2026年3月1日礼拝 説教要旨

内輪とは誰か(マルコ3:20~25)

松田聖一牧師

 

イエスさまは、弟子たちだけではなく、イエスさまのところに集まり、イエスさまに従って行った人々に、何度もおっしゃいます。それは、「出て行って」「出かけて行って」ということです。その意味は、物理的に自分のいる場所にじっとしているだけではなくて、気持ちの面でも、自分の気持ち、自分の思いから出て行くこと、それは自分の殻をやぶってでも、あるいは少し壊してでも、閉ざされたところから出て行くことを、願い、期待し、信じておられるからです。

 

逆に言えば、私たちが、出かけることなく、閉ざされたところに、とどまり続けていたら、気持ちの面でも、自分にとって、こうだ!とか、そうするしかないのではないか!といった思いに凝り固まってしまい、視野が狭くなってしまうことを、イエスさまは分かっておられるからだと言えるでしょう。

 

病院で長い間入院生活をされた方が、ご自分の辛かった経験から、1つのプロジェクトを立ち上げました。同じような状況にある子供達に、少しでも希望やつながりを届けたいと言う思いでされています。その動機について、こうおっしゃっていました。

 

私は幼少期から繰り返した入院生活の中で、病室という限られた空間に閉じ込められ、友人や学校、外の世界との接点を失う強い閉塞感を味わいました。治療の辛さに加え、孤独や不安に押しつぶされそうになる経験は、自分にとって大きな原体験となりました。その体験から「同じ状況にある子どもたちに少しでも希望やつながりを届けたい」という思いが芽生え、チャレンジをしています。

 

それはそうですね。入院という限られた空間に閉じ込められてしまうと、自由や選択肢がなくなってしまいますし、友達と交流することもなかなかできません。誰かと一緒に何かを共有することができないというのも、大きなストレスです。さらには外に出ることがなかなかできませんから、自分の視野、思い、経験も含めて、その世界が、どうしても小さくなり、狭くなってしまうのではないでしょうか?

 

そのことが、イエスさまが帰って来られた家に集まって来た人々にも、またその、人間関係にも現れているのではないでしょうか?というのは、イエスさまのもとに集まって来た群衆を見る時、イエスさまのおられる家において、「食事をする暇もないほどになった」とありますが、この意味は、ご飯をゆっくり食べる暇がないというよりも、群衆はパンを食べることもできないということなんです。つまり、パンを食べたくても、食べられないし、食べるための方法が、この家の中にはないということになります。それは群衆が、イエスさまがおられる家にいるからです。でも、パンを食べたければ、どこか別のところに出て行って、パンを手に入れたらいいわけです。それなのに、群衆はその家に、「また」集まって来たということは、群衆が、イエスさまがおられるその家から、自分の持ち場に出て行くことや、パンを手に入れられるところに出て行くということが、出来ないでいるか、あるいはその家に帰って来たイエスさまが、自分達にパンを用意してくださるのではないか?そこに依存して、自分達では何もしなくてもいい、という思いに凝り固まって、そこから離れられないでいることが、「また集まって来た」ということに現れているのではないでしょうか?

 

それは、イエスさまのことを聞いて、取り押さえに来たイエスさまの身内の人たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた、エルサレムから下って来た律法学者たちも、それぞれが「あの男は気が変になっている」と、誰かからそう言われていたこと、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と、自分たちが言っていることにとらわれ、離れられないでいる姿があるのではないでしょうか?

 

でも「あの男は気が変になっている」とか、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という、これらの内容は、事実に基づいているのかというと、その根拠は何もありません。だから、はっきり言って偽情報、誤った情報です。それなのに誤った情報を、誰かから言われ、誰かが言い、あるいは自分達が言っていることを、本当だと受け止めてしまって、その情報に、身内の人も、律法学者も、流され、呑み込まれ、取りつかれ、そこから離れられないでいるのではないでしょうか?

 

そんな間違った情報に、飲み込まれ、取りつかれ、離れられないというのは、身近なところにもありますね。

 

福島県のある新聞に、こんな記事が載っていました。「福島県郡山市の80代女性が26日、孫を装う人物らから現金100万円をだまし取られたと郡山北署に届け出た。同署は「なりすまし詐欺」事件として調べている。同署によると、女性方に9日、孫を名乗る人物から「会社の書類や携帯電話、財布を盗まれた。会社の取引相手に書類とかお金を渡さなければいけないから、お金を貸してほしい」と電話があった。信じた女性はその後、自宅を訪れた男に現金100万円を手渡した。女性が家族に相談し、被害に気付いたという。」

 

この事件は、本当はお孫さんじゃないのに、孫になりすまして、相手をだましてしまったということですが、同じようなことに、引っかかりそうになった方から、体験談を伺いました。「電話がかかって来た時、もう頭の中が真っ白になって!パニックになってしまったわ!でも、少し落ち着いて、家族に電話をしたの。そうしたら、娘が、それはオレオレ詐欺だ!と言ってくれたので、ハッと気づきました。危ない所でした!」とおっしゃっていましたが、自分には、そんなことは起こらないと思っていても、ひっかかってしまうこと、ひっかかりそうになってしまい、だまされかけることがあるんです。それは、イエスさまの家に集まったいろいろな人々においても同じです。

 

ではイエスさまは、その人々に向かって、そんな間違ったことを言ったり、間違った判断をしてはいけないとか、間違った情報をうのみにしてはいけないとか、流されてはいけないと、おっしゃられるのではなくて、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」とたとえを語られるのは、悪魔であるサタンがサタンを、追い出せないということ。その結果、サタンとサタンとは、仲間同士となり、お互いにぴったりとくっつき合い、依存し合って、お互いにサタンと言う立場に留まり続けていることです。それと同じことが、国であれ、家であれ、「内輪で争えば」と繋げておられるのは、1つの限られた国、1つの家という限られた空間、社会の中から抜け出そうとせず、抜け出せなくなる時にも、相手がサタンであっても、どんな相手であっても、仲間になり、一緒になり、相手と同じものになってしまうということではないでしょうか?

 

しかし現実はというと、例えば、AさんとBさんという2人の人が、全く同じになれるかというと、2人は、それぞれに個性がありますし、違う存在ですし、考え方も、感じ方も、それこそ個性は違います。ところがその2人を、全く同じ、仲間同士、ぴったりとくっついて、離れない関係にしようとすれば、どちらかが、どちらかに、全く同じに合わせないと、同じにはなれません。理屈では、そう言えるのかもしれませんが、実際には、そんなことはできるはずがありませんし、そうはならないです。それでもなお、一緒にしようとすれば、Aさん、Bさんという2つのそれぞれの個性が、全く失われてしまうのではないでしょうか?具体的には、何も感じられず、何も思えない、何も言えない状態になってしまいます。それは人として、気持ちを一切押さえつけて、感覚がマヒした状態です。

 

そういうことが、内輪で争うことを、避けよう、1つの国の中で、1つの家の中で、内輪で争うなんて、家も、国も成り立たなくなるから到底できない、してはいけないというところに、追い込まれてしまうと、自分はこう思うとか、こう感じるとか、いやそれは違う!ということを、一切我慢して、押さえつけ、抑え込んでしまうんです。でもそれは、自分の本当の気持ちを、ここまで言いたいことがあっても、我慢していますから、すごく大変です。自分がどうかなってしまいそうになるかもしれません。でも、「国が」「家が」成り立たない、内輪で争ったら、壊れてしまうと感じた時には、そうせざるを得なくなってしまうのではないでしょうか?それでも、それでいいのかというと、我慢しているんです。その我慢も、我慢できる時は、我慢できますが、我慢できない時、我慢を越えた時には、どこかで発散しないと、爆発してしまいます。

 

だから強い人を縛り上げなければという方向に行くんです。でもそれができるのか?またその後にある「だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」とある通りできるか?というと、強い人を縛り上げ、その人の家に押し入ることも、家財道具を奪い取ることも、その家を略奪することも、やはりそれはしてはいけないことだ、それはできないことだと、ブレーキをかけてしまい、また我慢してしまうのではないでしょうか?でも、本心は、縛りあげたいと思っている時には、縛り上げたくなるんです。奪い取りたくなるんです。自分のものにしたくなるんです。しかし実際にはなかなかできない、してはいけないということに縛られて、自分を我慢させていくという、悪循環になってしまうんです。それが内輪において、その家において、国において、起こり得るんです。

 

じゃあ、どうしたらいいのでしょうか?自分を押さえつけて、我慢し続けたら、それでいいのでしょうか?では、内輪のままで何とかなるんでしょうか?いいえ無理が出てきます。

 

だからこそイエスさまは、家の中から、家の外にいた母マリアと兄弟たちによって、外に呼ばれて、連れ出された時、イエスさまの回りにいた人々も、外に出るんです。家から外に出るんです。そしてその外に出た人々に、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされた時、外に出て、イエスさまの回りに座っている人々に、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と内輪で、内輪から離れられないでいた群衆も含めた人々を、外に出されて、外に導いてくださり、その外から、内輪の争いを、収めてくださるんです。

 

そして外に出る事、自分の思い、考えの外に一旦出てみる事で、内輪がどういうものであるか?内輪が、誰なのか?が見えて来るのではないでしょうか?同時に、その内輪から、外に出して下さるということは、家の中、自分の思いから、抜け出せなくなっていた中から出して、外に、イエスさまが遣わしてくださるということではないでしょうか?

 

毎週の礼拝で、頌栄を賛美し、祝福の祈り、祝祷の前に、「派遣の言葉」がありますね。「主は言われます。「わたしは誰を遣わすべきか。」わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。キリストの平和の使者として、行きなさい。」

 

その意味は、中にずっといることが目的ではなくて、ここから遣わされていくこと、キリストの、イエスさまの平和の使者として、行きなさいと呼びかけて下さる神さまが、私たちを、外に出して下さり、それぞれのところに、派遣してくださるということなんです。ここに留まるのではない。自分の思い、考えの中にじっとすることでもない、そこから出て行くんです。遣わされるんです。だから内輪にはならないんです。

 

教会というのは、そういうところです。集まることが目的ではなくて、集まるけれども、平和の使者として遣わされていくことです。峠三吉さんという詩人がおられました。この方の詩は、広島にある平和公園にも刻まれていますが、その詩の1つに「よびかけ」と題しての詩があります。「よびかけ 峠三吉 いまからでもおそくはない あなたのほんとうの力をふるいおこし、へいわをねがう人の泪(なみだ)をぬぐうのはおそくはない。」今からでも遅くありません。今からでも、平和の使者として、遣わして下さいます。そのために外に出して下さり、その外で、イエスさまは、わたしの兄弟、姉妹、また母である、その人と、出会わせてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月1日)内輪とは誰か(マルコ3:20~25)