2021年4月25日 礼拝説教 松田聖一牧師
命のことば(ヨハネ11:17~27)
人の生涯は、何年何月何日に生まれて、具体的に始まります。最初はどなたもおぎゃあと泣き叫んでいます。どなたにも赤ちゃんの時がありました。それから成長して、それぞれの時に、いろいろな事情で生涯を終え亡くなられたという事実が、先に召された方のその生涯、歩みの中にはあります。今日の聖書に登場しますラザロも同じです。どなたも経験されることが、ラザロにおいても起きたのです。だからイエスさまは彼が亡くなられたとき、「ラザロは死んだのだ」とはっきりと事実は事実としておっしゃられるのです。
そのラザロのところにイエスさまは行かれます。そして「ご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていた。べタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。」イエスさまがラザロのところに行かれたのが、「墓に葬られて既に4日も経っていた」です。詳しく見ますと、ただ「4日経っていた」ではなくて、4日「も」が入るのです。「も」というのは、4日を強調する言葉です。その意味は何かというと、2つ考えられます。1つはラザロが本当に正真正銘亡くなったということです。というのは、当時は、亡くなったと思われても、今のように医学が発達していませんでしたから、途中で起きてくるケースがありました。それは日本でもそうです。お葬式の最中に棺桶から出てきたという出来事はない話ではありませんでした。しかしもう4日も経っているということ、墓に葬られて4日になっているということは、ラザロは本当に亡くなっているということを証明していることになります。そしてもう一つは、イエスさまがラザロのところに行ったのが、ラザロが病気で死にかかっている状態であるということを聞いて、すぐにはいかなかった、すぐに行動しなかったということがあります。というのは、イエスさまからラザロのところまでは15スタディオン、それは3キロに満たない距離です。3キロということは、遠くありません。行こうと思えばすぐに行ける距離です。だからマリアもマルタも、イエスさまにラザロのところに、すぐ来てほしかった、すぐ来て、私たちの目の前で、ラザロの病気を治してほしかった、元気に元のようにしてほしかったのです。それなのに、それをすぐにしなかったということも、この「も」にはあります。
それはそうですよね。目の前で瀕死の状態にあった兄弟ラザロが、亡くなっていく、それは見てはいられません。本人が苦しんでいるのに、何もできない状態というのは、本当に辛いこと・・・だからこそ、イエスさまに一刻も早く来てほしかったし、藁をもすがる思いで、一縷(いちる)の望みをかけてイエスさまにすがりました。でもイエスさまはすぐには動かなかったのです。そういうことを背負っているマルタとマリアです。そこに多くのユダヤ人が兄弟ラザロのことで慰めに来ていたのです。弟子たちにとっても、ラザロが死んだということは本当にショックだったと思います。トマスの言葉にも表されています。「一緒に死のうではないか」一緒に死んでしまいたいと、それくらいにショックで、ラザロの死を悼むだけではなく、ラザロを失った苦しみが、自分自身を追い詰めていた状態だったと言えるでしょう。
そういう中で、来られたイエスさまに対してマルタとマリアの行動を見るとき「マルタはイエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています』マルタはイエスさまを出迎えます。でもマリアは座っていた。とありますが、この二人の姉妹たちは、イエスさまに対していろいろ持っています。というのは、マルタのイエスさまを出迎えたという言葉には、立ち向かったという意味もあるからです。つまりマルタは、来てくださったイエスさまに、良く来られましたと歓迎の思いで迎えたのではなくて、来てくださいと、あれほど兄弟ラザロが病気で苦しんでいるときに、主よあなたの愛しておられる者が病気なのですと言っていたにも関わらず、来てくれなかった、その時には来てくれなかった、何もしてくれなかったことへの腹立たしさ、恨みに近いものも含めて、立ち向かっているのです。しかしその一方で、マリアは立ち向かっていない、それは何もイエスさまに、何も感じていないというのではなくて、立ち向かえない状態、立ち向かう力がない、その力が出ない状態ではなかったでしょうか?座っているしか、腰を下ろすしかなかった状態ではないでしょうか?私たちも同じ経験をするでしょう。立ち向かえる時と、立ち向かえない時が、それぞれにあります。
その中で、マルタは、イエスさまに自分の思いを伝え、ぶつけています。「ラザロが死ななかったでしょうに。」それは、ラザロに生きていてほしかったし、イエスさまに助けてほしかった!でもイエスさまは助けてほしいと願ったその時には、イエスさまは助けなかったし、助けてくれなかったのです。だからラザロは助からなかった、それに対する文句も含めた言葉です。
しかし同時に、マルタはイエスさまに向かって、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と、文句に近いことを叫んでいながらも、それでもイエスさまが神さまにお願いになることは、神さまは何でもかなえてくださると、告白しているのです。マルタが、イエスさまに言っている内容には、現実と大きな矛盾があります。現実は、ラザロはなくなってしまったという事実です。しかしその変えようがない事実の中で、それでもマルタは、事実とは全く違う、イエスさまが神さまに願えば、何でもかなえて下さる、「何でも」ということは、亡くなったラザロが生きるようになること、それをイエスさまが神さまに願えば、神さまはかなえて下さるということを、マルタはイエスさまに立ち向かいながら、事実は、ラザロがなくなったという中で、ラザロの死を受け入れることができず、ラザロが生きるようになることを諦めていないのです。
イエスさまに、神さまに願えば、神さまが何でもかなえてくださる、ラザロが生きて私たちのところに戻ってくること、そこにある思いは、ラザロにもう一度会いたいという思いです。どんなやり方、どんな方法、どんな姿であっても、生きていて、私たちのところに戻って来てほしいのです。ラザロの命をもう一度取り戻したいのです。
それに対してイエスさまがおっしゃられたこと「あなたの兄弟は復活する」でした。それはマルタにとっても、マリアにとっても、ラザロが復活するという知らせと内容は、彼女たちが望んでいたことではないでしょうか?生きてここにいてほしい!という願いを、イエスさまはそうなると答えてくださいましたから、素直に喜べる内容です。ところが、あれほど何でもかなえて下さると立ち向かいながら言っているのに、マルタは、イエスさまから「あなたの兄弟は復活する」と言われたとき、今、ラザロが復活することではなくて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」です。しかも、終わりの日に復活することは、信じておりますではなくて、存じておりますです。彼女は、知っているのです。今までも聞いたことがあったし、それは耳に残っています。聞いたことがあるのです。そういう意味で、信じていますではなくて、存じています、です。
それに対して、イエスさまは、存じているならそれでいいとはおっしゃられません。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と知っている、存じていますで、ああそうですかではなくて、信じるかと、信じるということまで問うのは、それはマルタが、立ち向かいながら、ラザロの死という動かしがたい事実の中で、それでも、その事実にあらがうように、イエスさまに立ち向かっていったマルタ、マリアの、やっていることと言っていることが矛盾していても、そういう矛盾を抱えながらも、イエスさまに立ち向かっているその姿こそが、もうすでにイエスさまを信じていると、イエスさまは受け取っておられるからです。
信じるというのは、ハイ信じますという答えだけが、信じるという姿、かたちではなくて、立ち向かいながら、矛盾したことをいいながらも、それでもしっかりと向き合っていること、関係がないということではなくて、大いに関係を持ち、大いに立ち向かっている、その姿でもあります。それがマルタとマリアの本音です。本当の気持ちです。口ではなんだかんだと言いながらも、本当は、イエスさまに立ち向かいながら、信じているのです。そういう意味で、疑ったり、立ち向かったりすることも、関係があるから、関係を持とうとしているからこそ、出てくる姿です。つまり、ハイ信じますとは答えてはいなくても、もうすでに信じている姿があるんです。
だからイエスさまは、彼女たちに、「私を信じるか」と問われ、存じています、で終わらずに、信じるかと問われたイエスさまに、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子メシアであるとわたしは信じております」という告白につながっていくのです。
どうしてそこまでイエスさまは問われたのか?どうしてここまで確かめようとされたのか?それは、イエスさまが復活の命そのものであり、生きている命そのものをイエスさまは言葉をとおして、言葉そのものの中で、命を与えておられるからです。その生きている命の言葉に触れた時、その人は、ギリギリのところであっても、変えられていくのです。この命のことばをいただくことを通して、命を与えておられるイエスさまと共にある生き方、イエスさまと一緒に生きる生き方となっていくのです。なぜならば、イエスさまの言葉は、命の言葉であり、命をもってその人を生かす言葉となって、与えられているからです。