神さまのご計画(マタイ11:25~30) 松田聖一牧師

 自問自答という言葉があります。その意味は字のごとく、自分自身に問い、自分自身に尋ね、質問することと、自分自身がそれに答えていくという両方が同時に、自分の中でなされています。ただその自問自答ですっきり解決するのかというと、自問自答の意味として挙げられています「納得がいかないことや疑問を、自分自身で、反芻(はんすう)すること。また、あれこれ考えて思い悩むこと。」とある通り、何もかもがすっきりと、すんなりと、自分が納得できるかというと、そうではありません。納得できる結論や結果が出ない、あるいは出ないままなので、ああでもない、こうでもない、ああした方が良かったのではなかったか?こうしいたほうが良かったのではなかったか?あんなこと、こんなことをしなければよかった、といったことを自分に問いながら、自分で答えを出そうとします。そのような問いかけを、自分の中でどれほど繰り返しても、これだ!という答えはなかなか出ません。そこから言えることは、こうだろうか?ああだろうかと、自分に問いながら、答えを見つけようと、一歩でも前に進もうとしている姿が、「自問自答」なのかもしれません。 

 そのような自問自答をイエスさまもしています。というのは、イエスさまが、(25)「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。」とおっしゃっている中に、「そうです」という言葉がありますが、その意味は、「はいその通りです。いかにも、本当にそうです分かりました!ということになる前に、自問自答しながら、自分の中で繰り返し、反復して強調しながら、最終的には、本当にそうです、分かりました!」という意味です。 

その中に、父なる神さま、あなたをほめたたえます、賛美しますがありますし、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」というこれらのこと、すなわちコラジン、ベトサイダの人々に、お前は不幸だ、お前は不幸だとイエスさまに言わしめること、またカファルナウムの人々が、陰府にまで落とされ、天からの火で焼き尽くされたというソドムよりも、重い罰があるとイエスさまご自身をして言わしめる、何かがあったことも、イエスさまは背負った上での言葉です。つまり、そうです。分かりました、本当にそうです!ほめたたえます、賛美しますという言葉の背後には、イエスさまのこれまでの町々で経験されたとんでもない出来事がありました。とんでもなく悪いこと、良くないこと、受け入れがたいことがあったということです。 

とんでもない悪いこと、良くないこと、は具体的にはなかなか言えません。言えるというのはまだいい方です。自分の中で、ある程度解決されていますから、口から出るし、言えます。でも自分自身が納得できないでいることや、自分の中で納得できるようになったことでも、そのことを言っても良い相手がいないと、なかなか言えません。それこそ、自分の中で自問自答になります。イエスさまがここでお前は不幸だ、お前は不幸だといったことを言うことも、イエスさまにとって辛いことだったと言えるでしょう。けれども、そんな中でもイエスさまは、父なる神さまに「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」とおっしゃられる時、もろ手を挙げて良かった良かった、その通りだという意味だけではなくて、イエスさま自身も、これでいいのだろうか?こんなことを言っていいのだろうか?と、ご自分に問い続けながらも「そうです」と神さまをほめたたえますと賛美の声を神さまに向かって、言われているということです。 

 それはイエスさまが神さまでありながら、同時に、まことの人として歩んでおられるからです。わたしと父とは一つですとイエスさまがおっしゃっておられますが、その通り、イエスさまは、神さまの独り子、神さまご自身でありながら、同時に私たち人間と全く同じです。もちろん神さまですから罪は犯されませんでしたが、全く私たちと同じところに立ってくださり、私たちがそれぞれに経験すること、人生そのもの喜怒哀楽も含めて全部、神さまとして経験しておられるのです。だからイエスさまは、私たちが経験すること、その都度感じたことも含めて全部、神さまとして経験しておられますし、全部をイエスさまが受け入れて経験されているのです。そういうことを神さまはイエスさまに全部任せたのです。だからイエスさまは「すべてのことは、父からわたしに任せられています」とおっしゃられるのです。 

 そして「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉が続きますが、これらのこと、疲れること、重荷を負うことも、イエスさまはもうすでに神さまとして、受け入れて経験されていますから、その疲れの実態と言いますか、疲れるということは、こういうことだということも、重荷を負うことも、こういうことだということを、分かっておられます。実際に経験されたことゆえに、疲れたとか、重荷があるということが、イエスさまに100パーセント響くのです。そういうことなのだなということが、イエスさまには手に取るようにわかるのです。 

 だから「休ませてあげよう」というのも、口先だけの言葉ではなくて、本当にイエスさまは休ませてあげようと言われた通りに、休ませてくださいます。ただ休ませてあげようとおっしゃられる、この休ませるという内容は何かというと、まずは、私たちがこの言葉を聞いた時に、それぞれが感じる感じ方があります。ある方は、休ませてあげようと言われたら、もう何にもしなくてもいいんだ!家のことも、自分のことも、何もかもほったらかしれもいいんだ!と感じられる方もいらっしゃるかと思います。とはいうものの、そんなことできないわ~誰が代わってするの~という言葉もつい出てくるかもしれません。つまり何もしなくてもいいということを期待しながらも、現実はそうではないです。あれこれとしなければならないことがあるし、それに毎日追われている面があると思います。朝起きて、夜寝るまで、何にもしなくてもいいという一日はないと言えるでしょう。何かしらしていますししようとしています。しなければならないことに、追われています。そういう毎日ですから、当然疲れますし、重荷を負っていると感じて受け取ります。 

 それは見方を変えれば、疲れることも、重荷を負うことも、毎日の生活の中で、生活が営まれる中では、なくならないものです。することがあるし、しなければならないこともあるし、そこに一人ではできないこともありますから、誰かと一緒にするということもあります。誰かと一緒に何かをするときにも、一緒にいて楽しいばかりではないことがあるでしょうし、楽しくないこと、疲れること、重荷を負うことが、起こり得ます。それはなくならないものではなくて、あり続けるものです。 

 では休ませていただいたら、疲れも、重荷を負うことも何もかもが全くなくなる状態になれるのかというと、現実にそういうことが与えられるということよりも、現実の中で、疲れること、重荷を負うこともあるその中で、イエスさまが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃられる意味は、疲れる時も、重荷を負う時も、負わされる時も、イエスさまが一緒にいて、一緒に歩いて、一緒にそれを経験し、一緒にそれを背負ってくださるということです。疲れも、重荷も一緒に背負いながら、共に歩いてくださるということです。 

 そのつながりを、イエスさまは「わたしの軛」として与えておられるのです。軛というのは、家畜と家畜を繋げる道具のことですね。二頭であれば、二頭をつなげて、一緒に並べて、引かせていきます。その時、二頭は同じ位置にあります。歩く方向も、歩く速さも一緒になります。このときどちらかが早く行こうとしたり、別の方向に向かって歩き出そうとすれば、それはどちらにも負荷がかかりますね。お互いに引っ張り合うことになりますから、同じに歩いている時と比べると、重くなります。私たちとイエスさまの関係もそれに似ています。イエスさまは背負いながら、一緒に歩いてくださいます。それなのに、時には、自分のやりたいように、自分のしたい方向に向かって行こうとします。その結果、一緒にいてくださる、一緒に歩いて下さるイエスさまからも離れようとしてしまうことになるのではないでしょうか?離れそうになってしまうのではないでしょうか?その時、そうすることで、自分は楽になれるように思われがちですが、実は、そうじゃなくて、自分にも負荷がかかるし、何よりも共に背負いながら、一緒に歩いて下さるイエスさまにも負荷が余計にかかってくるのではないでしょうか?イエスさまに負荷を余計にかけていくことにもなります。それでも、イエスさまは、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしに学びなさい。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」重荷は重いはずなのに、イエスさまが一緒に歩いてくださり、イエスさまのくびきでつながれているとき、その軛も、私が背負った荷物も、重荷も、イエスさまは、イエスさまの荷物「わたしの荷」として受け取っていてくださり、イエスさまは、一緒に歩いていて下さいます。私の重荷を、イエスさまは、イエスさまの重荷として受け取って、背負って、共に歩いてくださいます。 

マーガレットパワーズという方の「足跡」という詩を紹介しましょう。 

「足跡」ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、渚を歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主はささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」 

この詩の中で、自分のことしか考えられなかったことも、包み隠さず書かれています。「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」そのように、人生の中で、一番つらいときには、自分のことで精一杯です。自分にとって背負いきれないくらいの重荷を背負わされていると感じてしまいがちです。でも神さまは、そんな自分のことしか考えられなかった、私を、自分のことで精一杯だった私を、心を乱していた私を、背負って歩いてくださっていました。わたしは神さまに背負われていた、神さまは背負ってくださっていた!それが神さまであるイエスさまの、「休ませてあげよう」とおっしゃってくださる真理であり、それもまた神さまであるイエスさまの、わたしたちへのご計画の一つであることを、私たちに示し、与え続けてくださっています。

説教要旨(5月30日)