2026年3月22日礼拝 説教要旨

人生の坂(マルコ10:32~45)

松田聖一牧師

 

ある方が、「人生には2つの坂があると。上り坂と下り坂がある。」そう言われた時、別の方が、いやそれだけじゃなくて、もう1つある!それは・・・・まさか、という坂だ。そうおっしゃっていました。まさかという坂…それはそうだなと思います。私たちにとって、まさかという時があります。そんなことになるなんて・・・という、まさかがあります。その時、自分の思いとは違う、想定外のことが起きています。だから、びっくりしますし、恐れます。

 

例えば、階段の上り下りを考えてみましょう。階段を登ったり、降りたりする時には、足を上げたり、降ろしたりしながら、上ったり下りたりしますが、時々、あともう一段あると思い込んでしまうことがありますね。その時、自分の意識も、足も、あともう一段ある、つもりになっていますから、そこに階段がないとあっ!となります。あるいは、階段がまだ続いているのに、もうここで階段は終わりだと思い込んでしまうといった時もそうですね。その時、階段がないと思い込んで、足をそのつもりで動かしますから、そこにもう一段あると、想定外、まだ一段あった!と、バランスを崩したり、場合によっては、こけそうにもなります。

 

そういうまさか、が、「エルサレムへ上っていく途中」、「先頭に立って進んで行かれた。」イエスさまに従っていく、弟子たち、イエスさまと一緒にいた者たちにも起こっていくんです。というのは、この時、イエスさまは、丘の上、山の上にあるエルサレムを目指して、坂を上っていきますが、エルサレムに上った後、エルサレムから再び上って来た坂を下ることはもはやなくて、そのままエルサレムで十字架にかかられるという、ことが起こるんです。それはイエスさまについて行った人々にとっても、弟子たちにとっても、まさか、です。でもイエスさまは、どんなに彼らにとってまさかであっても、「自分の身に起ころうとしていること」すなわち、これからやって来る、担がなければならなかったこととして「祭司長たちや、律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。」と、3度もおっしゃっているんです。ではそういう十字架にはりつけになるようなことを、イエスさまがしたのかというと、その罪を誰も見いだせないんです。ピラトという総督も、この人には罪はないと、十字架に付けることはないと、はっきり言っていきます。それなのに、イエスさまは、自分が苦しみを受け、引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、唾を掛けられ、鞭打たれること、そのために、祭司長たち、律法学者たち、また異邦人に引き渡されるとおっしゃられ、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれていくんです。

 

その鞭ですが、意味を詳しく見ると、ユダヤ人の鞭です。その鞭は、皮の鞭です。それで打たれるのですが、それで終わりではなくて、その後、ローマ人の鞭を使っての鞭打ちが待ち受けているんです。その鞭は、恐怖の鞭と呼ばれていて、皮の鞭に無数の金属片とか、骨のかけらが縫い付けられていて、それで打たれますから、イエスさまの体に、その鞭が当たった時、イエスさまの皮膚や、肉が金属や、骨のかけらが食い込んで、イエスさまの皮膚や、肉がはがれ、もぎとられていくんです。その痛みは、想像を超えた痛みです。だから十字架刑は、最も残酷で、残忍な刑罰であり、だからこそ重罪人が受ける刑罰だということなんです。

 

ところが、イエスさまはその十字架刑に値する罪を、誰も見いだせないのに、十字架に付けよと言われた、その声と群衆に引き渡され、苦しみの果てに、磔にされるんですから、これはえん罪です。矛盾でしかありません。またそのイエスさまについて行き、従って行った弟子たちにとって、到底受け入れられるものではありません。なぜ十字架に付けられなければならないのか?という疑問が出てきます。しかし、その一方で、十字架刑の犯罪人とされてしまうイエスさまに、ついて従っている、自分たち自身の立場も、彼らは考えてしまうのではないでしょうか?具体的には、このまま一緒について、従っていけば、自分達も犯罪人の仲間というレッテルを張られてしまい、イエスさまと同じ目に遭うのではないか?そういうことが出てきますから、それに立ち向かうか、あるいは自分の身を守ることに、一生懸命になり、そうならないように逃げよう、関係を断ち切ろうともするのではないでしょうか?

 

辻宣道先生の書かれた「嵐の中の牧師たち」の中に、お父さんである、辻啓蔵牧師がホーリネス弾圧により、青森刑務所で獄死された下りがあります。そこで、亡くなられたお父さんを引き取りに、家族が出向いた時、辻先生は、父親の亡骸を火葬場に運ぶ途中、こう思ったと告白しています。「もし神さまが本当に生きているなら、こんなにひどい、むごたらしい目にあわせはすまい。20年間、ただ神さまのために働いて来た人じゃないか」その日以来、私と言う少年は、キリスト教と絶縁した。・・・

何をやっても自由である。死のうと生きようと勝手である。私は世の中が馬鹿らしくなっていた。はけ口のない不満に私はにがり切った。いっそのこと、どうにでもなってしまう世界に生きてみよう。私は軍隊に志願した。少年の心に芽生えた素朴な神は義なり、は、誰からも解答を与えられぬまま、凍結していった。

人は軍隊の思い出を語る時、苦しかったと口にするが、私は楽しくて仕方なかった。ここでは世間をはばかる陰湿な思いはない。誰も懲役人の子どもといって後ろ指はささないのだ。カーキ色の集団は、人を1つの機械に作り上げ、油と皮のにおいは男らしさをみなぎらせる。私は軍隊で心身共に安息を得た。あの少年の心をさいなんだ日は、もうここにはない。神さまなんぞ、くそくらえであった。貧しい伝道者の家庭に育った私は、冬服に夏服、網状靴(あみじょうくつ)を二足もくれる軍隊の生活に満足を味わった。家族は貧しさにいじけ、本人は獄死してしまうような商売はまっぴらご免であった。だがこのささやかな平安も、敗戦と共に音をたてて崩れていった。たった一人の貧しい少年の希望など無残に吹き飛ばすように嵐は荒れ狂い始めた。私も同様であった。」ここに、当時の先生の思いが溢れています。この後、再び教会に帰っていかれ、静岡草深教会で召されるまで働かれますが、まだ10代の少年であったこの時の、気持ち、お父さんが投獄され、獄死したという懲役人の子どもとなった時の思いはどんなだったかと思います。その時の気持ちを、おもんばかることができるかというと、当事者でない限り、私たちが、どんなに考えても、想像しても、同じ立場には立てません。その気持ちが分かるか?と言われば、分かりませんとしか言えません。

 

弟子たちや、従って行った者たちの、不安、恐れには、そういうこともあるんです。でもその彼らの恐れに、私たちが共感できるかというと、出来ません。結局は分からないんです。ここに私たちの限界があります。それはそうですね。人の思い、人の気持ちというのは、内面のことですから、他人には、いくら説明しても、分からないからです。それがいいとか、どうとかではなくて、弟子たちの、驚きも含めて、恐れは、その人の驚きであり、その人の恐れです。だから、その人以外の人が、分かり得るかというと、ある程度は、何かしら周りも感じることはできるかもしれませんが、全部分かるかというと、分からないんです。

 

その分かりません、は、ヤコブとヨハネという二人の弟子も、同じです。では何が分からなかったのか?というと、それは、ヤコブとヨハネが進み出て、イエスさまに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの1人をあなたの右に、もう1人を左に座らせてください」と願った時、この二人が、イエスさまの十字架の死と復活を、イエスさまが栄光を受けられることとして、受け止めているところから来ています。確かに、イエスさまの十字架の死と復活は、イエスさまが神さまとして、救い主として、すべての人の罪を、十字架において身代わりに受けて下さり、赦しを完成されたという意味では、栄光を受けたということです。しかし、実際には、イエスさまは十字架の上で苦しまれ、そこで息絶えていかれるんです。また、ヤコブとヨハネが「お願いすることをかなえていただきたいのですか」と願った、イエスさまの十字架の右と左には、誰がいたのかというと、ヤコブとヨハネではなくて、2人の強盗が、イエスさまと同じ十字架に、磔にされていくんです。ところが、ヤコブとヨハネは、そういうことになるとは分かっていないんです。ただイエスさまが栄光を受けられる時、イエスさまの右と左に座らせてくれと頼むのです。

 

これは、とんでもない勘違いですし、他の弟子たちにとっても、まさか、です。イエスさまは、十字架の死と復活を通して、すべての人を赦す赦しを成し遂げてくださるのに、そのことをヤコブ、ヨハネは、分からずにいるんです。では他の弟子たちは分かったのかというと、いいえ、全然分かっていません。ヤコブとヨハネが、自分達だけ、イエスさまの右と左という一番身近な、一番いいところに座ろうとしていると受け取っていますから、ヤコブとヨハネに裏切られたと感じることでしょう。では、分かっていても、右や左にと、ヤコブやヨハネは言えたのかといったら、それは彼らもイエスさまと共に、右や左に立てられた十字架に磔にされることですから、ヤコブとヨハネにとって、イエスさまの右に左に座らせて下さいと言う願いも、まさか、そんなことになろうとは、ということに向かって行く願いになっていくんです。それが分かっていないから、座らせてくださいと願っているんです。

 

では、そう願い出たことの根っこにあるものは何でしょうか?それは、ヤコブ、ヨハネの欲望です。少しでもいいところにいたい、他の弟子たちのことなんて、どうでもいい、という、無茶苦茶な、支離滅裂な内容です。それでも右に、左に座らせてくださいと、言ってしまうのは、欲望によって、自分達が何をしているのか、分からなくなっているからです。欲望というのは、そういうことになっていくんです。そういう意味で、自分がしたいこと、自分が願っていることだけに、一生懸命になってしまうとき、そこに欲望があると言えるのではないでしょうか?

 

小学生の頃、母と一番下の弟と一緒に、エルという大きなショッピングセンターに買い物に行った時のことを思い起こします。年齢を重ねると、昔のことは、よく覚えているものだと思いますし、あるノルウェーの先生と話した時にも、「お互いに、年を取ると昔ばかしが多くなるよね~」と言ったこともありましたが、その通りだと思います。その買い物に行った時に、買い物を済ませて、買ったものを、籠からビニール袋に入れられるように、台がいくつかありまして、そこで袋に入れていた時でした。母親が、何か買い忘れたかと思いますが、買い物に行って来るので、弟を見ておいてねと言われ、台の上に、まだハイハイだった赤ちゃんの弟と私が待つことになりました。その時、丁度台のところに、小さなビニール袋が巻いてあるのが目に留まって、自由に引っ張り出すことができるようになっていましたから、そのビニールが欲しいと思ったので、ビニールを一枚一枚はがして、台の上できれいにたたんで持って帰ろうと思って、やっていた時、急に、泣き声がしてみると、台の上にいたはずの弟が台の下に落ちていました。そうしたら母親は駆けつけるわ、お店の中にいたお客さんも大勢集まって来て、大騒ぎになりました。下に落ちた弟もけがもなく何もなかったのですが、その時の思いは、ビニール袋が欲しいということで、そちらに一生懸命になっていて、ちゃんと見ていなかったということで、悪いような、恥ずかしいような思いになったことでした。弟よりもビニールに一生懸命になっていたんです。それで台の上から落っこちてしまう時にも、気づかなかった、分からなかったんです。

 

ビニールが欲しい!という、これも欲望ですね。自分のやりたいようにしたい、思い通りになるようにしたい!と、それに一生懸命になってしまうと、結局は、他の人はどうなってもいい!という残酷な、鞭を打ち、その人の皮膚をはぎとり、その人を見捨て、その人を切り刻んでしまうようになるんです。そんなことは私には関係ないと、思っておられるかもしれません。私には、理性もあるし、冷静に物事を考えることができるから、大丈夫だと、今は思っていても、いざ、何かのことで、自分のしたい欲望が、強く出て、欲望の塊になってしまった時には、自分でも分からないほどの自分になってしまうのではないでしょうか?だからこそイエスさまは、この2人に「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」分かっていない、彼らが、何を願っているのか、分かっていない、知らないという、彼らの現実、欲望の塊になってしまった彼らの現実を、はっきりと見て、はっきりと「分かっていない」とおっしゃられるんです。

 

でもそういう彼らを、イエスさまは責めないんです。ただイエスさまは、彼らに、「私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない」と、ヤコブやヨハネが願っていることに対して、ヤコブやヨハネが決めることではなく、私の決めることでもないと、彼らが願っていたことを、これ以上願わなくてもいいように、欲望から、彼らから切り離そうとされるんです。それは他の弟子たちにもそうです。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」も、彼らがダメだと否定するためではなくて、お互いに、仕えて、お互いに、お互いの僕になること、だと、おっしゃられるんです。このイエスさまがおっしゃっておられることが、本当にその通りになったら、自分達だけのことを考え、欲望に駆られて分からなくなることも、腹を立てることも、なくなりますね。

 

でも実際には、そうはなっていきません。じゃあイエスさまがおっしゃられたことは、実現不可能なことなのか?というと、その通りです。私たちも、そうです。100%実現することはできません。だから分かっていないという言葉は、私たちにも突き付けられ、迫ってくるんです。ではそれを分かりましたと、そのまま素直に受け取れるのかというと、時と場合によっては、腹を立てるかもしれません。自分の中では、ここまではできているのに、それができないと言われると、プライドを傷つけられたようにも思うでしょう。しかしイエスさまが、「できるか」と問われる意味は、99%出来たら、後の1%できなくてもいいとか、ちょっとできなくても、かまわないということではなくて、イエスさまが求められるのは、100なんです。100にどんなに近づいたとしても、100のつもりになっていても、完全な100にならないと、それは100ではないんです。1できなくても、0コンマがいくつもついているほどの、わずかなことであっても、100でなければ、それは100ではないんです。そういう意味で、誰かよりも偉くなりたいとか、皆に仕えるなんてできないとか、一番上になりたいとか、人を押しのけたいといった、欲望がたとい1でも、0点00001であっても、それがあるがゆえに、分かっていないと言う答えが、そのまま帰ってくるんです。

 

だからこそイエスさまは、十字架にかかるために、十字架の上で、欲望を含めた罪を、私たちに代わってすべて引き受けるために、先頭に立って進んで行かれるんです。その結果が、十字架の死です。このことを私たちはどう受け止めるのか?というと、イエスさまの十字架の死と復活は、私たちの為であったと同時に、私たちが、イエスさまをそこまで追いやり、そこまで追い込んでしまった結果であるということ、イエスさまを十字架に付けたのは、私たちであったということにも向き合うことです。そう言う意味で受難節のこの時、私たちのために十字架にかかり、罪を赦して下さったイエスさまに思いを向けることと同時に、私たちの罪が、イエスさまを十字架に付けてしまったこと、イエスさまを殺してしまったと言う、そのおぞましさにも目を向けることが、大切なことではないでしょうか?なぜなら、イエスさまの救い、赦しが分かるようになるのは、罪が分かるようになるからです。罪が分からなかったら、救いも赦しも分からないからです。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月22日)人生の坂(マルコ10:32~45)