?というと、無責任と言う意味ではなくて、種を委ねていくことを指し示しているのではないでしょうか?蒔いた後は、何もかもお任せです。お任せですから、人の手の中にはありません。だから確かに道端にも落ちるし、石だらけのところにも、茨の所にも落ちます。そして鳥が来て食べつくしてしまったり、枯れてしまったり、実を結ばなかったということが結果、あるわけです。

 

でもそういう残念な結果となっていても、この種を蒔く人は、蒔き続けていくのです。蒔く人と言う意味は、蒔くということがずっと今も続いていること、今も蒔いていること、今もそれが続いているということ、そのことをする人のことですから、結果がどうなっても、どうあっても、それでも、種の行く末、結果は委ねて、種を蒔き続けていくのです。それは、それらのことも神さまは覚えていて下さるということではないでしょうか?

 

せっかく蒔かれた種だけども、うまくいかなかったときには、残念だったと思いますが、それでも、神さまは目に留めていてくださるからこそ、イエスさまは、この譬えで語るのではないでしょうか?

 

つまり、良く聞きなさいという意味は、道端に落ちるような種ではだめだとか、石だらけの所に落ちた種、茨の中に落ちた種のようではだめだという意味ではなくて、どんな結果になろうとも、結果がどうなったかがわからなくても、分からないままでも、それがだめだということではなくて、そういう結果になったとしても、種を蒔く人が、種を蒔き続けていくこと、今も蒔いていることを神さまはちゃんと目を留めてくださっているということです。

 

そういう種であるからこそ、そして実を結ばなかった種があっても、いろいろと残念な結果があっても、でも蒔き続けていく中で、良い土地に落ちる種があるということ、そして芽が出て、一粒から30倍、60倍、100倍という本当に素晴らしい収穫があるということも、神さまは私たちに与えてくださるのです。それを聞きなさいということではないでしょうか?

 

ただし、そういう結果が出るためには、種を蒔いてみないと分かりません。蒔く人がいないと何も起こりません。その人が蒔くというよりは、その種は落ちていく、そのために種を蒔くこと、種を蒔いていくことです。結果がたとい残念な結果になっても、残念な思いになるから、種を蒔くのをやめておこうじゃなくて、結果がどうなっても、やってみるということではないでしょうか?ダメ元でやってみるんです。やってみて、ダメだったら、だめです。でもだめであっても、そこでやめてしまったら、ダメと言う結果も、残念だったという結果も何も出てきません。やってみてこそ、初めていろいろなことが起こるのです。

 

そういう中で、神さまは蒔かれた種を良い土地にちゃんと蒔いてくださるのです。運んでくださるのです。こちらがどうしてそうなったのかは分からなくても、蒔けば必ずどこかに運ばれていきます。そして運ばれたところで、芽を出し、実を実らせ、そして豊かな収穫を必ず与えてくださいます。その収穫は、種を蒔く人に得られるわけではありません。でも、どこかで誰かが、その収穫が受けることができたら、それでいいじゃないでしょうか?そういうことまで考えなくても、神さまはちゃんとしてくださいます。私たちは蒔くという時には、その収穫、結果は神さまにお任せするという思いで、いさえすれば、楽になれます。結果を気にしなくても良くなりますね。

 

子ども会という集まりを教会でしていたときのことでした。10年くらい続いたでしょうか?毎月一回土曜日の午後に、工作をしたり、紙芝居をしたり、ビーズを使ったものやら、松ぼっくりでのリース作りなど、手を変え品を変えと言う毎月でした。お手伝いくださる方も大変だったと思います。ネタ探しが結構手間暇かかられましたし、材料や、準備に本当に手間暇かかります。その子ども会の中でゲームの後、聖書のお話をすることでした。毎回、子どもたちが今日はだめかな~と思っていても、友達を連れてやってきました。そんな子ども会に、お母さんが子どもさんと一緒に来られました。案内ハガキを持ってこられて、こうおっしゃいました。「案内ハガキありがとうございました。うちのポストに入っていました~それを見てぜひ行きたいと思いました。」こちらは何のことやらさっぱり分かりません。ポストには入れていないし、その方のお家はかなり山の上でした。はがきは学校の校門を出たところで、毎回学校の許可をいただいて配っていましたから、だれもポストに入れていません。でもポストに入っていました。どうしてそうなったのか?配った方も、いただいた方も誰にも分かりませんでした。でも確かに子ども会の案内ハガキはポストに入っていました。学校の前で蒔いたハガキが、ポストに蒔かれていました。その時神さまは、学校の前で蒔いたハガキを、どのようにしては分からなくても、家のポストに届けてくださったのだと思いました。

 

蒔かれたハガキ、ほかのハガキが、どこでどうなったのか?ほかの種がどうなったか?それを見ることはないと言ってもいいでしょう。でも、種を蒔くということをやってみること、種を蒔き続けることで、蒔かれた種、芽を出した種、ほかの種はどうなっていくかは分からなくても、種は蒔かれるためにあるんだということ、種は蒔き続けることだ、ということが本当にその通りだということに、気づかせていただけるのです。

 

そして蒔かれた種は、1から始まります。1から30倍、1から60倍、1から100倍です。その時、どうかすると30倍、60倍、100倍に目が行きがちですが、本当はそこじゃなくて、最初の1があってこそ、始まるということです。1がなければ、30も60も100もありません。1があってこそ、初めて始まります。種は1つでも蒔かれていかないと分かりません。ほかの種も出てきません。そのために蒔く人は蒔き続けるのです。今も蒔き続けています。神さまに任せながら、蒔き続けていきます。

説教要旨(2月13日)