心を騒がせるな(ヨハネ14:1~11)松田聖一牧師

 

心というものが私たちにはありますね。心で感じ、心に思うということがあります。そして、心にあるものが出てきます。その心について、イエスさまは、「心を騒がせるな」心を動かすな。びっくりするな、扇動するな、興奮するなといった意味ですが、これを誰に言われたのかというと、この箇所のすぐ前に出てきます、ペテロに語られた上でのことだと言えるでしょう。というのは、イエスさまは、ペテロが、鶏の鳴く前に「あなたは三度わたしのことを知らない」関係ないと言ってしまう出来事が、これからあるからです。ペテロはやがてイエスさまのことを知らない、わたしとは関係ないと、言ってしまうんです。でもそうなるペテロに向かって、神を信じ、また私をも信じなさいと言われるのは、イエスさまなんて知らない、イエスさまなんて関係ない、と言ってしまう、その言葉になる前に彼の心の中でまず、イエスさまとの関係を自分から切ってしまうことがあったからです。

その心を騒がせるなという意味を見るとき、騒がせるなは、三人称単数の命令形です。あなたがたは騒がせるなではなく、あなたは、でもないということです。では「騒がせるな」の主語である三人称単数は、だれを指すのか?というと、あなたがたの心です。ということは、騒ぎ不安を感じ、興奮するのは、命の源、命そのものであるとも言われているその心が、騒ぐし、不安を感じるし、興奮もするからこそ、イエスさまは、「心を騒がせるな」と、その心に向かっておっしゃられるのです。つまりイエスさまは、ここで心が騒ぐということを、ペテロだけのことにしてはいません。心を騒がせるなと言われる時には、心が騒ぐという出来事が起きていて、心が不安になり、心が興奮し、心が動いていくことが、誰であってもあるからです。

私たちもみな、同じ心を持っています。だからいろんな時、いろんな場合に、心が騒ぐと思います。いろんな騒ぎ方、いろんな騒ぐ内容があると思います。それは不安になるとか、動揺することがいけないという意味ではなくて、そもそも、心というのは、すぐに動くものではないでしょうか?心を気持ちと置き換えてみてみましょう。私たちの気持ちはいかがでしょうか?いつも同じでしょうか?そんなことはないですよね。気持ちというのは、その時々によって、変わらないのではなくて、変わりますよね。「女心と秋の空」という表現がありますね。女性の心は秋の空のように急に変わる、ということと、「男心と秋の空」という表現もありますので、結局は、男性も女性も、それぞれに何かあれば、心は変わる、変わるものだということです。変わるということは、心がふらふらふらふらするわけです。あっちに向いたりこっちに向いたり、ある時には、こうだ!と思っても、また別の時には、こっちだ!となる。変わります。そういう意味では、私たちの心は同じではなくて、変わるのです。変わらずにいけるのではなくて、変わって当たり前です。

だからこそ、変わるもの、変わって当たり前ですから、そういう自分自身を信頼していけばいいのかというと、変わるもの、変わって当たり前のものを信じていいのか、信用していいのかというと、コロコロ変わるものを信用し、信頼に足る対象にできるのでしょうか?いかがでしょうか?変わって当たり前のものを、信頼できないですよね。いつでも変わりますから。変わる対象を信頼できるかというと、信頼する方が大変です。時々刻々と変わる心を、変わるたびに内容も変わるその度に、それでも信じ続けていくことは、至難の業です。自分を信じるという言葉がありますが、自分というのは、変わらないという意味で表現しながら、しかし自分も、変わりますから、自分自身も信頼できる対象かというと、自分も含めて、変わるもの、変わって当たり前のものに、信頼するのではなくて、本当に変わらないもの、変わらないお方に、信頼というのは、向かっていくことになるのではないでしょうか?

だからこそイエスさまは、変わらないお方、変わらず、いつもいらっしゃる「神を信じなさい、そしてわたしをも信じなさい」と言われるのです。なぜならば、変わるお方ではなくて、変わらないお方だからです。一貫して、いつでも、どんなときにも、あなたから離れず、あなたを見捨てない、あなたがたと共にいるとの変わらない約束を与え続けておられる、神さまを信じ、神さまであるイエスさまを信じること、信じてみようと思えることで、イエスさまが、私たちを迎えて下さっていること、あなたがたのために場所を用意くださっていること、そこに迎えてくださること、どこに行くのか、その道を分かるようにしてくださること、イエスさまがおっしゃられた言葉、聖書の言葉は、その通りになるということ、いやもうすでに語られた通りになっていることが、分かってくるのです。

それに対しての、弟子のトマスや、フィリポの反応は、一言で言うと「分かりません」なんです。わからない、分かりません、です。でもイエスさまは、フィリポには「フィリポ」「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」その通り、イエスさまのそばにいて、イエスさまと3年もの時を共に過ごしてきたし、イエスさまがおっしゃられる通り、イエスさまを知っているなら、父なる神さまをも知ることになると、それがその通りであるとおっしゃられるのです。けれども、イエスさまの言われることが、分かりませんでした。わからなかったのです。それを、トマスも、フィリポも、イエスさまに向かってはっきりと言います。

私たちには分かりません。わからないことは分かりませんと答えていく、この姿に、少し安心します。わからないのに、分かったような顔をする必要はないのだ、分からなかったら、イエスさま、分かりませんと答えていいのだと思えるからです。私たちにとっても、分からない時には、分からないと言いたくなることがありますね。でもわからないのに、分かりませんと言えない時があります。その時は、心がしんどくなることがあるかもしれません。

トマスや、フィリポもそうです。分かろうとしていないのではなくて、分からないから、分かりませんとイエスさまに言うのです。分からない中にあるので、イエスさまから、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われても、分からないから「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのです。分からない時には、分からないことを、イエスさまはちゃんと受け取ってくださっているのです。

その分からないという中にあっても、イエスさまが「父の内におり、父がわたしの内におられること」イエスさまがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではなくて、神さまが、その業を行っておられること、すなわちイエスさまがおっしゃられる言葉は、神さまがしてくださることそのものであること、神さまがしてくださることそのものが、イエスさまの言葉であり、イエスさまはその言葉をあなたがたに語っているのだということを、分からない彼らを受け入れながら、神さまがしてくださっていることが確かにあるということ、神さまがしてくださっていることが、ずっと続いている、神さまご自身が行い続けてくださっていることを、語るのです。

神さまがしてくださること、言葉でわからなくても、神さまがしてくださっていることによって、信じなさいとは、神さまがしてくださったことを通して、こちらが分からないときにも、もうすでに神さまがしてくださっている、そのことを、最もふさわしいときに、それが分かるようになる、信じていいんだと思えるようになる、そのようになるまでイエスさまは、語り続けておられるのです。

イエスさまの言葉、聖書の言葉を信じるということは、心の内面のことで起こるものだと言えるでしょう。そのために聖書の言葉を聞いて、その通りだと信じていかれることにつながっていきますが、その途中では、「信じない」ということ、信じられないことが、起こります。それがいけないのではなくて、イエスさまは、「信じない」ということも、分からなくて信じないということも、しっかりと認めて、受け取っておられます。そして、そこで終わりではなくて、そこから神さまを信じること、イエスさまを信じること、信頼できるように、信じるに足る出来事、信頼していいんだ!思える出来事を、イエスさまは、その時々に適って、私たちのために与えてくださいます。

説教要旨(5月2日)