2021年10月3日礼拝説教要旨 

いのちの言葉(マタイ21:18~32) 

 松田聖一牧師

教会の玄関の黒い看板には、月替わりでみことばを書いていただいています。その言葉が教会の前を通られる方々に、いつか、何かのきっかけで、聖書の言葉が、その人の心を打つようにと願っています。そんな月替わりの聖書の言葉の中で、ヨハネによる福音書からの御言葉がありました。「命は人間を照らす光であった。」人間を照らす光、この命は、イエスさまの言葉であり、イエスさまそのものです。そしてイエスさまの語られる言葉も命そのものであり、その命の言葉が、死んだ言葉ではなく、生きた言葉、生きて語られるということです。だからイエスさまが語られると、生きた言葉として相手に届けられるのです。それはイエスさまが空腹を覚えられたとき、道端にあったいちじくの木があるのを見て、(19)「近寄られたが、葉のほかは何もなかった。」そこで「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。」とありますが、これから後いつまでも、お前に実が実らないようにと、いちじくの木に言われた途端、いちじくの木はたちまち枯れてしまったということは、イエスさまの言葉、イエスさまが言われた言葉は命そのものであり、イエスさまが語られた通りに、たったこのひと言であっても、イエスさまの言葉には命があり、生きているので、その言葉は、そのいちじくの木に対しても、生きて働くのです。いちじくの木が、イエスさまの言葉通りになっていくのです。 

 

これを見てイエスさまの弟子たちは驚き、恐れおののいて、イエスさまに尋ねます「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」それはいちじくの木が枯れた理由をイエスさまに尋ねているだけではなくて、どうして、どんな方法で、どういう意味で、どういうつもりで即座に、たちまち、枯れてしまったのか?と、このいちじくの木がたちまち枯れてしまった、方法と、枯れてしまった意味、イエスさまのおつもりがどうなのかを、尋ねています。それはいちじくの木に起きたことは、自分たちとも関係あるのではないか?すなわち、イエスさまがいちじくの木に語られたことと、同じ言葉を自分たちに語られた時、いちじくの木と同じことが起こるのではないかということと、もう一つはイエスさまと同じように、自分たちもできることなのか?自分たちにも、そういう力のようなものが与えられるのかということもあります。だから彼らが、「これを見て驚」いたのは、イエスさまの言葉に対するいちじくの反応を見た驚きと、おののきと、恐れだけではなくて、自分たち自身にこのことが起きたらどうなるか?ということと、自分たちにも同じことがどうしたらできるのか、本当にそうなるのか?という思いも含めて、いろいろあったからではないでしょうか? 

 

 だからこそイエスさまは、「はっきり言っておく。あなたがたも同じ信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とおっしゃられるのです。 

 

 イエスさまはすごいことをおっしゃいますね。あなたがたも同じ信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが起こるだけではなくて、あなたがたも、この山に向かって、立ち上がって、海に飛び込めと言っても、その通りになる、一見すれば無茶苦茶なことですが、それがそのとおりになるとイエスさまはおっしゃっています。それにしてもすごい内容ですよね。この山に向かって、立ち上がって海に飛び込めと、中央アルプスや、南アルプスに向かって言うでしょうか?仙丈ケ岳に向かって、木曽駒ケ岳に向かって、立ち上がって、海に飛び込めということを、思う事すらないのではないでしょうか?でもイエスさまは、イエスさまを信じること、信仰を持つということは、それと同じことだ、それくらいに信じて、信頼していくことだということを弟子たちに、私たちにも教え、与えておられるのではないでしょうか?そして信じて祈るということも、どうなるか分からないとか、たぶんダメだろうと祈るのではなくて、信じたことは、その通りになっていると、もう祈ったことは、その通りに、今もう現在、その通りになっているというかなえられた現在が与えられているということです。信じるというのは、そういうことです。 

 

 つまり信仰というのは、信じるというのは、中途半端なものではなくて、それが全てということです。疑わないならばということは、疑ってはいけないということではなくて、信じるというところには、疑わないこと、疑いが入って来ないということでもあります。 

 

 でも疑うこと、疑う時があります。それはなくなりませんし、幾度となく、本当かな?本当にそうなるのか?ならないのではないか?という思いが、何度も何度も頭をもたげてくることもあります。それに自分自身が支配されることもあります。そして信じられない理由を考えたり、信じなくてもいい、根拠、理由を探していくこともあるのではないでしょうか?それはイエスさまが神殿の境内に入って教えておられた時、祭司長や民の長老たちが言ったこと「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」という質問をする、彼ら自身の中にもあります。 

 

 というのは、イエスさまが神さまであることを、信じようとしないというよりも、信じたくないのです。信じたくないという理由は、自分たちが宗教指導者であり、自分たちに神さまから権威を与えられていると信じていますし、自分たちこそ、神さまの代弁者であるかのように信じていますから、自分たちから、イエスさまに、人々の心が移ってしまったら困るんです。こっちではなくて、彼らからすれば、あっちのイエスさまに心が移って、民衆がそちらに行ってしまったら、お金も入って来なくなるし、立場も何もかもがそがれていくからです。だからこそ、イエスさまが神さまであることを、信じたくないので、信じるに値しない方であることを、証明しようとして、何の権威でこのようなことをしているのか、だれがその権威を与えたのかとイエスさまに畳みかけていくんです。でもそれはイエスさまを信じられないということよりも、信じたくないし、何よりも、彼らにとっては、人々が自分たちから離れていくということに対して、怖いからです。だから彼らも言っています。イエスさまから、逆に「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と尋ねられた時、どうこたえていくかというよりも、どう答えても、彼ら自身から「群衆が怖い」とはっきり言っているからです。つまり信じたくない、信じられないという疑いには、ただ単に信じたくない、信じられないという信頼できないということだけではなくて、信じること、信頼することによって、起こるかもしれないことが怖いのではないでしょうか?そういう意味で、祭司長たちや、民の長老たちにとって、怖いのは群衆であり、その怖さは、自分が信じることで起こる、自分たちを脅かす、自分たちにとっての脅威となるものが出来てしまうのではないかという恐れ、怖さでもあるでしょう。 

 

 そういう信じない、信じられない、信じたくないということには、信じるかどうかという信頼よりも、信じたことでどうなるか?信じることで、自分たちにとって、まずいことが起こるのではないか?脅かされることが起こるのではないか?という恐れ、怖さから来ているのではないでしょうか? 

 

 そういう意味で、二人の息子を持つある人が、兄に「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」というと「いやです」と答えていく姿とも重なっていきます。兄は、ぶどう園で働くということ自身をいやだと言うのは、ぶどう園で働くことそのものが嫌だという意味ではなくて、今、私はそれを望んでいないという意味です。今はそれを望んでいないのです。過去はどうか?未来はどうか?という答えではなくて、今は、それを望んでいないのです。今は、それを望んでいないというのは、今、彼の中には、望んでいないという答えに至る何かがあるからです。何かしか理由があるんです。だから今は嫌ですと答えていくのです。信じることについてもそうです。信じることを望んでいない時には、信じないということに至る何かがあります。言い換えれば、信じるに足る何かがあって、それが自分の中でもはっきりとしていたら、信じて信頼していきますね。 

 

お昼のサラメシという番組がありますね。会社とかいろいろなところでのお昼ご飯を取材しています。そこで必ずと言っていいほど、出てくるシーンは、お昼の時間になると、お昼御飯ですよというお知らせが会社なら社内放送などできます。お昼ですよというサインですが、その時、社員の方もそのチャイムなり、お知らせで、ぞろぞろと食堂に集まっていきます。それはおいしいからということとか、皆と一緒に食事をとることの良さを出していますが、そもそも、お昼ですよというお知らせが来た時、それを聞いた人たちには、その知らせがあれば、お昼ご飯を食べられると信じているからです。お昼だ!お昼ご飯を今から食べられると、食べられるということ、食堂などに自分が行って、注文して出てきたご飯があることも、食堂に入る前から思い描いて、それを信じて、頼めばそこにあると信頼しています。だから動き出せるわけです。そういうものじゃないでしょうか?信じられるのは、信じるに足ることがはっきりしているから、だから信じられるのです。でもイエスさまの信じると言う時、信じるに足ることが目に見えてあるとは限りません。むしろ見えないこと、先が分からないことばかりです。だから信じられなくなるし、信じたくなくなります。この兄もそうです。今それを望んでいませんと答えるのは、今ぶどう園で働くこと、今ぶどう園に行くことが、具体的にどうなるのか、その意味は何なのかが見える形では分からないからです。だから嫌ですと答え、しかし、「後で考え直して出かけた」とあります。 

  

 一方で、弟にも同じことを言いますが、弟は、「お父さん、承知しました」と答えますが、出かけなかったのです。「お父さん、承知しました」という言葉は、主よ、私ですという意味です。ぶどう園へ行って働きなさいと言われた時、弟は、主よ私ですと、主よ自分がここにいると、ちゃんと答えていくのです。でも私ですと言いながら、出かけなかった。不言実行ではなくて、有言不実行ですよね。有言不実行は、周りが大変です。分かりました!承知しました!と言いながら、実行しなかったら、大変です。そして、それは信じていないことになります。でもそれはそれで彼なりの理由があったと思います。主よ、私です承知しましたと言いながら、実行できない、実行したくない、何かがあった。それは兄においては、最初、私は望みませんという答えをした時の兄であり、その理由、具体的な何か?は分かりませんが、信じていく、信頼するというその中では、疑うこともあるし、最初は嫌ですと答える場合もあります。そうかと思えば、私です主よと、承知しましたと答えているのに、出かけなかった、実行しなかった姿、その両方が、私たちと関係ないとは言えないのではないでしょうか?兄のように、あるいは弟のように、いろいろな何かがあって、いやですと言ったり、承知しましたと言ってもしなかったこと、言ったとおりにやらなかったこと、やれなかったこともあるのではないでしょうか? 

 

 そのようにイエスさまが語られた言葉、いのちの言葉、生きている言葉、語られたらその通りになっている言葉に対して、信じて、信頼するということに向かう時、いろいろあるということです。でもいろいろあっても、こちら側の、私たちの方には、いろいろあっても、イエスさまがこうだとおっしゃられるとき、神さまの国はこういうものだということを与えて下さる、その言葉は真実であり、その言葉はその通りになっていきます。私たちにできることは、信じられるか、信じたか、信じられなかったか、信じたくなかったか、いずれの時でも、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とおっしゃられるイエスさまの言葉は、真実な言葉として、いのちの言葉として与えられているのです。なぜならばイエスさまがおっしゃられたことは、イエスさまの真実な言葉だからこそ、おっしゃられた全てをイエスさまがしてくださるからです。私たちの側では、信じること、疑うことがいろいろと繰り返される中であっても、イエスさまがおっしゃられたことは、イエスさまご自身が、自らしてくださるのです。 

 

 クリスマスの出来事を紹介したいと思います。クリスマスキャンドルサービス、燭火礼拝でのことでした。その礼拝に、地元の合唱団を迎えて、クリスマスの讃美歌を歌っていただこうということになりました。合唱団の方々も、教会でクリスマスを歌えるなんて嬉しいということで、すぐに引き受けてくださいました。教会で歌えるなんて!それで練習をされて、当日礼拝開始時間が7時半からでしたので、では7時ごろに着替えた状態で伺いますということで、教会に早くから来られていました。合唱団の方が来られた時には、どういうわけか教会の方々がまだ誰もいらっしゃっていなかったんですね。そのうちに来られるだろうと思いまして、合唱団の方々は20名ほど来られていましたから、礼拝堂に並べている椅子の半分をその合唱団の方々に座っていただいて、しばらくお待ちくださいとのことで、時間を過ごしておりました。ぼつぼつと教会の方々も来られるのですが、ぽつりぽつりと言う感じで、講壇から向かって、右側は合唱の方々が座っておられて満席でしたが、こちらの方はガラガラです。もう来られるのではないか?と内心思っていましたが、姿が見えません。その内に合唱団の方々もきょろきょろし始めました。「うちらが前に立って、讃美歌を歌った時に、客席には誰も座っていないのではないか?」そんな思いがあったと思います。でもだんだん7時半が迫ってきます。でもこちら側はまだ人がぽつぽつです。既に来られている教会の方々も、気になって仕方なかったと思いますが、前にこう立っていると、気になりますので、私も講壇の蔭に隠れるようにして、見ないようにしました。神さまどうぞ、こちらの側にも来られるようにしてくださいとお祈りしました。祈りながら、どこかでどうしよう!があります。せっかく合唱団の方々にも、クリスマスを感じていただきたいと思ったのに、こんなのでは・・・どうしようという中で、じたばたしても仕方がないと思いまして、お祈りしながら、礼拝始まる3分くらい前だったと思います。前に立って礼拝堂を見た時、こちらの側の座席も満席となっていました。椅子が足らなくなって、後から出すことになっていました。5分前から3分前にかけて、一気に来られたようでした。信じて祈った時に、自分が何を信じていたか?それは、左半分がガラガラになっていて、合唱団が前に立った時、聞いておられる方々がほとんどおられないということを、信じてしまっていたと思います。でも神さまは満たされるようにとの祈りを聞いてくださっていました。そして椅子は足りなくなった時、後から出すのではなくて、最初から来られると信じて、並べておくことだということを教えていただいたことでした。 

 

信じるということは、イエスさまを信じることであり、イエスさまの言葉を信じることです。その言葉は命の言葉であり、生きていて、真実な言葉です。その時、いろいろなことがあります。こちらの側で。でもこちらの側ではいろいろあっても、真実な、いのちの言葉を与えて下さっているイエスさまは、そのお言葉通り、信じて祈ることによって、求めるものは与えられるという言葉もいのちの言葉として、真実な言葉として、私たちに与えられています。なぜなら語られたいのちの言葉を、イエスさまがイエスさまの手でその通りにしてくださるからです。 

 

説教要旨(10月3日)