2026年2月8日礼拝 説教要旨
和解への道程(マルコ2:1~12)
松田聖一牧師
若い方々にとって、昔のことを、何と表現するかというと、昔は~とは言わないですね。じゃあ何て言うかというと、昭和だ!とか、昭和っぽいとか、昭和の雰囲気だ!いう表現に変わっています。確かに昭和が終わってから、37年になりますから、もう40年近いですね。それだけ昭和が以前のことになったんだと、思いますが、その昭和の初売りの様子が映像で残っています。タイトルも「昭和の初売り」というもので、それを見ると、すさまじいですね。開店前から行列ができて、開店と同時にねらい目の福袋を目指して、お客さんが走って行きます。そしてお目当てのものを手に掴もうとするのですが、他にもほしい方がおられるようで、その商品の引っ張り合いになります。取り合い、奪い合いのような感じになり、人が入る隙間がないほどに、押し合いへし合いになります。そうすると、荷物はこっち、自分の体はこっちという具合になってしまい、荷物を自分の手元に持ってこようにも、人にはさまれて、どうすることもできません。身動きが取れませんし、人に押しつぶされそうにもなります。その初売りに行かれていた方が、インタビューでこうおっしゃっていました。「もう命からがら。けんかがおこって。綺麗に並んでたんですよね。私たちも買える位置にはいたんですよね。そしたら、後ろからどーっと、それこそ獣と同じでしたよ。人間じゃなかったですね。あの状態では。」人が密集して、身動きが取れなくなった時の恐怖を語っていました。それくらい、人が押し合いへし合いになるというのは、ああたくさん人がいていい!なんて悠長なことではないんです。きわめて危険な状態です。自分の体や、自分の手持ちのものが、自分のことなのに、自分でもどうすることもできなくなるばかりか、人に押しつぶされて、息ができなくなってしまうことにも繋がるんです。それくらいに怖いことなんです。
それが、イエスさまのおられる家に、「戸口のあたりまで隙間のないほどになった」状態です。それこそ隙間がありませんから、そこにいる人たちも、自分でも、自分のことを、どうすることもできないんです。そこに「4人の男が」中風の人を運んで来ても、その家の中に入れようとしても、もちろん入る隙間がありませんし、それでも無理やり入れようとしたら、たちまち、そこにいた人々に押しつぶされてしまいます。
そういう状態であっても、この4人の男たちは、中風の人を、御言葉を語っておられたイエスさまのところに連れて行こうとして、運んで来たんです。でも、この時、この中風の、寝たきりの人は、自分から、イエスさまのところに連れて行ってほしいとか、運んでほしいとは、何も言っていません。でも、この4人の男の人たちは、この人が何も言えなくても、イエスさまのおられるところに運んで来たんです。
ここに、この中風の人と、4人の人たちの、人間関係が見えてきます。それは、この人が何も言わなくても、言えなくても、4人の人たちに、イエスさまのところに連れて行こうという気持ちにさせていく、何かがあるということと、この人が何も言えなくても、この人の気持ちに寄り添い、この人の気持ちを想像して、受け止めながら、それに応えようとしている4人の姿です。そこまで理解し合える関係にもなっているとも言えるでしょう。このことに、教えられること、学び、育てていかなければなければならないことが、私たちにも多くあるのではないでしょうか?
というのは、私たちに繋がりのある人、いろいろおられますよね。身近なところでは家族です。他にもいろいろと出会う方がいます。その時、相手の人が何も言わなくても、何かを感じる力を持つということは、とても大切なことだと思います。その想像力があるかないかによって、人間関係が変わって来るからです。もちろん人の気持ちというのは、そもそもその人が、いくら説明しても、その人の内面のことですから、周りが完全に理解できるものではありません。気持ちは、分からない世界ですし、その人にとっても、分かってもらえない世界です。でも、その気持ちを、たとい口にはできなくても、理解しようとすること、その努力をしようとするかしないかによって、また分かろうとすることを育てていこうとするか、しないかによって、人との関係は、全く違うものになるのではないでしょうか?逆に、その努力をしようとしなくなったら、人との関係も、なかなかうまくいきませんし、その結果は、自分に帰ってきます。だからこそ、気持ちという目に見えない世界を、どう受け止め、どう想像していくか?想像しようとするか?ということは、いつでも、どこでも、誰においても、必要なことではないでしょうか?
そういうことが、この人を「運んで来た」という、この言葉に詰まっているんです。と同時に、「運んで来た」という言葉には、担い、携え、忍んで受けた、という意味もありますから、この中風の人を運んで来た彼らは、自分の思いに反して、忍耐してやらなければならないから、だから運んできたということでもあるんです。それはそうだと思います。1つは戸口のあたりまですきまがない状態で、どうやってイエスさまのところに連れていけるのか?いや無理だという思いになったと思いますし、4人の人たちには、それぞれに自分のしたいこと、しなければならないこと、生活があったことでしょうから、どうしてこの人のために、イエスさまのおられるところまで、時間を割いて、大変な労力を使って、そこまでして運ばなければならないのか?その思いがなかったとは言えません。しかも、この病人が寝かされていた「床」は、立派なものではなくて、貧しい人たちの寝床ですから、立派なものではなくて、どこか壊れていたり、穴が開いていたり、寝床としては不十分であったかもしれませんから、そういう寝床に寝たきりの中風の人を、イエスさまのおられる家まで、4人がかりで運ぶと言うのは、無謀であると言えるでしょう。だからなぜ僕がするの?なんでしなければならないの?という思いにもなると思います。しかし、そうであっても、この4人の人は、中風の人を、イエスさまのところに運んできたその時、「運んで来た」にある、もう一つの意味「風が吹いて来た」とある通り、新しい風が吹き、何かが動き始めるんです。
この「風が吹いて来た」から言える具体的な1つは、それまで寝たきりの生活だったこの中風の人が、4人の男の人に連れ出してもらえたことで、外の風に触れることができ、吹いて来た風に、当たることができたということです。それはすごい刺激です。外の風に当たるだけで、元気になれます。シャキッとします。
それは教会に来られることも、そうですね。教会に行こうと思ったら、家から一歩外に出ます。すると外の風に当たります。それから、車に乗って、あるいは乗せてもらって、教会に来れば、人と顔を合わせることができます。その瞬間に、何が動き出すかというと、まず口ですよね。もちろん、教会では、礼拝前に静まって、待ち望みましょうとあります。その通りですが、実際には、教会に来られて、じっと黙ったままかというと、手よりも、口が先に動き出しますよね。そして、その同じ口を使って、讃美歌を歌い、お祈りをします。やがて礼拝が終わると、静かに黙って外に出るかというと、出る前の間にも、またお互いにおしゃべりをしながら、それぞれ家に帰って行かれます。今は寒いですから、玄関からすぐに車に乗り込む方が多いと思いますが、あたたかな春になると、玄関から、車に乗るまでの時間が、暖かくなればなるほど、長くなりますね。大体ですが、玄関から、その外に出るまで15分、外に出てから車のところに行くまで15分、そこからまた駐車場で、おしゃべりをしたり、そのおしゃべりが車の中でも続くこともあると思います。そういうことも含めて、礼拝を通して与えられるお恵みがあります。神さまから力を頂き、元気を頂けるんです。それが風が吹いて来たと言うことですし、その風によって、新しいことが始まる風、これから何かが起こるという風を、神さまは与えて下さるのではないでしょうか?それは、中風の寝たきりの人にも、この4人の男の人にも、そうです。何かがこれから起こるという風、これからに向かう新しい風が、吹いて来て、何かが動き始めるんです。
その1つが、「戸口の辺りまですきまのないほどになった」人だかりのために、イエスさまのおられる家の屋根の上に、中風の人と一緒に上がって、イエスさまの「おられるあたりの屋根をはがして穴をあけ」ることです。これは周りの人々にとっても、その家の持ち主にとっても、予想外のことです。確かに、人の家の屋根をはがして穴をあけるというのは、この当時の家は、土レンガを積み上げた作りですから、はがそうと思えば、はがせます。でも、いくら戸口から入ることができないと言っても、それは無茶苦茶な方法です。そこにいた人々が受け入れられることかというと、決してそうではないことです。でも、穴をあけるんです。すると、その穴から、風が入って来るんです。またその家の戸口も、すきまのないほどにすし詰めでも、玄関の上の方は空いていると言えますから、屋根のその穴と、玄関、戸口の空いたところとが、丁度風の入り口と出口とが繋がりますので、風が吹きぬけるようになります。と同時に、穴が開くことで、昼間でも、夜でも、太陽や月の光が部屋の中まで届くようになるのではないでしょうか?そしてその光は、イエスさまにも、釣り降ろされた中風の人にも、その部屋にいた人々にも、射し込み、照らされていく光となるのではないでしょうか?
そしてその光は、この4人の男の人たちの内面をも照らす光となっていくんです。だから、「運んで来た」にある、忍耐、忍んで、という内面のこと、すなわち、寝たきりの、全く力が入らない状態の中風の人を運ぶことが、どれだけ大変なことか?という思いや、大変だから嫌だと言う思い、それでも、この中風の人が何も言わなくても、イエスさまのところに、この人を連れて行きたい!連れて行ったら、何とかなるんじゃないか?イエスさまに何とかしてほしい!という、その時の思いをも、照らしていくのではないでしょうか?それだけではありません。その光は、この4人の人と、中風の人を、阻んだ群衆をも照らすんです。それは後から来て、イエスさまのところに連れて行こうとしたことに対して、阻もうと言う思いや、ひょっとしたら、ここには来てほしくない!から、もうこれ以上家の中に入れまいとする拒絶の気持ちであるかもしれませんし、またイエスさまのおられる辺りの屋根をはがすこと、穴をあけること、病人の寝ている床をつり降ろすことに対しても、屋根をはがして、穴をあけるという、無茶苦茶な、とんでもないことをした!といういろいろな思いに対してかもしれません。
そういう意味では、イエスさまを前にして、語られる御言葉を前にして、いろんな人が、いろんなことを思っているんです。その中で、イエスさまは、中風の人を運んで来て、屋根からつり降ろした、この4人に、「信仰を」見るんです。
でも4人のやっていることは、無茶苦茶です。でも、この中風の人を、イエスさまのもとに、屋根に穴をあけてでも、イエスさまのところに運ぼうとするその姿に、信仰を見るんです。でもそもそも、信仰は見えるものかというと、信仰そのものは目に見えません。しかしイエスさまは、その信仰を見るんです。そしてその信仰を、イエスさまだけが、見ることができたら、それでいいということではなくて、イエスさまは、屋根に穴をあけ、その中風の人をつり降ろしていくという、見えるものを通して、信仰を見えるようにしてくださるのではないでしょうか?それは、中風の人に言われた「子よ、あなたの罪は赦される」という罪の赦し、神さまとの和解もそうです。この罪の赦しも目には見えません。しかしその赦しが与えられた時、その赦しも、見える形に変えられて、見えるものとされていくんです。それが、この人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」とおっしゃられると、この人は、「起き上がって、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」姿であり、起き上がると言う意味である、それまで死んだ状態であったのに、神さまが神さまの手で、もう一度神さまと共に生きる者とされたという、赦された姿を、人々の前に見えるようにしてくださっているんです。
だから人々の、「このようなことは、今まで見たことがない」は、寝たきりだった人が、起き上がったという出来事を見たことがない、というよりもむしろ、神さまを信じる信仰と、神さまから離れた生き方から、神さまに赦された、罪の赦しが、見えるものになったことを、「今まで見たことがない」ということなんです。
80の使命というタイトルで、ある一人の方が、それまで「生涯青春、終生現役」これが、つい先ごろまでの私の、意地もあっての、口癖でした。に始まり、脳梗塞を患った時のことを振り返って、こうおっしゃっていました。
昨年11月2日午前10時少し前、全国から「中高年女性セミナー」なる講習会に参加してくれた受講生の皆さんに、これから1時間45分の講義を始めようか、と講師控室で待っておりました時、いきなり舌がもつれ日本語がちゃんと喋れなくなりました。ろれつが回らなくなったわけです。ところが、意識もはっきりしているし、歩けもします。義歯(ぎし)でもおかしくなったのかな、なんて呑気に考えていたものです。結果は、「脳梗塞」であったのですが、2時間近くかけての脳外科での診察の結果「脳内出血なし。脳幹部に、小規模の出血あるも入院の必要なし。2、3カ月自宅で安静にしていれば、春には仕事に戻れるだろう」という診断が出ました。取り敢えず脳卒中ではありますので、最悪の場合も覚悟しておりましただけに、ホッとしました。と同時に、神さまへの感謝、殊にこのダメ信徒の私に、神さまが「お前には、まだやるべき仕事が残っているはずだよ」と囁いて、生きることを許してくださったのであろうことへの感謝が胸いっぱいに広がっていった瞬間のことは忘れられません。嬉しかったです。その私が、脳外科の診察を終え、家まで送られる車の中で繰り返し思い出していたのは、あの作家ヘルマン・ヘッセが言った、「年をとっているということは、若い事と同じように美しく 神聖な使命である」という言葉でした。これは、かなり以前から好きな言葉だったのですが、この時のこの言葉は、それまでに経験のない激しさで、私に迫ってきました。でも、高々20分足らずのクルマの中では、この言葉が私に迫ってくる理由が、私には分かりませんでした。でも、2、3日するうちに、それは私の心の中に大きな、人間としての心構えの変化が起き始めつつあったせいであることに気付きました。強がり言ってみたって、粋がってみたって、脳梗塞にやられたってことは、僕も、もう若くはないんだっていう何よりの証拠だろ。でも、それがどうしたというんだ。ヘッセが言ってくれてるじゃないか。「年をとったということも、美しく神聖な使命でもあるのだよ」って。よしきた、それじゃ、僕も一丁、その使命感というやつに燃えてやろうじゃないか。それが、脳梗塞という、ひとつ間違えれば言葉を失うことにだってなりかねなかったような大変な危機に立たされながら、なお神さまが僕に「まだやるべきことがあるはずだよ、お前には」と囁いてくださった、その有難い顧みに、信徒としてお応えする僕の務めというものではないのか、という自問自答。それが、この度の病気を機に、私の心に起きた大きな変化でありました。
「まだやるべきことがあるはずだよ。お前には」まだやるべきことがある、それは私たちにもそうです。まだやるべきことがあります。なぜなら、神さまが、私たちのこれからを赦して与えて下さっているからです。そのことを信じる信仰も、罪の赦しも、神さまから与えられます。その時、神さまへの感謝と喜びが与えられます。新しい風が吹くのです。
祈りましょう。
