2026年1月25日礼拝 説教要旨

どこまで向き合っているか(マルコ1:21~28)

松田聖一牧師

 

能登半島地震が起きた時、一人の方が、車に乗って高台に避難しようとした時のことです。急いで車を走らせていたのですが、ふと車を止めて、急いでバックし始めました。それは、通りすがりにその道を1人のおばあさんが杖をついて歩いているのを見たからでした。それでそのおばあさんのところにすぐに行って、ドアを開けて、その方はこう叫びました。「乗らっし!」早く乗って!と車に乗せ、急いで動き出した途端、津波がやってきました。その時間僅か数秒のこと、間一髪で、何とか逃げることができ、無事だったのですが、少しでも遅かったら、助からなかったかもしれません。そういう意味で、間髪入れず、即座に、すぐにと言う時、また後からとか、また今度では間に合わないという、切羽詰まったことがあると言えるのではないでしょうか?

 

その間髪入れず、即座に、すぐにということが、「一行はカファルナウムに着いた。」と「イエスは、安息日に会堂に入って教え始めらえた」という言葉の間に、日本語には訳されていませんが、聖書のもともとの言葉には、はっきりと記されているんです。ということは、イエスさまがカファルナウムに着いて、会堂に入って教え始められた、には、人々に教え始めることも、汚れた霊に取りつかれていた男に会うこと、その男性に取りついていた汚れた霊に、向き合うことも、また今度とか、時間があったらやりましょうではなくて、とにかくすぐに、間髪入れずに、しなければならない、すぐにしなければ間に合わないということが、あったということなんです。だからまた今度にしようとか、時間があったら次にしよう、という選択肢はないんです。とにかくすぐに、間髪入れずに、なんです。

 

では私たちにとっても、また今度じゃなくて、すぐに!ということを、どう受け止めるでしょうか?

 

ある2人の方が、何かのことについて、するかしないかということを話していました。その時、1人の方が、「また今度ね~」と言いました。すると、もう1人の方がこう言いました。「また今度って言っていたら、いつのことになるか分からない。1年経って、また今度になったら、結局何もできないじゃない?いつするの?しないの?どうするの?」その結果、それではしましょうということになり、前に向かって進み始めましたが、また今度と言っていた人は、実は本当はしたくなかったんです。不安もありましたし、勇気がなかったということで、また今度と言葉を濁していたんですね。

 

そういうことってありますね。また今度!いつかまた!とか、またの機会に、また是非〇〇しましょうとか、いろいろな社交辞令がありますが、それはただ社交辞令というだけではなくて、本当はやりたくないから、また後でとか、また今度とか、また是非と言葉を濁してしまって、また今度と後回しにしてしまうこともあるのではないでしょうか?じゃあ、そのまたの機会の、また、が来た時に、どう答えるのか?また今度ね~になってしまったり、その内に、言ったことを忘れてしまったり、気持ちが変わって、また今度ではなくて、もうやらないになってしまうこともあるのではないでしょうか?しかし、今必要なこと、今、動かなければならないことがあれば、それはまた今度では間に合いません。すぐに、即座に決めて、動き出すことではないでしょうか?

 

だからイエスさまは、すぐに教え始め、すぐに汚れた霊に取りつかれた男性、汚れた霊と向き合うんです。また今度とか、ちょっと休憩してからではなくて、今すぐ、即座に、間髪入れずに、なんです。

 

そのイエスさまに対して、汚れた霊は、「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言い返すんですが、この言葉の中にある「かまわないでくれ」は、私たちとあなたとは何の関係があるのか!いやない!関わってほしくない!関わるな!放っておいてくれです。その通り、この霊は、イエスさまにかまってほしくない、関わってほしくないんです。そして、イエスさまを「正体は分かっている。神の聖者だ」すなわち、私は、あなたを何者であるか、知っている、神の聖者だと言う意味は、この霊は、イエスさまが聖なる神さまであることを、知っていると言うことと、同時に、イエスさまを神の聖者と認めるのも、自分だということですから、あくまでも自分がイエスさまよりも優位に立とうとして、自分の手の中で、イエスさまを支配しようとしていることではないでしょうか?

 

別の見方をすれば、汚れた霊にとって、自分が、全ての中心にあること、神さまではなく、自分こそが中心にあるということに、しがみついて、離れようとしていないことでもあるんです。

 

それぞれの国が出している世界地図を見ると、例えば日本で出ている世界地図でもそうですが、日本が真ん中ですね。じゃあお隣の国の中国や、韓国ではどうかというと、やっぱり自分の国が真ん中、中心です。その時、日本は端っこに小さくあるのを見ると、日本は本当に小さな国だなと改めて思います。そういう

地図1つでも、自分たちの国を中心に書くということは、人の中にも、自分が中心で、周りの人は、周りの人という意識があるのではないでしょうか?そういう自分が中心ということから、我儘が生まれて来るんです。自分勝手が出て来る、自分の思い通りに、人は動いてくれると勘違いしてしまうことも、実は自分がすべての中心だということに、自分が立っているからです。ということからすると、今日の聖書に出て来る汚れた霊というのは、何か特別な存在のように見えますが、実は、私たち自身が持っているものと、何ら変わらない者だ、も言えるんです。

 

それがこの男の人に取りついていると言うことではないでしょうか?では、そもそもこの霊は、この男に何をしたかったのでしょうか?あるいは、この男の人から何かしてもらいたかったのでしょうか?そのことについては、何も書かれていません。ただ取りついていたと言うことから言えば、この霊は男の人に、べったりとくっついていたい、この人にとにかくべったりし続けたいということだったのではないでしょうか?そうなると、この男の人の人生は、この霊の操り人形になってしまいますね。でもこの男の人にも、この人の人生があります。やりたいこと、やってみようとすること、思うこと、感じること、それはこの男の人の人生の中で、与えられ、繰り広げられていくものですから、汚れた霊のものではありません。

 

しかし、べったりくっつかれることによって、この男の人の人生は、この霊に奪われてしまうんです。それでもなお、取りついていたということは、べったりくっつくことで、自分を守ろうとしたのではないでしょうか?その一方で、この男の人も、べったりとくっついてくる汚れた霊が、べったりとくっつくことを、認めて、受け入れていたという面もあると思います。理由は具体的には分かりませんが、べったりくっつく霊に、この男の人も、よりかかっていたのではないでしょうか?

 

コバンザメというサメがいますね。コバンザメは、自分よりも大きなものに、ピタッとくっつきますが、どうしてくっつくのかについて、こんな解説があります。コバンザメが他の生物にくっつくのは、移動、捕食、外敵からの保護、繁殖の機会確保のためです。頭部にある小判型の吸盤を使い、大型の海洋生物に吸着します。くっつく理由。コバンザメが他の生物にくっつく主な理由は以下の通りです。自分で泳ぐ労力を省き、エネルギーを節約します。くっついている生物の食べ残しや寄生虫、排泄物を食べます。大型生物にくっつくことで、外敵から襲われる危険が減ります。複数匹でくっつくことで、子孫を残す相手を見つけやすくなります。といったことでしたが、ピタッとくっつくというのは、何も相手が好きだからということでは必ずしもなくて、結局はくっつく相手を利用しているということではないでしょうか?そしてピタッとくっつく必要がなくなったら、離れて行くんです。それがこの男の人と、汚れた霊の共通点ですし、人と人との関係においても、同じことがあるのではないでしょうか?

 

そうなると、べったりくっつかれた人にとって、困る時があります。身動き取れなくなるかもしれません。反対に、くっつくことで、お互いに安心してしまい、そこにどっぷりと漬かってしまうこともあることでしょう。しかし、そもそも、コバンザメも、コバンザメがくっついているものもそうですが、くっつかれた人にも、くっついた人にも、それぞれの人生があります。平たく言えば、あなたの人生と、私の人生は違います。同じではありません。もちろん、何かのことを一緒にすることはありますし、助け合うことも、共に歩むことも大切です。しかしお互いの人生は、同じにはできませんし、同じにしてはいけません。それなのに、お互いに、べったりになることで、安心してしまうと、お互いが同じでないのに、また同じにしてはいけないのに、同じようにしようとする力が働いてしまい、どこかにひずみが出てきてしまい、そのままにしておくと、お互いにお互いの人生が引き裂かれてしまうのではないでしょうか?

 

イエスさまは、その姿を、この男の人と、取りついている汚れた霊に見たんです。だからこそ、その霊にイエスさまは、「黙れ。」静かにせよ、口をつぐめ!と、「この人から出て行け」とお叱りになるんです。出ていけです。べったりくっつくなです。離れなさいです。その時、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」とこの霊は、それまで取りついていた、この男の人から大声をあげて出て行っただけではなくて、出て行く前に、この男の人に「けいれんを起こさせ」て、すなわち、身体的なけいれんを起こさせただけではなくて、自分が中心になり、すべての上に立とうとし、すべてを自分の手の中に収めようとしていた、その1つのことから、この霊は手を切っていくんです。その結果、霊は、この男の人から出て行っただけでなく、この男の人は、イエスさまとは関係なしと言っていていた霊からも、引き裂かれ、離れることができたんです。

 

ただし、この男の人は、その後どうなったかは分かりません。イエスさまに従っていこうとしたのか?どんな人生を送ったのかについても、分かりません。しかし、そうであってもイエスさまは、この先、これからどんな生き方をするか、分からなくても、この霊から、関係ないとか、関わらないでほしいとか、滅ぼしに来たのかと言われたり、傷つけられながらも、関わられたんです。そして、イエスさまは、取りついていた汚れた霊に、出ていけと言って、引き裂いて下さった事実を、この男の人に残しているのではないでしょうか?

 

解放への招きというタイトルで、こんな言葉があります。「喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。これがキリスト者の在り方の原点だと思いますが、実際は泣く人と共に泣くより、喜ぶ人と共に喜ぶ方が難しいと思えます。泣く人のそばにいて、「お気の毒ね、祈っていますから」などと言えても、喜ぶ人と一緒に「良かったわ、私も嬉しい」などと言いにくいものです。そして成功した人が一度失敗しようものなら、「ざまあミソラシド」などとひそかに心で喜ぶおぞましさを持つのです。なぜこうなるのでしょう。妬み(ねたみ)です。妬みが喜ぶ人と共に喜ばせなくするのです。嫉妬とはなぜか女へんで描くのですが、男の嫉妬もなかなか陰湿です。サラリーマン社会は嫉妬構造社会だと言った人がいます。そればかりか、宗教家のねたみも凄いものがあるし、この私にだって‥‥。ある妬み深い人がいました。まず人をほめない。人の良い面には心を閉ざし、悪口ばかり言い、暗い雰囲気を作り出す名人でした。それというのもうらみが原因でした。その彼女に、いつも悪く言われている人が、「あなたって恵まれているわよね、元気に教会に毎週来られているし、強い気持ちでいられるし、うらやましいわ。神さまに感謝しなきゃね」と何気なく言いました。その人は嫌味でも皮肉でもなく、心からそう思ったのでした。人のよい所を進んで見ようとする人のひと声は、彼女をハッとさせるに十分でした。与えられている恵みに感謝せず、当然のことだと思う。それでいて他人がいい思いをしているだろうとあれこれ考えねたんでいる自分の問題点を、そのひと言で暴露されたと感じたのでしょう。与えられている恵みに感謝する、その分、嫉妬心から遠ざけられるようです。「主に感謝せよ」これはかくして嫉妬からの解放への招きでもあります。

 

さてこの後、ねたんでいた彼女が、どうなったかは何も記されていません。でも本当に自分のことを心から思って言って下さった、「あなたって恵まれているわよね、元気に教会に毎週来られているし、強い気持ちでいられるし、うらやましいわ。神さまに感謝しなきゃね」は、その彼女に残り続けているんです。

 

イエスさまが向き合って下さる時、関わろうとされる時、それは当たり障りのないものではなくて、当たり障りのあるものです。だからイエスさまは、傷つくんです。しかし傷ついても、相手が汚れた霊であろうと、誰であろうか、本気で向き合おうとしておられます。その結果、出て行く人もいるかもしれません。どうなったか分からないままのこともあるでしょう。イエスさまの願い通りにしたかどうかも分からないことです。しかし結果がどうなっても、イエスさまは、その人にとって最も必要なことを、与えた、という事実は、残り続けるんです。そして、イエスさまがここでしてくださったことを通して、私たちにも、1つの問いかけがあります。それは、どこまで向き合っているか?この問いは、私たちに、これからも続く問いとなっていきます。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月25日)どこまで向き合っているか(マルコ1:21~28)