2026年3月29日礼拝 説教要旨

意に反してもなお(マルコ15:21~41)

松田聖一牧師

 

自分のやりたいこととは違うことが、思いがけない形で降りかかった時、いかがでしょうか?素直に、はい、分かりました、やりますと引き受けられるかというと、それがやりたくない内容であればあるほど、やりたくない!嫌だ!という気持ちが、先に立つと思います。その時、なぜ私がやらなければならないのか?誰か他の人じゃなくて、なぜ私に、なのか?ということも出て来ます。そういうことは、年齢問わず、どんな方にもあることですが、その中で、切り替えができる場合と、心が固くなってしまい、一旦嫌だということになると、その嫌という気持ちをずっと背負ってしまうこともあると思います。

 

そんな固くなるということについて、こんな言葉があります。「この頃ね~思います。若い時には、頭も柔らかいし、体も柔らかくて言うことを聞くけど・・・年を取ると、体も頭も、そして心も固くなる・・・」確かにその通りだなと思います。そういう意味で、思いがけないことが、降りかかった時、その内容が同じであっても、自分の年齢がどうか?によって、ずいぶん変わって来ます。その時、自身が頭や心が固くなってしまっている年齢になっていると、思うように、あるいは願うように、なかなか切り替えができないこともありますね。

 

それは、アレクサンドロとルフォスの父親である、シモンというキレネ人にとっても、イエスさまの十字架を無理に担がされた時も、そうです。というのは、シモンについて、アレクサンドロとルフォスの父親とありますが、アレクサンドロ、ルフォスという息子2人は、この時どれくらいの年齢であったかははっきりとは書かれていません。ただ子どもであったかというと、それぞれの名前に、少年アレクサンドロとか、少年ルフォスとなっていませんので、少なくとも当時の成人年齢であった15歳頃から上の年齢であったと言えます。そこから計算しますと、2人の父親シモンは、少なくとも30歳を過ぎていたと言えます。この30代という年齢ですが、今、30代だったら、若いわね~ですし、青年です。しかし、当時の平均寿命から言えば、30代というのは、もはや晩年なんです。だからもうあと何年生きられるか?という年齢にもなっているんです。

 

そんな中で、シモンは、イエスさまが、兵士たちによって、紫の服を脱がされて、元の服を着せられ、十字架につけられるために、外に引き出された時、「田舎から出て来て通りかかった」とある意味は、イエスさまに会うために、ではなくて、田舎から、野良から、畑から出て来て、そこを通りかかっただけです。しかも通りかかった、には、そのまま通り過ぎようとして、イエスさまの十字架をわきへそらそうとしているということでもありますから、イエスさまとの関りを持つまいと、十字架を避けようとして、そのまま通り過ぎようとしているんです。

 

そういう関わりを持つまい、関わりを避けようというのは、私たちと無関係かというと、そんなことはありません。大いにあると思います。それがどこに出て来るかというと、漠然としたものではなくて、非常に具体的に出ます。例えば、目と目を合わせようとしないこととか、目に出ますね。だから目を見たら分かるとか、表情を見たら分かると言った、表現もありますから、不思議なことですが、そういう内面が、すべてではなくても、どこかに具体的に出ます。

 

そんなシモンに、それでも「兵士たちは」「イエスの十字架を無理に担がせた」んです。無理に、ですから、シモンにとっては背負いたくない、背負うのは嫌だ、です。とにかくいやなんです。嫌だ!で固まっているんです。それなのに、担がされることになるんですが、そうなると、具体的には、十字架の重さも相当ありますから、2人の息子たちの父親世代、晩年のシモンにとっては、大変だと思います。しかも、無理に担がせたという言葉の、そもそも意味には、十字架をひったくるようにされた、奪うようにさせたという意味もありますから、兵士たちはシモンに、イエスさまの十字架をひったくること、うばうようにと命じて、十字架を担がせるんです。これもまたシモンにとっては、嫌なこと、やりたくないことです。それでもやっていることは、自分がひったくる、奪うということですから、やらせられたことであっても、その行為は奪うということなんです。

 

そして兵士たちも、イエスさまを十字架につけ、「その服」紫の服ではなくて、元の服を「分け合った。だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」と、くじを引いて、誰が何を取るかを、決めていきますから、イエスさまの服を奪い合うことです。こうした奪うということは、強盗と同じです。

 

そういう意味で強盗というと、次のように定義されます。「強盗(ごうとう)とは、暴行または脅迫を用いて他人の財物を無理矢理奪う犯罪、あるいはその犯人を指し、刑法上の処罰対象となる」このポイントは、人に暴行や脅迫をして、その人から財産を無理やり、その人の意に反して、これをあげましょうといった同意なしに、奪う行為であるということです。この強盗に、傷害がつきますと、強盗傷害になりますが、それは、傷を負わせて、奪うことです。また強盗傷害致死になると、死に至らしめてしまうほどの暴行を加えて、奪うということですから、シモンのしたことは、イエスさまに直接暴行を加えたわけではないけれども、兵士たちがイエスさまを十字架につけたという、傷害致死に当たる行為のために、その道具を担いだということです。だからシモンの思いに反してではあっても、兵士たちに協力した形になっているんです。ということは、シモンが兵士たちに協力したという点では、強盗だけに収まらず、強盗傷害致死という犯罪行為に、シモンも協力したことになるんです。その強盗の定義を、定義づける基本、基礎は何かというと、十戒にある「盗んではならない」です。

 

盗んではならないという戒めの意味について、こう解説されています。

 

盗むとはどういうことですか。たとえどんな小さなものでも、隣人の意志に逆らって、その持ち物を奪うことです。盗みにはどんなやり方がありますか。正しい権利を示そうともしないで、隣人のお金や持ち物を取ろうとするような、直接盗むやり方。ごまかしの取引によって、他の人の財産を奪おうとするような、隠れたやり方があります。この戒めに対する罪は、普通一般に行われておりますか。行われています。どんなことであっても、不正直は盗みだからです。

 

つまり、盗んではならないという戒めの根っこにあるものは何かというと、不正直、正直ではないということです。そうだなと思います。ごまかすこと、例えば、本来その人が受け取るはずのお金であれば、ごまかして受け取るはずの金額を歪めてしまうことです。

 

このことで1つのことを思い出します。それは教会学校のハイキングに出かけた時のことでした。電車に乗って、みんなで出かけて、川遊びをしたり、楽しいひと時でした。その時、高校1年生になったばかりで、教会学校のお手伝いをしてほしいと言われたので、引率する側の一人でした。やがて時間が来て、帰りの電車に乗って、駅で降り、教会に戻った後のことです。一人の先生が、「あれ?お金がたくさん余っている~」と言い出されまして、一緒に引率した方々が、どうしてだろう?往復の切符を買って行ったから、余るはずはないんだけど…その内に、どなたかが気づかれて、「あっ!駅員さんが、片道の料金だけしか取らなかったから、余ったんだ・・・」そこからです。いろんな声が上がりました。「駅員さんが間違ったんだから、このまま何も言わなくてもいいんじゃないの?」「でも、片道の切符代しか払っていないし・・・どうしよう?」そんなあれこれやり取りをした中で、1人の先生が言われました。「これは返しましょう。駅員さんが間違ったから、余ったお金だけど、ちゃんと払うものは、払わないとね・・・」それで一件落着。「ああよかった」と安心しました。金額としては、

大きくななかったと思います。でも金額の多い、少ないにかかわらず、「これは返しましょう」ことで、ごまかさずに済んだんです。

 

これをごまかして、そのまま返さなかったら、どうなっていたか?きっと駅員さんの方も、売った切符の値段と手元のお金が違うということで、大騒ぎになっていたかもしれませんし、そのことで、その駅員さんに、何かしたペナルティが課せられてしまったかもしれません。そしてごまかしたということで、盗んではならないとは、逆のことをしてしまいましたから、何かしら後ろめたいものを、引きずってしまったかもしれません。そのまま放っておいたら、どんどん罪が大きくなってしまうでしょう。でも「これは返しましょう」で一件落着でした。返しに行った時、駅員さんから、ありがとうございましたと、お礼を言われたことと思います。お互いに気分が良くなりますね。

 

つまり盗んではならないという、神さまが与えて下さった戒めは、単にモノを取っちゃいけないと言う、その行為だけを指しているのではなくて、不正直によって、人と人との関係も、また神さまとの関係も、破れてしまうということなんです。だから、兵士たちがシモンにしたことに始まるいろいろと見る時、最初は、強盗ですが、でも強盗にとどまらずに、そこから強盗傷害に、そして傷害致死に繋がることを、兵士たちは、イエスさまを十字架につけるという行為に現わしていくんです。具体的には、イエスさまを釘で十字架に打ち付けていきます。それですぐにはなくなりません。しかし、自分の体を釘だけで支えていく十字架刑ですから、長く十字架の上で苦しんだ後に、最後は、窒息死してしまうんです。

 

では兵士たち以外の「そこを通りかかった人々は」何もしていないのかというと、態度や言葉で、イエスさまを傷つけ、苦しめ、侮辱していくんです。それが直接強盗に当たるかというと、そうではないと思われるかもしれません。しかし人から奪うと言う行為、他人の意志に逆らって、奪うと言う盗むと言う行為が、不正直から来ていると言うことから見た時、彼らのイエスさまに対して言った「十字架から降りて自分を救ってみろ」とか、「十字架から降りるがいい」は、イエスさまが、神さまから与えられ、託された、すべての人の罪を身代わりに背負い、すべての人の罪を赦し、救うために、十字架の死に至るまで、神さまのご計画に従っていくと言う、その計画を歪め、イエスさまから奪おうとする言葉です。ことから、イエスさまの意志に反して、奪おうとする言葉です。

 

そんな兵士たち、人々が、自分に対してしていることに、イエスさまは、あらがったのかというと、全くそれはありませんでした。シモンに対しても、兵士たちに対しても、逆らわず、そのまま受け取って、そのまま十字架の上で、息を引き取られるのです。でもその時、イエスさまは、神さまにだけは、思いのたけを訴えていくんです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」でもその言葉は、本当なら、シモンや、兵士たちに向けられた言葉でもあるのではないでしょうか?なぜ神さまである私を、すべての人の罪を赦し、救うために来た私を、なぜ、あなたがたは見捨てたのか?と叫ぶのが、シモンや兵士たちとの関係から言えば当然です。でも、イエスさまは、それをなさらなかったんです。シモンや兵士たちを、責めませんでした。なぜでしょうか?それは、シモン、兵士たち、人々の、神さまからずれて、離れてしまった、その罪を、全部引き受けるためです。そしてすべてを引き受けて、そのすべてを十字架の死と共に、滅ぼし、葬り去るためです。そのことをイエスさまがしてくださったからこそ、赦しが、本当にその通りになるんです。

 

わたしの出会った人々という本があります。これは榎本保郎先生という方のものですが、その中で、牧師になってある教会に招かれた時のことが紹介されていました。その時、かつて自分が、学校で悪態をつき、やんちゃ坊主で、先生を困らせてばかりいた頃のことを全部知っておられた先生が、その教会に来られていました。

 

按手礼式の日から随分年月が立ったある日、わたしはある教会から招かれて講壇に立った。特別伝道集会の講師としてであった。壇上に立って聴衆を見渡そうとして一瞬、あっと息をのんだ。一番前の席、すなわち私の丁度目の前に、S先生のお顔を認めたからである。複雑な気持ちになった。授業中に弁当をたいらげて、それとなくたしなめられたほろ苦い思い出。先生あてに出したハガキに、「拝啓、前略御免ください」としたためたおかしな生徒。その生徒のためにずっと祈り続けていて下さった先生。本来なら先生が講壇の上に立ち、私が聴衆の一人として片隅で小さくなっていなければならない関係である。

それがこともあろうに、私が高いところに立って説教をしようとしている。先生はというと、後部の座席で試験官よろしく腕組みでもして私をにらみ据えていてもよいはずである。ところがS先生はというと、最前列で、しかもまるで大先生のお話を拝聴する初心者のように、誠実と謙虚さを絵にかいたような態度で座っておられるのである。

先生はどうして今日の集会を知られたのであろうか。按手礼式にはぜひとも参列していただきたかった先生である。しかしこういう場所には本当は来てほしくなかった。昔のやんちゃ坊主、先生を困らせてばかりした悪態、それをよくご存じの先生である。その先生の前で大見えを切ってみたところで、底を見透かされているような後ろめたさがあった。

そうしたとまどいの後、私は、自分が神さまから受けた恵みについて語った。大向こうをうならせようとは思わなかった。欠けだらけの、失敗だらけの、この私の上に注がれた恩恵の素晴らしさを話した。話しながら先生の方を見ると、先生の両眼にいっぱい涙をためておられる。先生の涙を見ているうちに、こちらの涙腺もあやしくなってきた。それでもなんとか無事に話を終えることができた。私が講壇を降りようとすると、先生は真っ先に私に近づいてこられた。そして私の手を握ると、「榎本先生、ありがとう、ありがとう。今日のように感動したのは初めてです。本当にありがとう」と言ってくださった。かつての師弟は肩を抱き合って泣いた。出来の悪い生徒であった私を、その生徒のために長い間祈り続けて下さった先生。そのふたりは今や基督にあって1つとされているのである。周りからのすすり泣きの声が聞こえた。

 

イエスさまの赦しは、すべての罪を、全部、残らず十字架の上で引き受け、引き取ってくださったからこそ、その赦しがあります。その赦しに出会った時、人は変えられていきます。

 

だからこそ、兵士たちがいろいろしてしまった、その兵士たち100人を纏める百人隊長も、自分がしてしまったこと、兵士たちを動かし、兵士たちに命令し、シモンに無理やり担がせた十字架、イエスさまを十字架につけ、2人の強盗を十字架につけると言う命令を、部下の兵士たちにした、自分が、イエスさまに対して、どんなにひどいことをした自分であったか?自分がどんなに罪深い者であったか?そのことを、目の当たりにし、思い知らされていきました。それでも、イエスさまが、十字架の上で、すべての罪を身代わりに引き受けて下さった、そのイエスさまの赦しに、「本当に、この人は神の子だった」との信仰に変えられていくんです。2人の強盗もそうです。イエスさまに出会って、ギリギリのところで変えられていくんです。

 

イエスさまの十字架の死は、ただ十字架でイエスさまが亡くなったということではありません。私たちの罪が、完全に赦された、その赦しが、私たちのためであったことを、イエスさまが、私たちに命を懸けて、現し与えておられるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月29日)意に反してもなお(マルコ15:21~41)