2021年4月11日礼拝説教要旨 松田聖一牧師

お金が動く、お金で動く(マタイ28:11~15)

 

イエスさまの復活の出来事の中で、一番を目指した方々がいます。それが、「数人の番兵」イエスさまがおさめられていた墓を、守る番兵たちです。彼らは、復活の知らせ、イエスさまが甦られて、生きておられるという知らせを聞いた、マグダラのマリア、もう一人のマリアといった人たちよりも先に、「都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告」します。

 

一番を争うように、彼らは「婦人たちが行き着かないうちに」都にいる祭司長たちに、すべてを報告したということですが、すべてという言葉には、あらん限りのとか、とにかく全体、全部、すべて、一切というすべてを伝えようという思いがみなぎっています。この番兵たちが、報告したすべての報告の内容は、彼ら自身が体験したことですから、具体的には、(4)「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」という、大きな地震と、主の天使が石をわきへ転がし、その上に座ったこと、天使の姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったという光景であり、それを目の当たりにした番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」ということです。ということは、彼らは、天使たちが婦人たちに言ったイエスさまが、「ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」という知らせをしっかりと聞くことができたか、というよりも、震え上がり、死人のようになったという状態では、イエスさまが甦られて、生きておられるという知らせよりも、大きな地震が起こったとか、稲妻のように輝いていた天使たちのことが、彼らには大きな、強烈な出来事として映ったと言えるでしょう。それを目の当たりにした彼らが、婦人たちの聞いた「あの方は・・・復活なさったのだ」という知らせよりも、先に、また婦人たちの聞いた内容の前に、目の当たりにしたことを、「すべて祭司長たちに報告した」ということが自然な流れだと言えます。

 

私たちは、目の前で、目の当たりにしたこと、それが大きな出来事であればあるほど、大きくクローズアップされていきます。もちろんその背後には神さまがおられること、神さまのご計画があるということを、どこかではわかっているつもりでも、目の当たりにしたことを、誰かに、一番に伝えたい、あるいは伝えようとしていくのではないでしょうか?

番兵たちの報告には、そういうことも含まれています。そしてその報告、イエスさまの墓で起きた大きな出来事、自分たちが死人のようになったこと、怖かっ

たことを、伝えていくその番兵たちは、大きなストレスにさらされたといっても過言ではありません。怖かった経験は、誰かに話さずにはおれない状態です。それを聞いてほしいという願いも当然あります。では、その時、彼らが報告した相手である祭司たちは、そんな彼らをしっかりと受け止めたのかというと、そうではありません。むしろ、自分たちの立場を守るためにはどうすればよいか、イエスさまが甦られて、生きておられることが、自分たちにとって、どれだけ脅威になるかを、感じていましたから、その脅威を少しでも取り除くためには、どうすればよいかということしか、考えられていなかったのではないでしょうか?それがイエスさまの復活、生きておられるということをなかったことにしようとして、何とかイエスさまの復活の事実をもみ消そうと動き始めるのです。

 

つまり、番兵たちの体験した、恐ろしい出来事を、しっかり受け止め切れていません。そしてそういうことをしている人たちは、誰かというと、祭司たちです。祭司たちというと、神さまの礼拝をつかさどる方々ですし、同時に、魂のケア、いろいろあったことや、その時々の気持ちに寄り添い、その気持ちを受け止めて、そこに神さまが与えて下さっている意味や、ご計画があるということへと、思いを向けさせる大切な働きがあります。しかしここで祭司たちがしていることは、番兵に思いを寄せるのではなくて、自分たちのことしか考えられていません。しかも、この番兵たちは、祭司たちの番兵です。祭司たちのために、本当に尽くしてくれた、本当に一生懸命になってくれている番兵です。それなのに、自分たちのために尽くしてくれている彼らのために、祭司長たちがしているのは、番兵のケアではなくて、自分たちのことしか考えていない状態です。彼らにとっての脅威、イエスさまが甦られて、生きておられるということで、自分たちの立場を脅かしかねない、ある意味では、恐ろしい出来事である、イエスさまの復活をなかったことにしたいということしか考えられていません。

 

そのために、今度は、兵士たちを利用し、使うのです。この兵士たちは、先ほどの番兵とはまた別の方々です。番兵は祭司長たちの番兵ですが、この兵士たちは、総督ピラトの兵士です。イエスさまには罪がない、イエスさまを釈放しようとしたけれども、祭司長たち、群衆の声に押されて、彼もまた自分の立場を守るために、群衆にイエスさまを丸投げしてしまった、そのピラトの兵士です。その兵士たちを、利用し使うために、祭司たちは長老たちと集まって相談し、「兵士たちに多額のお金を与えて」多額の銀貨を兵士たちに与えて(13)言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」と、兵士たちに言うのです

 

兵士たちが寝ている間にということは、イエスさまのお墓を守る番兵、祭司長たちの番兵がしていたことを、ピラトの兵士たちにすり替えようとします。墓を守っていたのは、祭司長たちの番兵です。ところが、番兵たちからピラトの兵士たちにすり替えて、そしてすり替えさせたピラトの兵士たちに、「我々の寝ている間に」と言わせていくことは、兵士たちが墓にはいないのに、寝ていたということは何もないのに、ピラトの兵士たちがあたかも墓を守る職務を、遂行していないということを、彼らに言わせていくということです。これはすごいやり方です。しかも、そもそも兵士たちは、守るべきものを守っているときに寝たら、それは兵士失格ですし、場合によっては、処刑されるかもしれません。それくらいに、職務を果たせなかったという責任は、重いのです。ところが、祭司たちや長老たちは、そういうこと、寝ていること、寝ている間に、イエスさまの遺体を盗んで行ったという、兵士たちが墓を守っていたわけではないのに、その場に兵士たちはいなかったのに、兵士たちにあるはずのないことを、墓を守る職務についていたということにさせて、その上で寝るなんてあってはならないことを、彼らがしたということも含めて、イエスさまの復活を否定しようとしていくのです。その上で、祭司長たち長老たちは、「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と、言うのです。

 

この総督を「うまく説得する」という言葉も、うまく総督をおだてて、味方に引き入れて、納得させ、説き伏せるという意味ですから、祭司長たちは、総督ピラトをうまく、おだてる方法、おだてて納得させる言葉、方法を、知っているのではないでしょうか?

 

おだてられたら、褒められたら、その気になってしまうこと、なってしまう人、これは私たちも目の当たりにすることがあるでしょう。おだてられたら、その気になってしまう人もいます。それはみんなそうです。みんなというときに、自分も含めてみんなです。自分以外の人をさしてみんなというのではなくて、自分も含めてみんなです。

 

そういうおだてることも、祭司たちは総督ピラトに対してもしようとします。その中で、お金が動くのです。兵士たちに多額の銀貨を与えて、ありもしない事実があったかのように、兵士たちに言わせていきます。それにしても、こんなに自分たちの責任を取ろうとしない、人になすりつけていく、姿を見るとき、祭司たちだけの問題なのか?というと、私たちにもないのではなくて、あるのではな

いでしょうか?自分もそこにいるし、そういう姿と同じ姿になりうるのではないでしょうか?

 

お金を動かすこと、お金で動くことは、時代劇に出てくるような、悪代官と備前屋とか、大黒屋といった商売人とのお金のやり取り、わいろということだけではなくて、自分の立場を守るために、切羽詰まった時には、人であろうが、お金であろうが、なりふり構わずに、やれることは何でもやってしまうのではないでしょうか?

 

その結果兵士たちは、祭司長からのお金を受け取ります。そしてピラトに従ったのではなくて、ピラトの兵士たちなのに、ピラトよりも、祭司長たちから教えられたとおりにします。そういうことが、お金が動くこと、銀貨というお金が動いて、そのお金を受け取ることで、なっていくのです。

 

この一連のやり取りを通して、見えてくるもの、それはお金が動くとき、人の心を変えていくことがあるということです。それは、そのお金に、人の心を変える力があるから、ということよりもむしろ、お金を用いる人、お金を動かす人、お金を受け取る人自身の内面において起こることだと言えるでしょう。お金そのものには意志はありません。しかし、お金を作り、お金を使う人、お金を渡して、そのお金を受け取る人自身の中で、人の心が変わること、それまでつかえていた主人から離れ、寝返りする人も含めて、出てくるということです。

 

そういう意味では、お金というのは、良いことにも、悪いことにも、いかようにも用いられていくということです。そういう現実が、お金を取り巻くいろいろな出来事にありますし、あったとしても、お金を超えたところで、神さまは働いていかれるんです。お金を用いられる神さまは、お金にとらわれないところでお金というものを、用いて、良いことも、良くないと感じることがある中で、甦りの主が、生きて私たちと共にいてくださり、お金で動くことをはるかに超えて、その人に届けられ、その人を変えていきます。その言葉を私たちはもうすでに、与えられて持っています。

説教要旨(4月11日)