福音を告げ知らせる声(マタイ12:14~21) 松田聖一牧師

 

嫉妬は男性にも女性にも、誰にもあります。内容はそれぞれ違いますし、何に対しての嫉妬であるかも、千差万別です。そこに立場や、権威、権力がついてきますと、気持ちだけではないものが出てきますから、それはそれでややこしいものになります。さて、その嫉妬が生まれるきっかけは何かというと、多くは見えるもの、見える結果を見て、あれこれと思うのではないでしょうか?うらやましいと思う時、それは相手がいて、その相手のその人の見えることで、こちらがいいなあとうらやんで、それが時には、憎しみに近いものに変わってしまうこともあります。そういう意味で見える物事が、嫉妬に大きく作用としていると言えます。

ファリサイ派のイエスさまに対する議論、態度を見ますと、これはまさに嫉妬です。その嫉妬は、イエスさまが安息日に片手が病気になっておられた方を癒されたという目に見えることをイエスさまがしたことで、その嫉妬に火が付いたと言えるでしょう。それだけではなくて、ファリサイ派である自分たちのところにではなくて、イエスさまのところに人が集まり、大勢の人が従ったという、目に見えることが、彼らには大変大きかったと思います。イエスさまの方には大勢集まり従う、それなのに、本来当時の宗教指導者であるファリサイ派の自分たちのところには、大勢集まったとか、大勢従ったということがないということは、お客を取られたようにも思ったでしょう。そういう見えるもの、目につくものによって、嫉妬が生まれ、嫉妬が彼らをして「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」ことへと繋がっていきます。しかも、その殺そうとすることについて、「どのようにして」というところまで相談するのです。

それに対して、イエスさまはそういう嫉妬心から、自分をどのように殺そうかという相談までになったことを知った時、イエスさまは、そうしたファリサイ派に立ち向かおうとはしないのです。どう考えても、彼らのしようとしていることは、人殺しですからいいはずがありません。やっていいことでは決してありません。それに立ち向かって、イエスさまが神さまとして立ち向かったら、彼らにはひとたまりもないことは、誰よりもイエスさまが知っています。でもイエスさまはそういうことをなさろうとはしないで「それを知って、そこを立ち去られた」そこから逃げ、そこから退いたのです。

どうして逃げたのか?なぜ、立ち向かおうとしないで、そこから立ち去り、逃げ去ったのか?それは彼らのしようとしたことに対して、立ち向かって、その人たちの考え方を変えようとか、考えていること、相談していることをやめさせることよりも、イエスさまは大勢の群衆の癒しのためにエネルギーを注がれたということです。イエスさまにとって、自分を殺そうと相談をしていることに立ち向かう時間と、エネルギーと手間といったことよりも、大勢の群衆の癒しに向かって行こうとされたのです。人々の癒しを優先させたのです。それで大勢の群衆が従い、皆の病気を癒されるのですが、その時、(16)御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。とあります。これはイエスさまが癒してくださったことを、ベラベラしゃべるなという意味ではなくて、イエスさまのことを目に見える形で、人目に分かるように、知れ渡らせないようにと、厳しく戒められた、どなりつけるほどに、非難し叱責されたということです。

人目につく、見える形でイエスさまを言いふらすなとおっしゃられたとき、もうすでにイエスさまのところには大勢の群衆が従っています。イエスさまは皆の病気を癒されたということも、大きく目に留まることです。見せようとしなくても、見える形になっています。でもイエスさまはそういう中で、目に見える形で、人目に分かるように知らせるな、知れ渡らせるなとどなりつけるほどに、叱責をされたのは、イエスさまのなさることだけを見て、すごいなと思われる人、見えるそこだけを見る人が出てくること、そして見えるところだけを見て、集まってくる人がいることを知っておられたからではないでしょうか?

私たちも見えるものを見ます。見える行動をします。何かしらした行動についても、出された結果についても、見える結果を求めていきます。見えない結果ではなくて、見える結果を出そうといつもどこかでしています。もちろんそういうことは私たちに必要なことではありますし、必要な能力だと言えます。

イエスさまは、確かに見えることをしました。見える行動です。けれどもイエスさまが見えることをした目的は、見える結果を出して、見える結果を人に見せようとされたのではなくて、見えることの中に、見えないもの、見えない姿だけれども、確かにあるものを、私たちにも与えて下さるためです。

それがイエスさまの引用された旧約聖書のイザヤ書の言葉です。(18)見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

このイエスさまが引用されたイザヤ書の言葉は、そのままイエスさまに当てはまるのです。そのイエスさまは、ここでは確かに見える行為をしています。でもそれは見せるためではなくて、そこにいるのに、いないかのごとく、やがては弟子たちから、この時従っていた群衆からも見捨てられて、捕らえられて、十字架にかけられて、十字架の上で、わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですかと、神さまからも見捨てられ、そこで初めて神さまに向かって叫ぶのです。自分をどのようにして殺そうかと相談したファリサイ派の人々に向かって叫んだのではないし、見捨てた弟子たちや、群衆に向かって叫んだのでもありません。ただ、神さまに叫ぶのです。そして十字架の上で亡くなられ、見る影もなくなる、存在そのものを否定されていくのです。この世でないものとして扱われるのです。そしてもうその存在すらもなくなった、希望も、もう何もありませんという状態、見えるものも何一つない状態になっても、なお神さまの愛する者として、イエスさまは、自分を十字架につけた人々に立ち向かうことなく、争うことなく、叫ぶことなく、その声を聞く者がいなくても、声をあげ続けておられ、声をかけ続けておられるのです。その声のメッセージは何でしょうか?それは、もう何もない、何も希望ももうない、もう消えてしまった、希望につながる可能性すらも何もない、と感じ受け取ってしまう中にあっても、しかし、希望があること、神さまがイエスさまを愛する者としてくださったと同じく、私たちも、神さまの愛する者としてくださっていること、その約束が何も見えなくてもあると信じられるように、希望を与えてくださるのです。

ボンへッファーというドイツの神学者がいました。彼はナチスドイツに抵抗します。抵抗したことで、捕らえられ、獄中で亡くなります。もう少しで連合国にナチスドイツが敗れ、解放されようとしていた、その矢先のことでした。ボンへッファーは獄中で多くの書簡を書いて送ります。その書簡の1つから、讃美歌が生まれたのでした。「善き力に我囲まれ」です。

善き力に我囲まれ 守りなぐさめられて 世の悩み 共にわかち 新しい日を望もう。過ぎた日々の 悩み重く なお、のしかかるときも、騒ぎ立つ 心しずめ、みむねにしたがいゆく。たとい主から 差し出される杯は苦くても、恐れず、感謝をこめて、愛する手から受けよう。輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に、望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。善き力に、守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝も いつも神は われらと共にいます。

もう希望も何もない、なくなってしまったと、思うことがあります。しかし、その希望は、神さまの側では、消さないのです。消えそうになっていても、消えてしまったと見えても、神さまは消さないのです。だから再び、希望の火は、燃え上がります。神さまが与えて下さった希望は、決してなくなりません。消しませんから、消えません。

説教要旨(5月23日)