見てもらおうとして(マタイ6:1~15) 松田聖一牧師

 

イエスさまが今日の聖書箇所で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」とおっしゃられるとき、人々の前で見てもらう、見せるために、見られるためにする篤信的行為、善行、施しなどの善い行いは、それが善い行いであれば、それは見せようとしなくても、見えるものだということを言っています。善い行いですから、見せようとしなくたって、見えてきます。

でもどうして見てもらおうとするのでしょうか?見せようとするのでしょうか?善い行いとは、具体的には施しです。食べ物や、ほかにも何か必要としている方々に、差し上げることです。例えば、食べ物がない方に食べ物を差し上げたら、その人は助かります。施していただける方々は、施しの行為をしている人々を見て、有難いと思うようになります。つまり、見てもらおうとしなくても、有難いと思う方がいれば、それでもう十分ではないでしょうか?そしてもう一つのことは、善行をした人たちが、認めてもらわなくても、した行為は善い行いですから、それで助かる人がいて、食べ物にありつけるといった方々があれば、それでもう十分にその善い行いを果たしたことにはなりはしないでしょうか?善い行いがちゃんと善い行いとして受け入れられたら、それで善い行いとしては十分に満たされているわけです。ところが、見てもらおうとするのは、なぜか?それは善い行いを見てもらおうとする以上に、善い行いをする自分自身を認めてほしい、認められたいという欲求が、そこにはあるのではないでしょうか?

そういわれれば、そうだなと思います。人から認めてもらいたい、認めてほしいという欲求、これは、だれもが持っています。よく小さい子どもがこういいますね。「見てみて~!」「ねえねえ、見てみて!」それは自分のしていることを見てみてと言っているだけではなくて、そういうことをしている自分を見てみて!ですよね。僕を見て、わたしを見て、僕を僕として、わたしを私として認めて!だから「見てみて!」です。

それは「人からほめられようと会堂や街角でするように」ということも、「自分の前でラッパを吹き鳴らす」ということも、同じ理屈です。施しという行いは、だれもが善いと認める行いです。それによって助かる人がいます。だからそれ自体が尊い働き、行いです。でも、それで満足できない、それで満たされないのは、それをしているその人自身の問題と言いますか、その人自身が、自分のしている善い事、施しをしている自分自身を受け入れられないでいるからではないでしょうか?つまり、どんなに善い行為をし、積み重ねていたとしても、そうしている自分自身を受け入れられず、認めることができなかったら、ずっと「見てもらおうとする」のです。

イエスさまがおっしゃいます。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と。この言葉は、ただ単に、だれかほかの人を大切にしなさいと、それがまず何よりであるということ意味ではありません。まずは自分を愛するように、自分を受け入れられるように、自分自身を認めて、受容できるようにとおっしゃっているのは、自分自身を、自分が受け入れられないことが、あるからです。

自分自身を受け入れられなかったら、自分がどんなに素晴らしいことをして、人々からも称賛されようとも、受け入れられていません。自分を認めることができません。言い換えれば、そういうことをしている自分自身、どんなにすばらしいことをしていても、そういう自分自身をゆるすことができません。

自分を愛することと、自分を赦すことは、実は同じことです。つながっています。ではその自分自身を認めて、受け入れられるには、どうしたらいいのでしょうか?

それは、どんな私であっても、どんなことをしてきた私であっても、今どんなことをしている私であっても、どんな状態の私であっても、私の行いという目に見えるものによってではなくて、どんな私であっても、あなたはあなただ!と私は私だということを、受け入れて下さるお方、神さまというお方、私の命、存在を認めて下さっているお方を、自分自身が受け入れて、初めて、自分自身を受け入れることになるのではないでしょうか?自分自身を丸ごと受けとめてくださる、受け入れてくださるお方に出会って初めて、わたしはわたしとなれる!のです。だから十戒の冒頭に、神さまが「わたしはあなたの神、主である」とおっしゃられる通り、あなたが、どんなあなたであっても、どんなことをしてきたあなたであっても、どんな状態の中にあるあなたであっても、そのしてきたこととか、状態からあなたを見るのではなくて、あなたは、あなただ!そしてそのあなたにとって、神さまはわたしだ、主だとおっしゃっておられるのです。十戒というと、あれしなければ、これしなければ・・いけないという、やってはだめという禁止条項が並べられていると思われがちですが、そういうことではなくて、「わたしはあなたの神、主である」という神さまが、まずはあなたを受け入れ、あなたはあなただ!と受け入れてくださることで初めて、「わたしはわたしだ」と受け入れられるようになるんです。

でもなかなかそういうチャンスと言いますか、出会いにつながらないこともあります。そういう時には、何かしら頑張ってしまいます。がむしゃらに、人から認めてもらいたいという思い、わたしを受け入れてほしいという願いで、あれやこれやと一生懸命になるでしょう。

それは祈りにおいても、そういうことになるし、絶えず、わたしを受け入れてほしい、わたしが私であることを認めてほしいという欲求、願望で祈りも一生けんめいになりますから、大変です。自分を見せたいし、認めてほしいし、あれやこれやと努力することに、自分の目が向けられていくのではないでしょうか?そうなりますと、気を使いすぎて、疲れてしまうのではないでしょうか?もちろん見せるという側面はないとは言えません。でもそういうことが祈りの本質と目的ではなくて、祈りとは、そういうこと、そういう欲求を持っていたとしても、聞き入れられたいと願い、見せたいし、認めてほしいし、あれやこれや努力しようとする、その願いを持っているわたしであることも、分かったうえで、神さまは、わたしを受け入れて、聞いて、受け止めてくださっているのです。なぜならば「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」願う前から、神さまは、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから神さまが与えてくださる、神さまが必要だと受け取っておられることを、私たちがああでもない、こうでもないと言いながら、一生懸命にすることも認めておられる上で、それ以上にそれらのことを越えたところで、必要なものを、ご存じでいて下さる神さまが、必要なものを十分に与えて下さいます。必要なものを十分に、ということは、必要以上には与えないという意味でもあります。つまり、過不足なく、です。余ることなく、足りない状態になることなく、必要を十分に与えて下さるお方です。くどくどと祈る前に、もうすでに知っておられる、必要をご存じでいらっしゃる神さまが、与えて下さるのです。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」このことをもう一度受け取らせていただきましょう。

説教要旨(5月9日)