2021年10月31日 礼拝説教要旨
人の中から出てくるもの(マルコ7:14~23)

松田聖一牧師

イエスさまがいろいろなところで人と出会い、関わられる姿を見る時、本当に
目まぐるしいということです。次から次へと間髪入れずに、イエスさまはいろん
な人と出会っていかれます。目まぐるしいし、スピード感があります。特に、今
日の聖書の御言葉も含めてマルコによる福音書には、その特徴が非常によく表
れています。というのは、(14)で「それから」という言葉がありますが、7
章だけでも「それから」が他にもありますが、他のところにも「それから」が山
ほど出てきます。それから、それから、といった具合に、次々と場面転換があり
ます。そのようにイエスさまは、1節から13節まではファリサイ派の人々と数
人の律法学者たちと出会い、いろいろやり取りした後、次は「再び群衆を呼び寄
せて」ということですから、ファリサイ派や律法学者たちの次はまた群衆、人々
との出会いとやり取りに目まぐるしく変わります。ということは、イエスさまは、
その都度その都度出会う必要があると受け止められたところに、次々と行かれ
るということですし、この群衆にぜひ伝えたいというものがあるからこそ、次々
と出会われ、次々と語られるということです。

それが「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもの
で人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す
のである。」という言葉です。ここでは人を汚すものは、どこから来るのかとい
うことであり、それは「外から」ではなく「中から出て来るもの」だということ
です。

では外からとイエスさまがおっしゃられる、外というのは、自分自身とは違う、
別の世界からやってくるかのような印象がありますが、実は、外というのは、外
面的なという意味での外です。外面というのは、「そとづら」とも言いますね。
こんな感想があります。「外ではいい顔しているのよ~外ではいい顔して、いい
人になってね~外では信用されているんだけど、一旦家に入ったら、途端に変わ
るのよ~」という、そういう感想がありますね。外面的にはいい、そとづらもい
い、だから人には好かれる、そういう意味で外面的な、そとみだけ、見えるとこ
ろだけからその人を汚すことができるものは何もないということです。

それに対して、人の中から出て来るものは、そうではないということ、人を汚
すのであるということは、どういうことかというと、その人の中身、内面といっ
たところから出て来るということは、その通りですが、外と中という関係から見
る時に、まずは外見、外見上、外面的なものというのは、人に見られているとい
うことです。その時、そういう人に見られている意識がその人にはありますね。
人が見ている時、どうでしょうか?悪いことはできませんし、自分を汚そうとい
うことにはなりません。他の人が見ているわけですから。そういう見られるとこ
ろに出ていくという時であれば、外見上も含めて自分をきちんとしようという
気持ちも含め、いろいろと良いものが出てきます。

その反対に、誰も見ていないところでの姿というのは、誰も見ていません。自
分しかいませんから、自分が何をしようと、どう考えようと、それは誰も見てい
ないし、見られていないということですから、どんなに悪いことでも思おうとす
れば、思えるわけです。イエスさまが示されるのは、そういうところです。人に
見られる私ではなくて、一人の私の時の、私の姿はどうか?人が見ているところ
ではそうではなくても、誰も見ていないところでの姿は、どうか?誰も見ていな
いところでの、私はどうか?ということを問いながら、誰も見ていないところ、
自分だけの世界、自分だけのところから出て来るものが「人を汚すのである」と
イエスさまはおっしゃられるのです。

それに対してのその場での群衆の反応はここには記されていません。どうい
うことを群衆は感じたのか?それは分かりません。ただ言えることは、このイエ
スさまがおっしゃられたのは15節です。ところが、16節はありません。16
節はなくて、17節はあります。

聖書というのは時々そういうことがあります。節が抜けています。それはギリ
シャ語の聖書がもとから抜けているということではなくて、そもそもギリシャ
語の聖書にはもともと章とか節はありませんから、聖書をギリシャ語から、訳す
ときに便宜上、読みやすくするために、章、節をつけています。でも、そういう
ことであっても、ここには16節は記されていないのです。

でも、記されてはいないけれども、記されていない、そのところで人々の反応
があったし、それは外に出せるものであったかどうか?外面的には、そとづらは
汚れていないということを伝えられるものであったかもしれません。しかし一
人の私はどうか?という反応、群衆の反応、群衆がここで「人の中から出て来る
ものが、人を汚すのである」と言われたことへの反応は、見られません。そして
イエスさまの弟子たちも、群衆の前ではイエスさまに尋ねることができなかっ
たということにおいても、人に見られるところでの弟子たちではなくて、群衆が
いないところで、イエスさまに尋ねていくという姿です。

それがあるから、群衆がいるところで尋ねるのではなくて、家に帰った時に、
このたとえについて尋ねたのです。ということは、弟子たちも、群衆のいるとこ
ろでイエスさまに尋ねられなかった何かがあるということです。
何かがあります。弟子たちですから、イエスさまと一緒にいるということで、
人々から見られるという立場にあったことは間違いありません。見られるとい
うことですから、弟子たちは人から見られるという意識もあって、イエスさまに
従いながら、イエスさまと一緒に歩んでいたということですし、弟子たちの言う
事、なすことも含めて、見られるという中にあったことは事実です。

でもイエスさまは、人から見られるというところでどうかということではな
く、人が誰もいないところでどうかということを問われたのですから、弟子たち
自身もそういう姿、だれもいないところでの姿、わたしという一人の誰もいない、
孤独な世界の中にいる時の私というものを、意識もしながら、しかし同時に、そ
れを群衆の前では表せなかったのかもしれません。

本当の私を出せるか、というと、私たちも、周りに人がいたら、人前の姿、人
前のわたしになります。しかし誰も見ていないところでの私とは、もちろん周り
に誰もいないところでも私であると同時に、一人の私は、一人だけの私ではなく
て、そこにいつも共におられる神さまと一緒の私でもあるということではない
でしょうか?そして神さまがイエスさまを通して、私のためにしてくださった
こと、一人の私に与えて下さったことが、どれほどに大きなものであるか?一人
のわたしに心を配って下さり、気遣って下さり、一人の私を赦して、愛して、大
切にしてくださったこと、一人の私にいつも、寄り添い、見放さないと約束して
くださったことであるのに、それに気づいているかどうか?と問われた時、弟子
たちもそうであったように、私たちも、それに気づかないことがあるのではない
でしょうか?だからイエスさまはおっしゃられるのです。「あなたがたも、そん
なに物分かりが悪いのか。」

物分かりが悪いのです。そんなに悪いのです。でも物分かりが悪いけれども、
イエスさまは、そんなに物分かりが悪いのか。と、悪いということを言いながら
も、物分かりが悪くないでしょう!そんなことはないでしょう!とイエスさま
は、一人の私に神さまが与え、してくださったことに、気づかないでいる私たち
に、気づかない私ではあっても、気づけるようにしてくださるのです。そんなに
物分かりが悪いのか。悪くないでしょう!気づけるはずでしょう!とイエスさ
まは、気づけない時にも、気づかなかったときでも、物分かりが悪いと断定され
ないし、気づける糸口を与えてくださるのです。

それが「こうして、すべての食べ物は清められる」という言葉です。この食べ
物と訳されている言葉は、食べられる物、食物という意味と、同時に、汚物、悪
臭という意味もあります。その汚物、悪臭を清潔にするということは、どういう
ことか?それはたい肥を作ることと似ています。

牛や家畜から出て来るものからたい肥ができますね。もともとは大変な悪臭
を放ちます。でもそれがたい肥になったら、どうなるかというと、畑の肥料にな
り、土がそれによってよくなっていきます。そしてその土地で作物を育てていく
と、より素晴らしい作物、食物が出来ます。私たちの食べる物になっていきます。
でも、たい肥になるまではものすごい汚物であり、悪臭を放ちます。でもたい肥
となった時には、それは優れたものに変えられていきます。

私たち自身から出るものもそうです。いろいろな悪いものがあります。それが
出てきます。いろいろな思いがあります。誰もいないところでの、わたしの中に
はいろいろある、ねたみも、悪口も、傲慢も、無分別もある、これらの悪はみな
中から出て来て、人を汚す、自分も汚しているということも、イエスさまは分か
っています。分かっているからこそ、それらを全部十字架の上で受け取ってくだ
さり、十字架の死と共に滅ぼして下さいました。

そして完全に葬って下さり、そして甦られて生きておられます。悪いものを全
部引き受けて、全部を赦してくださったイエスさまは生きて、共にいてください
ます。そういう意味で、私たちから出る悪いものは、確かに悪いのです。でもイ
エスさまは十字架の上で、その悪いもの、悪かったもの、とんでもない汚物、悪
臭でさえも、良いものに変えてくださいます。良いものに変えて下さるために、
悪いものをイエスさまは用いてくださり、どんなに悪いものであっても、その悪
いものを清めてくださいます。

説教要旨(10月31日)