「天の国は近づいた」

加藤 智恵 牧師  マタイによる福音書 5章1~12節

 

 イエス様はガリラヤ中を廻って諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されました。その評判を聞いて、ガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こうから、大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。イエス様はこの群衆を見られると山に上られました。山は神に近い所と言われています。そして教えるために、腰を降ろされました。山上の説教は5章から7章まで続く長い説教ですが、冒頭の言葉で「幸い」とは何かと語られたのです。

 「この世の幸福とは、それをいつまでも持ち続けたいもの」とアンドレ・モーロは言っていますが、この考えは時間に復讐されると言っています。時間はこのような幸福を変化させ、消滅させてしまいます。若い頃は若いなりに悩みはいつでもあります。高齢になれば成る程、体力・気力も失せていきます。一番良かった頃は、30代頃で、仕事もバリバリ出来た頃、努力すれば何でも出来ると思えた頃ではないでしょうか。しかし、そのような時は過ぎ去ってしまうものです。ですから幸福と思えることをいつまでも持ち続けることは出来ません。イエス様の教えて下さる〝幸い〟〝幸福な人〟とは、全くこの世の基準とは違うので、聞いている人はビックリしたことでしょう。

 3節の「心の貧しい人」とは、神にのみ信頼をおく人の事です。自分の心を低くして、神に栄光を帰する人のことです。4節の「悲しむ人々」について、この世に生きている限り悲しみは無くなりません。何かしら人は悲しみを抱えて生きています。けれど主イエスの弟子となれば、主にあって悲しみが真に慰められることを信じて、悲しみの中で幸いを与えられるのです。5節では、荒々しい武力は一時は地上の権力を欲しいままにしますが、やがてそれは失ってしまいます。それに対し、穏やかな心をもって人に接する柔和な人々は、人の苦しみに進んで手を差し伸べるおだやかな人です。そのような人々は神の支配のもとに置かれる祝福を持つのです。6節の義とは、神によって罪がおおわれ、聖徒として神の前に立つことのできる人です。義に飢え乾く者は、信仰により豊かに義が与えられるのです。7節の憐れみ深い人々とは、神の憐れみによって生きている人のことです。その事を真に知っている人が憐れみ深い人なのです。8節の心の清い人々とは、二心の無い状態です。その人たちは神を見るとは、神を一心に求める人たちは、神がどのような方であるかが分かるようになるのです。9節の平和を実現する人々とは、神の御心を知って、行動を起こす人のことです。平和を実現する人々は神の子とまで呼ばれるのです。神の子イエス様こそ、正に自分の命を捨てて平和を実現された方なのです。

 山上の説教をイエス様の傍で聞いた弟子たちは、イエス様が十字架に掛けられるまで、イエス様につき従って行きました。イエス様が公生涯に入られた時から、天の国は近づいたのです。

説教要旨(1月24日)